その日、正志は、数年ぶりに故郷へ帰った。
予期せぬ出来事で恋人と喧嘩をし、話が拗れて、双方疲れ果て、別れる事を選んだ末の話だ。
苛々し、毎日が辛く、どこか遠くへ消えたいと願った挙句、溜まった年休を全部使った。休暇が終わって会社に戻ったら自分の席はないかもしれないと思ったが、それでもいいと思った。
つまりは、現実から逃げて来たのだ。
正志の実家は、地元では多少は名の知れた裕福な家だ。貸しビルや駐車場、マンション等もいくつか経営している。お陰で羽振りも良い。だがそのため、父親は趣味のゴルフと釣りに熱中し、母親は海外スターに入れあげて、ロケ地巡りやコンサートなどで、双方、殆ど家にいない。実家に帰るといっても、いるのは十八歳で結婚してその二年後、生まれたばかりの赤ん坊を連れて出戻って来た妹だけ。
その妹というのがまた厄介だ。
旦那とはあまりいい別れ方ではなかったらしく、男に厳しいし、男なしでは生きていけないような媚びた女にも厳しい。一人で生きるにはきつさも必要なのだろうが、始終眉を吊り上げ、怒ってばかりいる様子を見ると辟易とする。どちらかというと、いい加減で優柔不断な正志には、苦手な人間だった。
会いたくないな……咄嗟にそう思った正志は、実家が見えてきた時点で足を止め、引き返した。とりあえず実家近くの海岸を目指す。
最近、再開発が盛んで、昔に比べると、町もやたら近代的になり、東京とそう変わりなくなってきた。だがまだまだ、置き忘れられた場所が無いわけではなく、正志の目指した海岸もその一つだ。リゾート地として綺麗に整備された隣のビーチと違い、うらぶれたムードを湛えたままの海岸は、時流に乗れず、野暮ったく暮らす自分のようで、人影もなく寂れている。
その海岸近くに、正志の家が所有する小さな平屋があった。だいぶ前、昭和の時代に、曰く付きの親子を匿っていた家だとかで、台風が来れば崩れ落ちるのではないかと思うほどボロい家屋だが正志にとってはいい隠れ家だった。両親に叱られたとき、クラスメイトと喧嘩したとき、妹に馬鹿にされたとき、嫌なことがあると必ずそこへ篭り、一人きりの時間を満喫した。
ボロくても雨風は凌げるし、あちこちガタがきていても、電気もガスも水道も来ている。家出するにはいい場所だ。だからその日も、そこを目指した。故郷に戻って来たからと言って、なにも実家に戻ることはない。どうせ家に両親はいないだろうし、気の強い妹に嫌味を言われたくない。
潮の香りを味わいながら、少し湿った砂地を踏み、その家に辿り着く。改めて見ると、少年時代に逃げ込んでいたその家は思っていたよりも、ずっとボロくて小さかった。風の一吹きで吹き飛んでしまいそうな木造の平屋の周りには、同じく風が吹けば壊れそうな薄い板塀があり、塀には苔と雑草の蔓が絡んでいる。見栄えはともかく、この蔓が塀や家の壁を補強する役目をしてるのかもしれない。
そこへ逃げ込んだ子供のころを思い出しながら、玄関に立つ。だがそこでふと、鍵を持って来ていないことに気づいた。どうしよう……一瞬躊躇ったが、このボロ屋だ、鍵などかかっていないかもしれない。そう考えて、引き戸を引いてみる。案の定、玄関の鍵は開いていた。
「お邪魔しまーす」
誰もいないはずなのだが、なんとなく妙な気配を感じて、っそろそろと中へ入った。久しぶりに入った家の中はシンとしてるが、思ったより綺麗だ。埃一つ溜まってないし、なにより、どことなくだが生活観がある。
玄関入って、目の前に続く板張りの床を進む。古くなった床板がギシギシと鳴り、なぜかドキドキした。誰かに見られているような気がして、自分の家だというのに、ついつい足音を忍ばせる。入ってすぐの右手には襖で仕切られた四畳半ほどの和室がある。人の気配はない。左側は便所と洗面でやはり誰もいない。少し進むと今度は左手に同じく襖で仕切られた和室があり、そこは少し広くて六畳間、そこも無人。右手は中庭続きの縁側になっている。そこにも人影はない。あとは突き当たりに台所、その右手に風呂場があるだけのはず。正志はなぜか酷く緊張しながら、ゆっくりと室内を進んだ。
台所から、なにか音がする。誰かいる……妙にドキドキしながら引き戸を開ける。
*
そこには、細長い包丁を持った女が一人、立っていた。
驚いた正志は、お前は誰だと叫ぼうとする。だがその前に、女のほうが口を開いた。
「誰、ですか?」
「ぇ……?」
女の声は、異様に静かで、深い森の中から湧き出でる岩清水のような、深く神聖な響きを持っていた。目線も表情も落ち着いたもので、いきなり現れた正志を見て、動揺した様子もない。なんとなく、人間ではないような気になる。天女か鬼女かと言われれば、本気にしてしまいそうだ。
「あなたは誰かと、聞いている、のです」
正志が見惚れていると、女は再び口を開いた。やはり綺麗な声だ。女性にしては少し低めかもしれないが、そのぶん深い、不思議な声だ。相変わらず落ち着いた表情で、真っ直ぐに正志を見つめている。それまでの人生で、誰かから、こんなに真っ直ぐに見つめられたことのない正志は動悸が激しくなるのを感じていた。
「ぇ、僕は糸村……いや、キミこそ誰だ?」
「私は、風祭、ユキ、です、ここに、住んでいます」
「ユキ、さん……」
ユキと名乗ったその女性は、仮面のように動かない表情で、一言ひとこと区切るように、とてもゆっくりと喋っていた。言葉遣いがたどたどしい。日本名だし、顔も普通にアジア系、いや、日本人のようだが、外国籍なのかもしれない。それに、最初は包丁に目が留まり、気づかなかったが、素晴らしく美人だ。色白で綺麗な肌に勝気そうな瞳をしている。冷たい表情に似合わず、情の篤そうなふっくらした唇が印象的に見えた。
しかし服装がいただけない。男物と思われる飾り気のないカットソーに麻ズボン、前袷になっているので、形としては作務衣なのかもしれない。カジュアル着というよりは、武道家が着る胴衣かなにかのようで色気も素っ気もない。色もアイボリーと紺で地味過ぎる。アクセサリーもなし、化粧気もなしだが、着衣が大きめなので、細い手首が目立つ。世間知らずの小娘……という印象が否めない。
しかし、美人だ。
なんともいえないその佇まいに、気後れした正志が黙り込むと、ユキは包丁を流しの横へ置き、身体ごと向き直った。フワリと舞うシャツの裾にうっかり見惚れる。
「あなたは誰、ですか?」
問いかけられ、ハッと気づく。
今、彼女は、ここに住んでいると言った。ということは、実家からこの家を借りて住んでいるということで、不法侵入者は自分のほうになる。
「す、すみません! 僕は糸村正志、この家の大家の息子です」
「糸村さんの……」
「はい」
「で、糸村さんの息子さんがなぜここへ?」
責めるでもなく、怯えるでもなく、彼女は淡々と訊ねてきた。そうなると余計焦る。悪いことをしようとしていたわけではないのに、疚しい気分になった。
「すみません、昔よく遊んだので、懐かしくなってつい……いや僕も今日、こっちに帰って来たばかりで」
気が焦り上擦って、口ごもってしまった言い訳を、どうとったのか、彼女は静かに、わかりましたとだけ答えた。そしてまた向き直り、さっき横においた包丁を手に取る。
