その日、正志は、数年ぶりに故郷へ帰った。
 予期せぬ出来事で恋人と喧嘩をし、話が拗れて、双方疲れ果て、別れる事を選んだ末の話だ。
 苛々し、毎日が辛く、どこか遠くへ消えたいと願った挙句、溜まった年休を全部使った。休暇が終わって会社に戻ったら自分の席はないかもしれないと思ったが、それでもいいと思った。
 つまりは、現実から逃げて来たのだ。

 正志の実家は、地元では多少は名の知れた裕福な家だ。貸しビルや駐車場、マンション等もいくつか経営している。お陰で羽振りも良い。だがそのため、父親は趣味のゴルフと釣りに熱中し、母親は海外スターに入れあげて、ロケ地巡りやコンサートなどで、双方、殆ど家にいない。実家に帰るといっても、いるのは十八歳で結婚してその二年後、生まれたばかりの赤ん坊を連れて出戻って来た妹だけ。
 その妹というのがまた厄介だ。
 旦那とはあまりいい別れ方ではなかったらしく、男に厳しいし、男なしでは生きていけないような媚びた女にも厳しい。一人で生きるにはきつさも必要なのだろうが、始終眉を吊り上げ、怒ってばかりいる様子を見ると辟易とする。どちらかというと、いい加減で優柔不断な正志には、苦手な人間だった。
 会いたくないな……咄嗟にそう思った正志は、実家が見えてきた時点で足を止め、引き返した。とりあえず実家近くの海岸を目指す。
 最近、再開発が盛んで、昔に比べると、町もやたら近代的になり、東京とそう変わりなくなってきた。だがまだまだ、置き忘れられた場所が無いわけではなく、正志の目指した海岸もその一つだ。リゾート地として綺麗に整備された隣のビーチと違い、うらぶれたムードを湛えたままの海岸は、時流に乗れず、野暮ったく暮らす自分のようで、人影もなく寂れている。

 その海岸近くに、正志の家が所有する小さな平屋があった。だいぶ前、昭和の時代に、曰く付きの親子を匿っていた家だとかで、台風が来れば崩れ落ちるのではないかと思うほどボロい家屋だが正志にとってはいい隠れ家だった。両親に叱られたとき、クラスメイトと喧嘩したとき、妹に馬鹿にされたとき、嫌なことがあると必ずそこへ篭り、一人きりの時間を満喫した。
 ボロくても雨風は凌げるし、あちこちガタがきていても、電気もガスも水道も来ている。家出するにはいい場所だ。だからその日も、そこを目指した。故郷に戻って来たからと言って、なにも実家に戻ることはない。どうせ家に両親はいないだろうし、気の強い妹に嫌味を言われたくない。

 潮の香りを味わいながら、少し湿った砂地を踏み、その家に辿り着く。改めて見ると、少年時代に逃げ込んでいたその家は思っていたよりも、ずっとボロくて小さかった。風の一吹きで吹き飛んでしまいそうな木造の平屋の周りには、同じく風が吹けば壊れそうな薄い板塀があり、塀には苔と雑草の蔓が絡んでいる。見栄えはともかく、この蔓が塀や家の壁を補強する役目をしてるのかもしれない。
 そこへ逃げ込んだ子供のころを思い出しながら、玄関に立つ。だがそこでふと、鍵を持って来ていないことに気づいた。どうしよう……一瞬躊躇ったが、このボロ屋だ、鍵などかかっていないかもしれない。そう考えて、引き戸を引いてみる。案の定、玄関の鍵は開いていた。
「お邪魔しまーす」
 誰もいないはずなのだが、なんとなく妙な気配を感じて、っそろそろと中へ入った。久しぶりに入った家の中はシンとしてるが、思ったより綺麗だ。埃一つ溜まってないし、なにより、どことなくだが生活観がある。
 玄関入って、目の前に続く板張りの床を進む。古くなった床板がギシギシと鳴り、なぜかドキドキした。誰かに見られているような気がして、自分の家だというのに、ついつい足音を忍ばせる。入ってすぐの右手には襖で仕切られた四畳半ほどの和室がある。人の気配はない。左側は便所と洗面でやはり誰もいない。少し進むと今度は左手に同じく襖で仕切られた和室があり、そこは少し広くて六畳間、そこも無人。右手は中庭続きの縁側になっている。そこにも人影はない。あとは突き当たりに台所、その右手に風呂場があるだけのはず。正志はなぜか酷く緊張しながら、ゆっくりと室内を進んだ。
 台所から、なにか音がする。誰かいる……妙にドキドキしながら引き戸を開ける。