「帰って来たばかりでしたら、お腹も空いているでしょう? 今、丁度食事を用意するところでした、そこで待っていてください」
「え?」
「すぐ出来ます、食べていってください」
「そんな……ぇ、いいんですか?」
「はい」
いきなり現れたいかにも胡散臭い男に、彼女は食事を勧めた。本当にいいのかと遠慮すると、食事は一人より二人で食べたほうが美味しいですからとだけ答え、野菜を刻み始める。まるで、ずっと昔から知っていた人のような、懐かしく優しい空気に少し驚きながら、正志も頷いた。
いくら大家の息子と名乗ったとしても、なんの前触れもなく、いきなり侵入して来た男を食事に誘う。普通はそんなことあり得ない。本当なら、不法侵入、または痴漢か強盗かと警察に通報されるところだ。
不思議な気分を引き摺ったまま、正志は隣の六畳間へ戻り、そこで彼女、ユキを待つことにした。そして数十分後、ユキが現れる。
「お待たせしました」
彼女は大きめの盆に、見事な本膳、二汁五菜を乗せて来た。
正志は、タウン誌の編集に携わる仕事していて、つい先月、都会で庶民がお手軽に食べられえる本膳料理というのを取材したばかりだ。だからわかる。これは普通の家庭料理ではない、職人が造る完璧な膳だ。
膾《なます》、根菜の焚き合わせ、蕪の浅漬け、鰆の香味焼き、青豆の白和え、それに桜色の紫飯と青菜の吸い物と、二の汁として白身魚の吉野汁。どれも美しく盛り付けられ、食べるために崩してしまうのが勿体ないようだった。
「凄い……こんな正式な本膳料理、久しぶりに見たよ」
感嘆して呟くと、ユキも少し意外そうな表情で顔を上げた。
「本式やったら、菓子と酒もつけなあかんな」
「え……?」
そこで思わずといった感じで呟かれた言葉に驚いて、正志も顔を上げる。その途端、正面から目が合い、どきりとした。必要以上に高鳴る心臓の音を気にしながら、今なんと言ったんですかと訊ねる。すると彼女は、独り言ですよと、笑った。その微笑に心魅かれる。
「あの……」
「どうぞ、食べてください、温かいものは温かいうちに食べるのが、造った者への礼儀です」
「ぁ、はい、そうですね、いただきます」
勧められるまま、箸をつけた正志は、その美味さに息を呑んだ。
最初の椀である青菜の汁は関西風の澄まし汁で、上品な味わいだ。ほんのり磯の香りがする。出汁は蛤《はまぐり》と、おそらく石蓴《あおさ》、それに鰹節も入っているかもしれない。濁りなく仕上げるのは難しい合わせのはずだが、樽出しの清酒のように澄み切っている。それに、温かい。口にする者を包み込むような柔らかい母性を感じ、ほっとした。
根菜の焚き合わせは色合いも形も良く美しい。きちんと面取りされた八角の里芋は箸で割るとふんわり蒸気が舞い、出汁の香りが広がって来る。一気に食欲がわき、思い切りかぶりついた。醤油と出汁の甘味と塩味が絶妙に旨い。続けて口に入れた牛蒡《ごぼう》もしっかり味が沁みている。口の中に広がる甘辛い煮汁が堪らなく、ついつい欲張って次々と頬張りたくなる。見た目は色合いが自然そのままのように美しいので、味は薄いのかなと思っていたので意外だった。これならご飯が何杯でも行ける。
そのご飯がまた旨い。薄く色づいた紫飯《ゆかりめし》なのだが、これが白飯の上に、紫蘇《しそ》の香りだけを纏わせたように上品で、副菜主菜の邪魔にならない。それどころか、さっぱりした紫《ゆかり》の風味で口の中が洗われ、また次々と食べたくなる。いいコンビネーションだ。箸休めの膾《なます》や漬物も甘過ぎず濃過ぎず、ちょうどいい塩梅だし、鰆《さわら》はふっくらと焼き上がっていて魚自体の香りと、絡めた香味が混ざり合って絶妙の域だ。
すべてが温かく、一口食べる毎に、心の棘が抜け落ち、胸の痞えが溶けていくような、愛情深い料理だ。最後の吉野汁に至っては、口の中に僅かに残る優しい甘味に心を揺さぶられ、満足感と幸福感で涙が出そうになった。
美味いと唸り、顔を上げると、ユキはニコリと微笑んだ。さっきまで、仮面のように動かない表情だったのが嘘のように優しい笑顔だ。
「良かったです」
言葉少なに答えるユキの声が、幾分か明るく、優しくなる。和らいだ空気に心がすうっと軽くなるのを感じた。
恋人と喧嘩して、仕事にも躓き、周囲が敵だらけに見えて、居場所をなくし、追い立てられるように逃げて来た。彼女の料理は、そんな自分に、大丈夫ですよと優しく囁いてくれる。
無言で食べ続け、自然と流れ出た涙のわけを、ユキは聞かなかった。ただ向かい合い、食事を取り、時々微笑んでくれる。その心遣いが胸に沁みた。
「美味しかったです、ご馳走様でした」
「お粗末さまです」
取材として、何軒もの日本料理店や割烹、懐石料理店などを訪ねたが、彼女の味はそれらに決して劣っていない。いや、劣るどころか、かなり美味しい。ランキングをつけるなら、ベスト5には入る味だと褒め称え、さらに礼を言おうとすると、ユキは静かに微笑み、それを制した。
口を利く機会をなくした正志が黙り込む。その途端、彼女は綺麗に平らげられた膳を盆に乗せ、すいっと立ち上がった。
キュッと畳の鳴る音がして、盆を持ったユキが背を向ける。一連の動作が日本舞踊の振り付けのように美しく、正志の目前で残像を描く。心臓が高鳴るのを感じた。
盆を持ち、部屋から出て行く彼女の背を見つめていると、切なさでいたたまれなくなる。
行かせたくない。
咄嗟にそう思い、正志も立ち上がった。
「待ってください」
「なんですか?」
その声に、ユキは振り向かずに答える。あとを追った正志は、彼女の横に立ち、盆を持つ手を取った。
「食べさせていただいたんですから、片付けくらいは僕がしますよ」
「え? でも……」
自分がやりますと話すと、ユキは戸惑い、少し困った表情になった。その仕草が、思いがけず可愛らしい。
「ユキさんは座っててください、洗い物くらい僕にも出来ます」
「でも、あなたはお客、ですから……」
「なにが、客じゃないですよ、ただの押しかけ大家です、いや、大家の息子か……とにかく、ご馳走になったお礼です、片付けくらいはやらせてください」
あくまでも、自分がやると言い張ると、ユキはそうですかと呟き、頷いた。
「ではお願いします」
「はい、任せてください」
素直に引いたユキの、押し付けがましくない優しさが、胸に沁みる。正志は高鳴る動悸を気にしながら、食器や鍋を手早く洗った。
洗いながらも、ユキのことばかり考える。
細い指、細い首筋、華奢な肩。だが決して弱々しい印象ではない、強い光を放つ瞳。意思の強そうな、それでいて情の深そうな唇。深く澄んだ声。すべてが胸を擽り、動悸はさらに増した。
あんなに美しい人は見たことがない。
いや、見掛けの美醜だけで言うなら、彼女より綺麗な女性はたくさんいるかもしれない。だがそれでも、彼女には敵わないような気がする。表面の美しさというだけでなく、内面から滲み出す美が、彼女にはある。
「ユキさん、ちょっといいですか?」
ひと段落つけたところで、食器の収納場所がわからず、声をかけた。すると彼女はなんの警戒心もなく、正志の横に並んだ。美人が横に立つと、それだけで空気が変わる。薄っすらと、爽やかなハイビスカスのような香りが漂い、気が逸る。
だが、手際よく皿や鍋を仕舞う様子を見ているうちに、だんだん不安になってきた。女一人の住まいで、見知らぬ男と二人きりになるなんて、危険だと思わないのだろうか。自分だからいいが、もしこれが下心ある悪人だったらどうするのだろう。ご馳走になっておいて言うのもおかしいが、少し注意したほうがいい。
義侠心に燃え、説教したくなった正志は、片づけを終えたばかりのユキの手首を固く掴んだ。
「……?」
なんですか? と聞きたそうな目で、ユキが顔を上げる。まるでわかってなさそうなその瞳に、少し腹が立った。
「ごちそうになっておいて言うことじゃないですけどユキさん、知らない男と無闇に二人きりになるもんじゃないですよ」
「別に、無闇には、なってません」
「なってるでしょ、僕みたいなの信用して、食事まで作って、もしこれが凶悪犯だったらどうずるんですか」
「あなたは、凶悪犯じゃない、です、から」
彼女はたどたどしい口調ながら、きっぱりそう答えた。その返事に戸惑う。たしかにそうだが、それは自分だからわかることで、彼女からしてみれば、初対面だ。わかるわけがない。世の中、見るからに悪人面した悪人ばかりじゃない。善人面した悪い奴だっている。見た目で判断するのは危険だ。だがそう諭すと、彼女はでもあなたは違いますと即答した。なぜそこまで言えるのかわからない。
「なんでそう言えるんですか、なんの根拠があって……」
「顔を見ればわかります」
「顔?」
「はい」
顔なんて一番当てにならない。事実、自分はいい人ではない。そう反論しかけた正志を、ユキの言葉が遮る。
「とても、疲れた顔をしていました、何があったかまではわかりませんが、あなたは疲れ果てて帰って来た人、それだけはわかります」
「……」
その通りだと驚き、正志は言葉を失う。
たしかに自分は疲れていた。疲れ果て、自暴自棄だったかもしれない。それを、彼女の料理が癒してくれた。だからおこがましくも、他人に説教などする気になったのだ。
「疲れたときは、美味しいものを食べて、ゆっくりお風呂に入って、たっぷり眠るのが一番です」
「そうですね」
「でも、現代人はみんな忙しいですから、そうも出来ない場合が多いでしょう? だから、全部は無理でも、せめて食事だけは、温かくて美味しいものを食べてもらいたい、と、思います」
「あ……ぁりがとうございます」
ユキの優しい言葉と笑顔に、胸が熱くなる。思わず頭を下げると、ユキは美味しかったですかと聞き返してきた。もちろんそれは即答だ。美味しいに決まっている。それどころか、東京の老舗と比べても引けを取らない、素晴らしいものだったと話した。その答えに、彼女は嬉しそうに微笑む。
「良かったです」
ほっとしたように笑った彼女が、とても可愛らしく見えた。
***
ユキと別れ、実家に戻ると、案の定、妹には嫌味を言われた。恋人と喧嘩をして逃げて来た。それだけでも妹からしてみればいい加減な男なのに、喧嘩の原因が彼女の妊娠だったからなお更だ。お兄ちゃん最低だわ、男のクズよと罵られ、さらに落ち込む。
もちろん、妊娠は女の一大事だろう。恋人との間に出来たのなら結婚へのいい切欠にもなる。しかし肝心の男のほうには、まだそんな覚悟がない。
身体を重ね、愛し合い、その結果として子供が出来る。そんな当たり前のことを、男は身近な話として考えていない。もちろん、避妊するのを忘れた自分が悪い。だが女のほうだって、それはわかっていたはずだ。わかっていて許したということは、その時点で女は、子供が出来てもいいと思っていたことになる。それはつまり、煮え切らない男にうんと言わせるための陰謀だと言っても過言ではないのではないのか? だとしたら、責任はむしろ女のほうにある、男ばかりが責任を取らなきゃならないのは理不尽だ。そう反論すると、妹は火のように怒った。
「子供を生むってことがどれだけ大変か、お兄ちゃんにわかる? 身体を痛めるのも、傷付くのも、全部女なのよ? 女にも責任がある? よくそんなこと言えたわね! 好きな男に言い寄られて、嬉しくない女がいる? 好きで好きでしょうがないのに、抱き合うときに、ねえ避妊してって、女に言えって言うの? 言えるわけないでしょ! 馬鹿!」
妹の言葉はしごくごもっともで、そう言われてしまえば反論の余地もない。だがやはり釈然としなかった。なんで男が悪者にされなきゃならないんだ? やった行為そのものは対等なはずだし、それなら責任も半々ではないか。
もちろん、身体に変化が起きるのは女のほうだし、傷つくのも女だけなのはわかっている。正志だってそのまま放り出すとは言っていない。手術代だっては払うし、休業中の面倒くらいは見てやるつもりもある。ただ、子供が出来ました、だから結婚……というのに納得出来ないだけだ。
彼女が嫌いなわけではない。だが、一生涯を共にするほど好きかと聞かれると自信はない。
別に他の女でもよかったのだ。いや、彼女より美人で彼女より価値のある女が振り向いてくれるなら、そっちのほうがいい。ただ問題は、その女に見合うだけの価値が自分にあるかということだ。
彼女より美人で、彼女より価値のある女。
そう考えたとき、ふと、ユキの横顔を思いだした。
なぜだろう? ちゃんと正面からも見たはずなのに、彼女を思い浮かべようとすると、思い出されるのは横顔だけだ。どこか遠くを見ているような、静かな瞳……彼女は、ユキは、誰を見ているのだろう?
……そのとき、ふと、帰り際にユキが言った言葉を思い出した。
――お腹が空いたら、いつでもどうぞ。
なにも出来ませんが、食事くらいは出せますよと、ユキは微笑んでくれた。それは社交辞令なのかもしれないが、今はそれにさえ縋りたい。
自分が故郷へ戻って来た本当のわけを話したら、彼女はどう思うだろう? 軽蔑するだろうか? 妹と同じように、最低だと怒るだろうか? 彼女にだけは嫌われたくない。
だが、会いたい。
彼女なら……見ず知らずの男に、なにも聞かず食事を用意してくれるユキなら、わかってくれるかもしれない。ふと、そんな身勝手な思いが頭に浮かんだ。
ユキに会いたい。
その思いだけを抱え、正志は家を出た。
正志の家から彼女の家までは、少し遠い。歩いて行けば二十分ほどはかかる。家を出たのが午後二時過ぎだったので、ユキの家につくころには、三時近かった。だがまだ日は高い。一人暮らしの女性の家に訪ねて行ってもおかしくはないはずだ。だが、肝心のユキがいない。昨日と違い、玄関は鍵がかかっているし、何度呼んでみても返事がない。家の外側から中の様子を窺ってみたが、人のいる気配はなかった。
どこに行ったのだろう……勢いこんで訪ねて来たのに、肩透しな気分で元来た道を戻り始める。
そのとき……海岸沿いの砂利道を、細い影が歩いて来るのが見えた。
ユキだ。
姿が見えたことで胸が熱くなり、うっかりと見惚れる。すると彼女が両手になにか持っているのに気づいた。スーパーのビニール袋だ。どうやら買い物に出ていたらしい。パンパンに膨らんだ買い物袋を両手に歩いて来る姿が健気で、微笑ましい。女性の買い物は長いというが、なにをあんなに買い込んできたのだろう? 両手で掴んでいるビニールの袋は、とても重そうだった。