 *

 そこには、細長い包丁を持った女が一人、立っていた。
 驚いた正志は、お前は誰だと叫ぼうとする。だがその前に、女のほうが口を開いた。
「誰、ですか?」
「ぇ……?」
 女の声は、異様に静かで、深い森の中から湧き出でる岩清水のような、深く神聖な響きを持っていた。目線も表情も落ち着いたもので、いきなり現れた正志を見て、動揺した様子もない。なんとなく、人間ではないような気になる。天女か鬼女かと言われれば、本気にしてしまいそうだ。
「あなたは誰かと、聞いている、のです」
 正志が見惚れていると、女は再び口を開いた。やはり綺麗な声だ。女性にしては少し低めかもしれないが、そのぶん深い、不思議な声だ。相変わらず落ち着いた表情で、真っ直ぐに正志を見つめている。それまでの人生で、誰かから、こんなに真っ直ぐに見つめられたことのない正志は動悸が激しくなるのを感じていた。
「ぇ、僕は糸村……いや、キミこそ誰だ?」
「私は、風祭、ユキ、です、ここに、住んでいます」
「ユキ、さん……」
 ユキと名乗ったその女性は、仮面のように動かない表情で、一言ひとこと区切るように、とてもゆっくりと喋っていた。言葉遣いがたどたどしい。日本名だし、顔も普通にアジア系、いや、日本人のようだが、外国籍なのかもしれない。それに、最初は包丁に目が留まり、気づかなかったが、素晴らしく美人だ。色白で綺麗な肌に勝気そうな瞳をしている。冷たい表情に似合わず、情の篤そうなふっくらした唇が印象的に見えた。
 しかし服装がいただけない。男物と思われる飾り気のないカットソーに麻ズボン、前袷になっているので、形としては作務衣なのかもしれない。カジュアル着というよりは、武道家が着る胴衣かなにかのようで色気も素っ気もない。色もアイボリーと紺で地味過ぎる。アクセサリーもなし、化粧気もなしだが、着衣が大きめなので、細い手首が目立つ。世間知らずの小娘……という印象が否めない。
 しかし、美人だ。
 なんともいえないその佇まいに、気後れした正志が黙り込むと、ユキは包丁を流しの横へ置き、身体ごと向き直った。フワリと舞うシャツの裾にうっかり見惚れる。
「あなたは誰、ですか?」
 問いかけられ、ハッと気づく。
 今、彼女は、ここに住んでいると言った。ということは、実家からこの家を借りて住んでいるということで、不法侵入者は自分のほうになる。
「す、すみません! 僕は糸村正志、この家の大家の息子です」
「糸村さんの……」
「はい」
「で、糸村さんの息子さんがなぜここへ?」
 責めるでもなく、怯えるでもなく、彼女は淡々と訊ねてきた。そうなると余計焦る。悪いことをしようとしていたわけではないのに、疚しい気分になった。
「すみません、昔よく遊んだので、懐かしくなってつい……いや僕も今日、こっちに帰って来たばかりで」
 気が焦り上擦って、口ごもってしまった言い訳を、どうとったのか、彼女は静かに、わかりましたとだけ答えた。そしてまた向き直り、さっき横においた包丁を手に取る。
「帰って来たばかりでしたら、お腹も空いているでしょう? 今、丁度食事を用意するところでした、そこで待っていてください」
「え?」
「すぐ出来ます、食べていってください」
「そんな……ぇ、いいんですか?」
「はい」
 いきなり現れたいかにも胡散臭い男に、彼女は食事を勧めた。本当にいいのかと遠慮すると、食事は一人より二人で食べたほうが美味しいですからとだけ答え、野菜を刻み始める。まるで、ずっと昔から知っていた人のような、懐かしく優しい空気に少し驚きながら、正志も頷いた。

 いくら大家の息子と名乗ったとしても、なんの前触れもなく、いきなり侵入して来た男を食事に誘う。普通はそんなことあり得ない。本当なら、不法侵入、または痴漢か強盗かと警察に通報されるところだ。
 不思議な気分を引き摺ったまま、正志は隣の六畳間へ戻り、そこで彼女、ユキを待つことにした。そして数十分後、ユキが現れる。

「お待たせしました」

 彼女は大きめの盆に、見事な本膳、二汁五菜を乗せて来た。
 正志は、タウン誌の編集に携わる仕事していて、つい先月、都会で庶民がお手軽に食べられえる本膳料理というのを取材したばかりだ。だからわかる。これは普通の家庭料理ではない、職人が造る完璧な膳だ。
 膾《なます》、根菜の焚き合わせ、蕪の浅漬け、鰆の香味焼き、青豆の白和え、それに桜色の紫飯と青菜の吸い物と、二の汁として白身魚の吉野汁。どれも美しく盛り付けられ、食べるために崩してしまうのが勿体ないようだった。
「凄い……こんな正式な本膳料理、久しぶりに見たよ」
 感嘆して呟くと、ユキも少し意外そうな表情で顔を上げた。
「本式やったら、菓子と酒もつけなあかんな」
「え……?」
 そこで思わずといった感じで呟かれた言葉に驚いて、正志も顔を上げる。その途端、正面から目が合い、どきりとした。必要以上に高鳴る心臓の音を気にしながら、今なんと言ったんですかと訊ねる。すると彼女は、独り言ですよと、笑った。その微笑に心魅かれる。
「あの……」
「どうぞ、食べてください、温かいものは温かいうちに食べるのが、造った者への礼儀です」
「ぁ、はい、そうですね、いただきます」