正志の故郷は本当に田舎で、店と言えるほどの店も少ない。このあたりでまともな買い物が出来る場所と言えば、最近出来たばかりの大型ショッピングモールくらいなものだ。だが、そのモールもこの家からは少し遠い。歩いて行けば三十分、いや、女性の足なら四十分はかかると思われた。
その道のりを、彼女はあの重そうな荷物を持ち、歩いて来たのか……そう考えると妙に胸がざわつく。なにを買って来たかは知らないが、大変だっただろう。そう気づいた正志は、ゆっくり歩いてくるユキに向かって走り出した。
「ユキさん!」
声をかけると、ユキは、なんでこんなところにと不思議そうな顔をした。真顔でなにかあったんですかと訊ねられ、ちょっと照れる。
「ユキさんに会いに来たんです」
「わたしに、ですか?」
なぜ? と彼女は首を傾げる。それはあなたのことが気になって仕方ないからだ。一目惚れかもしれない……とはさすがに言えず、曖昧に笑った正志は、ユキの手からスーパーの袋を取った。
「持ちますよ、重いでしょう?」
「そうでもないです」
「いや、重いはずだ……というか、ホントに重いじゃないですか」
少し強引に取った荷物は、正志が思っていたよりもずっと重かった。ズシリと重量感があり、ユキの細い腕ではとても持ち運べそうもない。よくこんな重い荷物を持って、四十分近い道のりを歩いて来たなと感心する。
「買い物ですか? 最近出来たというあのモールでしょう? なにを買ったんです?」
荷物を奪い取られ、少しムッとした表情になったユキの機嫌を取ろうと、正志は殊更にこやかに話しかけた。すると彼女は無表情に、野菜と魚ですと答えた。まだ怒っているのか、少し拗ねたような唇が可愛い。
「夕食の材料? にしてもずいぶんたくさん買い込んだんですね」
「あかまちのいいのが出ていたので、煮つけを造ってみようかと思って……それに今日は野菜もいいのが出てましたから」
「それで買い過ぎた?」
「過ぎてはいません」
「そうですか? でも一人で食べるには多過ぎやしませんか?」
ちらりと覗いた袋の中には、里芋や人参、ごぼうにレンコンといった根菜類から葉物まで、すべて丸のまま入っている。それも、一つではなく、二個、三個、多いモノになると十近くありそうだ。いくらなんでも多いだろう。だがそれを指摘するとユキは一つや二つでは作りたいものも作れませんからと答えた。ずいぶんと拘るなと考えた正志は、そこではたと気づいた。あれだけ美味い料理を作る人だ、もしかしたらそういう仕事をしているのかもしれない。
「もしかしてユキさん、料理研究家かなにかですか?」
「研究はしてません」
「あ、じゃあ、料理学校の講師さんかなにか?」
身を乗り出して訊ねると、ユキはふいっと視線を下げ、聞えないふりをした。話しかけた言葉が宙に浮き、無視されたような気がして気分が沈む。するとユキは、暫くの沈黙のあと、躊躇いがちに顔を上げた。
「正志さんは? どんなお仕事をなさってるんですか?」
「僕ですか? 特別職公務員ってやつですね」
「公務員?」
「非常勤ですよ、普段は町のニュースとかトピックスを扱うタウン誌の編集をしてます」
その一環で、本膳料理の取材をしたので、日本料理についても少しはわかるし、味にも結構うるさいんですよと話すと、ユキは興味深気に正志を見返した。彼女の目は一点の淀みもなく、あまりに邪気のない瞳で、見つめられるとそれだけで心拍数が上がる。早くなにか言ってくれないと、呼吸まで乱れそうだ。
「どんな店を取材したんですか?」
「あ、そうですね、定食屋から割烹までいろいろですが……そうだ、六花亭にも行きましたよ、知ってます? 六花亭」
「六花亭」
ドキドキしながら答えると、ユキは興味深げに問い返して来た。いつも落ち着いていて、あまり大きく表情を変えないユキにしては珍しい。
「よく取材できましたね、あそこのご主人はそういうの、嫌がるでしょう?」
「そうですね、正面から行ったらNGですよ、でも友だちのお父さんがあそこの常連さんで、話を通してくれたんで、なんとかやらせてもらいました」
「それは幸運でしたね」
「ええ、まあ……」
追及されたくなくて、つい、語尾をぼかした。その気配を察したのか、彼女はそれを追求することなく、味はどうでしたかと尋ねて来た。
「どんな?」
「ええ、なにか食べたでしょう? 品書きはどんなでしたか?」
彼女は、聞きたくて仕方がないというように、いつもより少し早口で話す。正志はその勢いに押されながら、ゆっくり答えた。
「一般的な本膳と、お薦め、それに、若いOLとか学生でも食べられるようなリーズナブル価格のランチメニューを見せてもらいましたよ」
「で、味は?」
「そりゃ美味しかったですよ、さすが高いだけあります、リーズナブルランチでも千五百円しますからねえ」
当たり障りなく答えると、ユキはそうかと呟き、視線を下げた。なにか思惑あり気なのが気にかかる。どうかしたんですかと訊ねかけたが、先に彼女から聞き返された。
「その雑誌、今持ってますか?」
「いや、今は……でも記事を書いたのは僕ですから、なにか聞きたいならお話できますよ」
「それではお願いします」
お願いしますと言うわりに、有無を言わさぬ勢いで、ユキは袖を引く。そのまま引き摺られるように彼女の家に入り、奥の六畳間へ通された。彼女はそこで、六花亭の取材メニューを詳しく聞き、味付けはどんな感じだったのか、歯触りはどうだったかなど、正志が引くくらい根掘り葉掘り訊ねる。そして聞くだけ聞くと、今度はちょっと待っててくださいと台所に消えた。
そこで待つこと一時間半。ユキは、さっき正志が話したのとほぼ同じ膳を調えて来た。
「凄い、これ、今作ったんですよね」
「そうです、食べてみてください」
百合根と枝豆の茶巾、真丈椀、鰆の手まり、穴子の白焼などが形良く盛られた一膳に、思わず見惚れる。どうぞと促され箸をつけると、上品な甘味があり、あっさり風味ながら、とても美味かった。最初の日と同じく、美味いと唸る。しかしユキは表情も変えず、次の膳を運んできた。
焼き物は鯖、煮物はさきほど仕入れて来たあかまちと根菜の含め煮、揚げ出汁豆腐、揚げ物は白魚と葱のかき揚げにエビ、季節の野菜が三品。松葉銀杏が添えられ、いい感じだ。材料が揃わなかったのでと、少し消沈した口調で、六花亭とは少し違う品も出て来たが、どれもこれも素晴らしく美味しかった。だから、どうですかと聞かれ、凄く美味しいと答えたのだが、ユキは言葉どおりに取れないようだ。納得出来ないという表情で下がっていく。そして、最後の茶請けと薄茶を出し終え、ユキもようやく正志の前に腰を下ろした。
「ご馳走様でした、美味かった」
「お粗末さまです」
美味いと褒めても、ユキはまだなにか引っかかっていのか、浮かない表情をしていた。つい気になって、どうしたんですかと訊ねる。すると彼女は六花亭の主には昔世話になったことがあるのだと話した。
「世話にって、え、もしかしてユキさん、あちらのお弟子さんかなにかですか?」
「違います、ただ……」
「ただ?」
「いえ、あそこのご主人は引退したと聞いていたので、今は誰が回してるのか、気になって」
「ああたしか、磯村さんとおっしゃる方ですよ、ずっと前のご主人についてらした方だとか」
「磯村……由吉さん」
「ユキさん、磯村さんのこともご存知で?」
フルネームでは言わなかったのに、ユキは六花亭の板長の名を知っていた。それはつまり、かなり懇意だったということになる。思わず突っ込むと、彼女は何でもありませんと真顔で答え、磯村由吉と比べて自分の作はどうだったかと訊ね返した。なぜそこに拘るのかわからず、正志も戸惑いながら答える。
「ユキさんの料理は本当に美味しいですよ、今ランキングを作るなら、僕は一位に押します」
「本当にそう思いますか? 由吉さん……いえ、今の六花亭と比べても、そうだと言えます?」
「うぅん、そこは難しいですね、六花亭は老舗ですからね、さすがに味は完璧です、でもなんか少し、余所余所しいんですよね、そこへ行くと、ユキさんの料理は温かい」
「それは、出来立てだから……」
「いや、そうじゃなく、相手をもてなそうという、ユキさんの心が感じられるんです、食べてて、ホッとする、本当に美味いです」
何度も美味しいと話すと、ユキはようやく納得出来たのか、ありがとうと少し笑った。その微笑みにつられ、正志も笑う。
それから彼女は始終静かな瞳で話し、二人で本膳の残りを突きながら、少し酒も飲んだ。温かい空気が流れ、気持ちが穏やかになる。ずっと探していた人と出会えたような、ユキが運命の相手のような気になり、帰りたくなくなった。
しかし、ここは女性の一人暮らしだ、いつまでも居座るわけにはいかない。仕方なく立ち上がると、彼女は玄関先まで送ってくれた。
気をつけてと話すユキの唇を見つめ、心が逸る。まだ会って二日しか経っていないのに、愛しくて仕方がない。あなたが好きです。つい、口から跳び出そうになるその言葉を押しとどめ、正志は違う言葉を探した。
「また来ても、いいですか?」
あなたに会いたいんですと思いをこめて訊ねる。するとユキは、いつでもどうぞと少し笑って答えてくれた。
「またなにか作ります、いつでも食べに来てください」
「そんなこと言うと、毎日来ちゃいますよ?」
「いいですよ、どうぞ」
ふざけて言った言葉に、ユキは笑顔で答える。優しくて温かい、可愛らしい笑顔だ。すぐにでも抱き締めたくなる。だがまさか会って二日目でそうも出来ないので、ぎこちない笑顔を作りながら、毎日あんなに美味い料理が食べられるなんて夢みたいだと答えた。すると、ユキも嬉しそうに笑う。付き合ってすでに数週間も経つ恋人同士のような気がして心は温かい。
「じゃ、また明日」
「はい、明日」
軽く会釈して背を向ける。チラリと振り返ると、薄暗くなった海沿いの町に、白い作務衣がぼんやりと浮かんで見えた。月の下、昼間の喧騒から隠れるようにひっそりと咲く、月下美人の花のようだと思った。
――友だちのお父さんがあそこの常連さんで。
ユキの家を出て、実家に向かう中、ふと、後ろめたさが胸を締め付ける。
自分は嘘をついた。六花亭に話を通してくれたのは、友だちの父親じゃない、彼女の……律子の父親だ。だがそれを言うと、自分には恋人がいると宣言しているのと同じで、ユキは引いてしまうだろう。今だって別に付き合っているわけでも告白したわけでもない。ただ家主の息子と貸家の住人というだけの関係だ。
だが嫌だった。ユキに、引かれたくない、(恋愛)対象外になりたくない。
今はなんの繋がりもない関係だとしても、これから繋がることだってある。その可能性だけは残しておきたい。
姑息だなと自嘲して、ふと気づいた。彼女《ユキ》に、恋人はいるのか?
結婚……は、していないだろう。指輪はなかったし、どう見ても一人暮らしだ。室内を見たところも、女性の一人暮らしにしては飾り気がなさ過ぎるが、男の持ち物と見えるものはなかった。と言っても、彼女の持ち物と言えるほどのモノもなかった。
あの家には、生活観がない。玄関入ってすぐの和室もカラだったし、いつも通される六畳間にも卓袱台と小さな棚が置いてあるだけ。物がなさ過ぎる。あんな何もない家に、彼女一人……。
一人で買い物に行き、一人で料理を作り、一人で食べる。
いったいどんな気持ちで……毎日なにを考えて暮らしていたんだろう? 小さな平屋といっても、一人で住むには広い。あの家でたった一人。
味気ない一人の食事、ついつい作りすぎてしまう料理を、一緒に食べてくれる人もいない。淋しくないわけがない。だから彼女は、誰とも知れない自分の、大家の息子だという話を疑いもせず、食事に誘ったのかもしれない。
想像したら切なくなった。これは自分の都合のいい思いこみ、妄想なのかもしれない。だが、そんな気がして仕方がない。
彼女は誰かを待っている。一緒にいてくれる相手を、用意した食事を一緒に食べ、ただ一言、美味しかったよと言ってくれる誰かを、待ち続けている、のではないか?
もしそうなら、それが自分であってはダメだろうか? いや、ダメなはずはない。それなら最初から受け入れてはくれなかっただろう。彼女《ユキ》は、初対面の自分に、理由も聞かず、食事を作ってくれたのだ。
――すぐ出来ます、食べていってください。
あのとき、ユキはそう言った。
食べていってくださいと言うのは、文字通り、ユキの希望、願いだったのかもしれない。淋しくて、人恋しくて、誰かと食事をしたかったのは、ユキのほうだったのかもしれない。
だとすれば望みはある。彼女《ユキ》も、多少なりと、こちらに好意を持ってくれているはずだ。
少々主観的過ぎるかとも思ったが、きっとそうだと結論した正志は、次にユキの家に行ったときにでも、こちらが好意を持っていることを伝えようと思った。
しかし、そうと決めると、逆に不安になってくる。ユキに男はいるのかいないのか……。
旦那はいないだろう、だが恋人、彼氏となるとわからない。自分だって、恋人がいながら、一人で故郷に戻り、勝手ながら彼女に恋をした。
そうだ、恋を、したんだ。
自分で言った、「恋」という言葉を、心の中で重く深く受け止めながら、正志はユキを思った。思いを打ち明けるにはまだ早過ぎる。会って三日目で好きですなどと言っても、軽々しいだけだ。ましてや自分には、まだ完全に別れたというわけではない恋人がいる。彼女《ユキ》のほうにだってなにかあるかもしれない。
だいたいこんな辺鄙な場所に、女性が一人で暮らしているというのも変な話だ。
働いている感じもしないし、家賃や食費、金はどこから出てるのだ? 預金か、援助か……いずれにしても、わけありと考えるほうが自然だろう。彼女が何者なのか、なんの事情があってあそこに一人で住んでいるのか、それが知りたい。
「なあ、明日実(あすみ)、うちの貸家に住んでる風祭ユキさんって、何をしてる人なんだ?」
毎日毎日、ユキのことばかりが気にかかり、ある日とうとう、妹に聞いてみた。家を貸しているのだから、素性も多少は知っているはずだと思ったのだ。だが妹、明日実は、出戻りの勘か、正志の邪心を鋭く見抜き、凄い剣幕で眉を吊り上げた。
「お兄ちゃん、風祭さんに気でもあるの? やめてよね、東京に恋人がいるんでしょ!」
「別に! いいじゃないか、まだ結婚したわけじゃなし、好きになるのは自由だろ」
「なに言ってんの? それはきちんと身辺整理できてから言ってよね、彼女、妊娠してるんでしょ、新しい女、作る前に、そっちをなんとかしなさいよ」
「うるさいな、なんとかはするよ! けど……」
「けどじゃないわよ、そんないい加減な男に、独身女性の身の上なんか話せません!」
妹は、けんもほろろだ。たしかに、子供が出来たと言ってきた彼女に、それは本当に俺の子かと聞き返して、喧嘩して、それからなんの意思表示もせず実家へ帰って来た自分が悪い。それはわかる。正志はそれ以上の反論はやめ、今度は母親に聞いてみることにした。
なにしろ、明日実は、ユキのことを、「独身女性」と言ったのだ。彼女が独り身だという確約はとれた。あとはどんな曰くがあるのかないのかを聞くだけだ。そう思って旅行中の母親に電話をすると、妹と違い、口の軽い母親は、すらすらとユキの事情を明かした。
『ああ、風祭さんね、詳しくは聞いてないけど、たぶん、どこかのお金持ちの二号さんね、突然あの家を貸してくれって黒服の使者が来て、たいそうな前金と心付をいただいたのよ、お陰で当分左団扇だわ、大事にしてよ、失礼のないようにね』
「ちょっと待ってくれよ、二号って、そんな……親かもしれないだろ」
『そんな感じじゃないわよ、いかにも執事さんって風体だったし、日本語も下手だったわ、きっと外国人ね』
「外国人……」
母親の言葉には、妙に納得できた。ユキは、顔だけ見れば日本人だが、言葉遣いが少し変だ。イントネーションも違うし、たどたどしいというか、普段使い慣れない言葉を無理して使っている感じがする。それで初対面のときも、外国籍なのかもしれないと思った。しかしそれで彼女が誰かの囲われ者だとは思いたくない。彼女はそんな人じゃない。
「国籍は知らないけどさ、それだけで決め付けるなんて失礼だろ、いい加減なこと言うなよ」
つい、強気で反論した。だがそれにムッとしたのか、母親は確信があるのとまくし立てる。
『いい加減じゃないわよ、彼女はどこかのお金持ちのお妾さんだと思うわ、正妻に内緒でご主人の子を生むために、こんな辺鄙な町に来たのよ、きっと』
「だから! 憶測だけでそういうこと……」
『憶測じゃないわ、本人がそう言ったんだから』
「え……?」
その返事には、思わず固まった。頭の中が真っ白になる。
あの清廉そうなユキが妊娠してる? そんなまさかと口ごもる。すると母親は、ご丁寧に彼女が来たときの話しをしてくれた。
それによると、五月半ば、黒いスーツを着て黒メガネをかけた五十代くらいと思われる男がやって来て、海岸近くにある貸家を貸して欲しいと言って来たらしい。相場の三倍の家賃を向こう半年分前払いし、礼金も相場の十倍を出すという申し出で、その話を母は即諾したと言う。離れの貸家はかなり古く、長い間、空家になっていたので丁度いい。
やって来た間借り人は女性で、風祭ユキと名乗った。殆ど身ひとつでやって来たユキは、最初の顔合わせで、深々とお辞儀をし、家を貸してくれたことに対する謝辞を述べた。そしてそのとき、彼女は、自分は今、妊娠中なので、出来るだけ静かに過ごしたいと思っていますと言ったのだそうだ。
そんなバカなと頭の中が沸騰し、正志は乱暴に電話を切った。
信じられない、信じたくない、そんな話、あり得ない。納得出来ない苛立ちとジレンマに駆り立てられ、ユキのもとへと走る。
「ユキさん!」
妊娠してるって本当ですか? そう聞くつもりで彼女の家に飛び込んだ。しかし姿が見えない。どこに行ったんだと探しまわり、台所の横にある、小さな部屋に気づいた。
そこは昔、納戸になっていたスペースで、部屋とはいえない。しかし、自分が知らぬうちに改装されたらしく、小さいながらも人の生活できる一室になっているようだ。その小さな部屋で微かに音がする。ここにいるのかと察し、正志はそっと扉を開けた。
「ユキ……さん?」
「正志さん?」
狭い三畳ほどのスペースの部屋を占領するように敷かれた布団の上に胡坐をかくようにして、ユキはいた。
突然やって来た正志を怪訝そうに見上げる彼女は、とても華奢に見えた。ボディラインを強調しない緩めの作務衣を纏っているとはいえ、妊娠中にしてはスレンダー過ぎる。あり得ない……しかし、母は彼女から直接聞いたと言った。まさか本当にそうなんだろうか? 妊娠も極初期なら体型に変化もないだろうし、あり得ないとは言い切れない。
不安と疑念で締め付けられる胸を抑え、正志はおどおどと言い淀んだ。
「ぁ、いや……その」
妊娠してるんですか? 何度もそう言いかけて、飲み込み、ちらちらとユキの様子を窺う。やはりどう見ても、妊娠中には見えない。母の聞き違えなんじゃないのか? そう思い始めたとき、彼女の後ろ、壁際にある鏡台に目が留まった……いや、正確には、その鏡台に貼り付けてある写真に、目が留まった。
そこには、ショートヘアのユキと、その横に並ぶ髪の長い男がいる。
あれは誰だ?
写真の中のユキは、今よりずっと短い髪で、美しく微笑んでいるように見える。隣の男はユキに近過ぎず、遠過ぎずの微妙な距離を保ちながらも、意識はユキを追っているようだ。心の動きは僅かにユキのほうへ伸ばされている指先でわかる。まさかと思いつつ、正志の声は震えた。
「ユキさんは、結婚とか、してるんですか?」
思わず訊ねた言葉に、ユキは怪訝に首をかしげ、いいえと答えた。だがでは、あれは何者だ?
「じゃあ、恋人……ですか?」
突然の問いに、意味が掴めなかったのか、ユキは不信気に首を傾げる。その物慣れない仕草が、酷く心を抉った。
こんな純粋で清廉な人に手を出したの誰だ? その写真の男か? もしそうなら、そいつはなぜ今、ここにいないんだ? あんな幸せそうな顔をさせておいて、子供が出来たら放り捨てたのか? そうだとしたら、許せない。
自分のことを棚に上げ、怒りに震えた正志は、鏡台の上の写真に手を伸ばした。
「この男ですよ! こいつは、ユキさんのなんなんです!」
そう叫ぶつもりだった。しかし伸ばしかけた手は、写真に届く前に、払い除けられ、出かけた声も途中で止まる。
正志の手を退けたユキの目は、穏やかに手料理を振舞ってくれるときとは別人のように鋭く冷たかった。射るような瞳で正志を見つめ、さりげなく後ろ手で写真を剥がす。
「他人のもん勝手に取ったらアカン」
ユキは、剥がした写真を鏡台の引き出しの中に仕舞いながら、きつい瞳で話した。その声はいつもよりずっと冷たく突き放して聞える。
「別に、取りはしません、ただ気になって、その写真の男は誰ですか?」
「あなたには、関係、ありません」
気を取り直したのか、ユキはさっきよりは少し和らいだ声でゆっくりと答えた。相変わらず発音がたどたどしい。
だが彼女が無口なのも、話し方がぎこちないのも、素性を隠すためと思えば納得できる。
あの写真の男が恋人で、そいつの子供を生むためにここに来ているとしたら、それで素性を隠したいのだとしたら、それは秘密にしなければならない理由があるということになる。その理由はなんだと考えると、「不倫」という単語が頭に浮かんだ。
もしくは、写真の男とは既に別れていて、その後、妊娠が発覚、悩んだ末、彼女はそいつに内緒で、子供を生もうと考えた……とか?
そこまで考えて胸がズキリと痛んだ。
彼女は、こんな辺鄙な土地で、たった一人で子供を生もうとしている。一人で生んで、一人で育てようとしている。そんな、寂しい生き方を、なぜ、選んだのだ? それほどに、その男が好きだったのか? 今も、愛してるのか?
気丈な表情のユキとは正反対に、正志は動揺した。彼女に、そんな寂しい道を歩かせたくない。そんな男のことなんか忘れて、自分と生きて欲しい。モヤモヤと蟠り、胸の内だけで勝手に思い詰めた正志は、自分を突き離そうとするユキの頑なさを無視するように、一歩前へ出た。
「関係あります、僕はあなたが……」
――好きです。
そう言いかけた言葉は、不意に見せられたユキの笑顔に動揺し、留まった。彼女は臆した正志を静かに見つめていた。
「正志さん、あなたにも恋人はいるでしょう?」
「え、僕ですか、いや、僕は……」
「いるでしょ?」
いませんよと答えようとしていた正志に、ユキはきっぱり、いるはずだと言い切った。胸の奥を見透かされたような気がしてドキリとする。
「なんで……そう思うんですか?」
「なんで? わかりますよ、だって、慣れてらっしゃるし」
「慣れてる? 僕がですか?」
「はい、普段から女性とよく話しているでしょう? それも、極親しい女の方と」
「いや、それは……」
なんでわかるんだと戸惑った。しかし彼女は確信しているようだ。そこで誤魔化すことも出来ない。正志も仕方なく、東京に置いてきた恋人の存在を認めた。
「隠せませんね、実は東京では彼女がいました」
「いました?」
過去形の答えにユキが視線を上げる。正志はそれに便乗し、彼女とは別れるつもりなのだと話そうと考えた。しかしそれにしても、あまり悪い男という印象を与えたくない。どう話すべきかと言い淀む。
「はい、でも、喧嘩しちゃって……最近うまくいってないんです、相性が悪いというか……」
「喧嘩、ですか」
「はい、まあ」
「理由はなんです?」
「え、いやそれは……」
それは彼女が妊娠したと言ってきたからだ。そして決断を迫った。
自分は子供を生む、それはあなたの子だ。だからあなたにも子供の父親としての責任がある、世間体もある。子供の将来と、自分たちの立場を考えれば、結婚するしかないだろう。彼女はそう言っていた。
いや、言葉に出しては言わなかったが、言ったも同じだ。恋人を妊娠させて逃げた最低の男と言われたくなければ結婚しかない。暗にそう迫っていた。だから逃げた。
しかし、そう言ってしまうと、ユキに酷い男と思われてしまうだろう。それは嫌だ。
身勝手に我侭に、そう考えた正志は、さらに言い濁した。
「喧嘩のわけなんか、些細なことなんです、些細過ぎて忘れてしまったくらいだ、ただなんというか、自信がなくて」
「なんの?」
「彼女のことが本当に好きなのか、わからなくなってしまって……ただなんとなく、成り行きで付き合ってるだけなのかもしれないと」
「そうですか」
自信がないと話すと、ユキは真顔で小さく頷いた。だからわかってくれたのかと思った。だがそうではなかったようだ。彼女は、少し怒っているような目をして、そう思うなら、そのまま別れればいいんじゃないですかと答えた。
「いやでも、そんな簡単には……」
そこではい、そうしますと言ってしまうと、渡りに船というか、待ち望んでいたかのようで決まりが悪い。正志はわざと躊躇して見せた。ユキに、誠実な男と思われたいからだ。
「好きか好きじゃないか、簡単な話です、好きでもない、愛せない女と一緒にいても疲れるだけでしょう? あなたも、ですが、お相手のほうだってそうです」
「相手?」
「はい」
少しでも、ユキの気を引きたいと姑息な思いで言った言葉に、彼女は真摯に対応した。だがその意味がよくわからない。聞き返すとユキは、女にだって思いはありますよと答えた。
「彼女にだって先はあるんです、あなたとの未来が望めないなら、早々に見切りをつけて、もっと実りのある恋を探すことも出来る、そのためにも、あなたがはっきりしなければ……愛してないなら早くそう言うべきです、そうすれば女は先を見ることが出来る」
「先って、まさかそんな」
「なにがまさかです? 正志さんのほうこそ、、まさか女はいつまでも待ってるものと思ってるんですか? 彼女に思いをよせる男が一人もいないとでも?」
ずいぶん自惚れ屋なんですねと、ユキは真顔で言った。その言葉で思考が止まる。
彼女に、別の男? そんなこと、考えてもみなかった。
いきなり突きつけられた話に、狼狽し、正志は黙り込む。ユキはそれを静かな瞳で見ていた。
「正志さん、目を、閉じてください」
「え?」
「閉じて、ください」
「ぁ、はい」
有無を言わさぬ口調で告げられ、慌てて目を閉じる。
なんだろう? まかさキスでもしてくれるのか?
あり得ないだろうに、そんな妄想をし、身体が火照る。ドキドキしながらユキの動きを全身で追おうとした。鼓動が早まる。
「なにが見えますか?」
「え? いや、なにも……」
彼女がなにを言いたいのかわからず、ただ口ごもる。目を閉じたら何も見えない。当たり前の事実だけを答えると、ユキはそんなことはないと話を続けた。
「額の中心に意識を集中して、そこに光が見えるハズです」
「光?」
「はい、見えませんか?」
「え、ぁあ、いや……」
よくわからないと答えると、ユキはそんなことはない、もっとよく見てと話す。すると、不思議なことに、そこに光があるような気がして来た。
「見えました?」
「……はい」
「じゃあその光を見つめて……そこに、誰かいるでしょう?」
「え? 誰?」
「誰か、です……そこにいます、見つめてください」
わけがわからず、正志はその微かな光を見つめた。するとそこに、ぼんやりと、人影らしきものが浮かんで見えた。だが誰だかわからない。
「見えましたか?」
「はい」
「そこにいる人が、あなたの真に愛する人です」
でも誰なのかぼんやりしていてよくわからないんですと話すと、ユキは今にはっきりわかるようになりますよと言った。その声があまりに確信めいていて、信じそうになる。
ユキも、そうなのだろうか。目を閉じて、そこに映る誰かを、思いつづけているのだろうか。……誰を、見ているのだろう?
湧き上がる思いを抑えきれず、思わず口に出す。
「ユキさんは誰を見てるんですか?」
「え?」
「っきの(写真の)男、ですか?」
鋭く切り込んでいくと、ユキは少し戸惑った表情で、半歩下がった。そこに、彼女の迷いが見える気がした。
「そいつはなんで今ここにいないんです? あなたはなぜ一人でここに居るんです? いや、そうじゃない、ユキさんの望む人、それは誰ですか?」
問い詰めると、ユキは困惑した表情で視線をそらせ、黙り込む。その顔を見て勝手に納得した。ユキは、あの男を愛しているのだ。そして、そいつにはもう、会えない。
どういう事情かは知らない、知りたくもない。だが許せなかった。彼女は、そんなに簡単に踏み躙られていい人じゃない。
つい気合いが入り、彼女の腕を取る。ユキは一瞬ギクリとしたような、怯えた目をした。しかし、それは本当に一瞬だ。すぐいつもの気丈な表情になり、正志の手を振り払う。
「あなたには、関係ありません」
冷たい返事に心が逸る。逆に煽られた気分だ。
正志は自分を睨むユキを見つめ返し、関係ありますよと叫んだ。
「僕はあなたが好きです! だから許せないんだ、なぜそいつは今、ここに、あなたの傍にいないんですか!」
「好き? 私を?」
勢いで告白すると、ユキはなぜだか不愉快そうに眉間に皺をよせた。なにか気に障ることを言ったろうかと、つい気後れになる。すると彼女は臆した正志に追い討ちをかける。
「私のどこが? あなたは私のなにを知ってるというんですか?」
「知りませんよ、そりゃ……でも好きになるのに理由なんてないでしょう? あなたは素敵な人だ」
出会って三日で好きになったと言っても胡散臭い。彼女にそう思われても仕方がないとは思う。自分だって、告白するには早過ぎるとは思っていた。だが、母の話が背中を押した。
彼女は妊娠している。たった一人でこんな田舎町にやってきて、一人で生んで、一人で育てる気でいる。そう思えば黙っていられない。まだ若いのに、こんなに美しい人なのに、なんでそんな道を選ぶんだ? そんな男の子供など、生む価値はない。今からでもいい、いい医者にかかって、始末してもらえば、やり直せるハズだ。そして次の恋を探すべきだ。
恋心に目が眩んでユキに迫る。
「あなたは僕に食事を作ってくれた、疲れた顔をしてると言って、温かい食卓を用意してくれた、あなたは優しい人だ、そして美しい、そんなあなたが人生を台無しにするのを見過ごせない!」
「それは私が決めることです」
「それが間違ってると思ったら止めたい、そう思うのは、あなたを愛する者として、当然でしょう!」
「愛する? 私を、ですか?」
「そうです」
少し怯んだように見えるユキに、正志は自信満々の即答で返事をする。あなたが好きです、出会って間もなくても、愛してるんですと真剣に見つめた。だが彼女は、数秒の沈黙の後、冷めた目で睨むように正志を見つめた。声が冷たい。
「私のどこが好きですか?」
「え、や、全部ですよ、あなたは美しい、料理上手で、さらに優しい、素晴らしい女性だ」
「美しい? では、私が醜かったら? 事故かなにかで大怪我をして、寝たきりになったら? 二目と見られぬ醜い顔になって、料理どころか、一人で排泄も出来ないようになったら? それでもあなたは私を好きだと言えますか?」
「え? いや、そんな仮定の話、わかるわけないですよ、やめてください」
「仮定じゃないです、いつ何が起きるかなんて、誰にもわかりませんよ、私がそうならないという保障はないです」
「そりゃ……でも」
「私がそうなったとき、それでもあなたは、私を好きと言えますか? そうでないなら、それは錯覚です」
自分の告白を迷惑だとでも言うように、ユキは頑なに錯覚だ、思い込みだと決め付ける。だが、そう言われれば言われるほど、正志のほうも意地になった。
「じゃああなたはどうなんです? あなたはその男が寝たきりになっても、愛してると言えるんですか?」
言えるわけがない、誰だって迷うはずだ。形だけは出来ると頷いたとしても、そこに本音はない。そう思って聞き返した問いに、だがユキは、言えますと即答した。
「当然です、その覚悟がなく、私が今、こうしているとでも?」
「ぇ、や、でもそれは……」
心外だとでも言いたげに、ユキは真剣な目をしていた。その迫力に押され、正志は口ごもる。すると彼女は、ふうと息を吐き、落ちて来た前髪をかき上げながら、視線を逸らした。少し疲れたような足取りで窓の近くまで歩き、両腕を組んで佇む姿は、それまで正志が見てきた彼女とは別人のようだ。
「正直、自分に人を愛すことが出来るとは、思っとらんかった」
「え?」
いきなり話はじめたユキは、言葉遣いも雰囲気も、その全てが今までとまるで違っていた。その目は正志のほうをチラリとも見ず、視線は窓の外だ。
彼女が見ているのは、砂浜や海などではない。どこか遠くに、いるのだろう、その男だ。静かに話しながらも、彼女の瞳はただ熱かった。
「戯れに情を交わすことは出来ても、本当に本気で人を愛することなどないと思っとった……それをあいつは」
「あいつ……って?」
あの写真の男か? そう問いたかったが、声にならなかった。それは、彼女の肩が、横顔が、そのわけも、相手についても、なにも語ることは出来ないと、切なさに震えているのを見たからだ。
彼女は、その男を愛している。自分の全てを捨ててもかまわないほど、深く熱く、愛している。そう気づいたとき、正志は目の奥が熱くなるのを感じた。彼女の思いが健気で、なお更に愛しさが増す。
ユキは、全てを許している。自分の傍にいない男のことも、一人で生きることも、全部飲み込んで、ここにいるのだ。それほどに、彼女の愛は深い。自分ではダメなのだ……そうと気づいても、愛しさだけは消えなかった。
「だから生むんですか?」
「え……?」
「すみません、母に、あなたが妊娠してると聞いて……つい」
唐突に聞いた言葉に、ユキが振り向く。ちょっといきなり過ぎたかもしれないと正志も、慌てて言い繕った。するとユキは、ああと、腑に落ちた表情で頷き、小さく笑った。
「正志さん、あなたはなにか勘違いをしています」
「勘違い、ですか?」
「ええ、勘違いです……私は不幸でもなければ、一人きりなわけでもありません」
「え、じゃあ……」
「たしかに、ここへは一人で来ました、あなたの思うとおり、子供を生むために……でもそれは私が望んだことです」
落ち着いた声で話すユキに、正志はなぜと聞き返した。しかし彼女は答えない。ただ静かな面が、その男への尽きることのない愛を語る。
遅かったのだ。この人に愛を語るには、出会うのが遅過ぎた。せめて、彼女がその男に出会う前に会っていれば……。
そこまで考えて、自分の愚かさに笑った。
そいつより早く彼女に会っていたとして、何だというんだろう? それで彼女が自分を見てくれると本気で思うのか? 子供が出来たと言ってきた恋人を捨てて逃げ出すような卑怯者を、彼女が愛すると、本気思うのか? だとしたら大馬鹿だ。
彼女がこれほどに思う男だ、きっと相手の男も凄い奴なのだろう。自分が敵うはずがない。
「あなたは、自分の気持ちから逃げている、彼女のことをどうするか、その結論を先延ばしにしたいんです、だから私にそんなことを言う」
「それは違います!」
思わぬ言葉に、つい反論したが、図星かもしれないと思う心が勝り、歯切れは悪くなった。正志の迷いを見透かすように、ユキは正面から正志を見つめる。
「あなたが迷う気持ちもわからなくもない、ですよ……でも、子供は待ってくれません、こうしている間にも、刻々と成長しています」
「そ、う……ですね」
その通りなので反論も出来ない。するとユキは少し余所余所しい笑みを浮かべた。
「彼女を愛してるかそうでないか、それは自分の胸に聞いてください、本当はあなたにもわかっているはずです、ただそうと気づくのが怖いだけでしょう?」
「怖い?」
「はい、彼女を愛してないと気づいてしまえば、自分がいかにも悪者だ、だからその結論から逃げてる、そうじゃないですか?」
そうかもしれない。
そのとき正志は素直に、そう思った。その正志に、ユキはさらに問う。
「彼女のどこを好きになったんですか?」
「どこ?」
「はい、それほどの気持ちはなくても、付き合おうと思った切欠はあるでしょう? なぜ、彼女を恋人に選んだんですか?」
「なぜ……?」
ユキに問われ、正志は恋人との出会いの日を思い返した。
彼女に初めて会ったのは、友人に誘われていった飲み会の席だ。そこで友人の恋人の友だちとして来ていた、彼女、津子に会った。
第一印象は、普通。別に取り立てて可愛いわけでもないし、ブスでもない。可もなく不可もなく、連れて歩いて恥ずかしい女ではないが、特別自慢になるような美女でもない、ごく普通の女の子という感じに見えた。友人の恋人という女もたいしたことなくて、それは別に良かったのだが、目の前でやたらイチャイチャされるのがちょっと目障りで、ついつい酒を過ごした。そしておそらく飲みすぎたのだろう、気づけば自分は寝入っていたらしい、津子に肩を揺すられ、目覚めたのだ。
時刻はすでに朝と言える午前四時過ぎ、閉店時間だと店員に促され、困った彼女は眠ったままの正志に、起きてくださいと小声で言った。寝ぼけた頭で瞼を開き、彼女の言うまま立ち上がって店を出た。会計はすでに済まされていて、正志のぶんは津子が支払ってくれたらしい。
「ごめん、面倒かけちゃったね、ありがとう」
「いえ」
「おまけにこんな時間までつき合わせちゃって、ごめん」
「しょうがないですよ、寝ちゃってる人、一人でおいて帰れませんし」
友人とその恋人は、ずいぶん早くに帰ってしまったようで、その後は津子が一人でチビチビと飲みながら正志が起きるのを待っていたらしい。そう思うと申し訳ない。
申し訳ないが、ちょっと自惚れたくなる話だ。
普通だったら帰ろうという話になったとき、正志を起こすものだろうし、もしも正志が起きなくて、待っているとしたら、それは友人らのほうのはずだ。初対面の津子がそこに残り、待っているなど、ちょっとありえない。そう話すと、彼女は、二人が良いムードで、早く二人きりになりたそうだったから気を利かせたのだと答えた。
「私なら別に一人暮らしだし、恋人もいないし、時間、気にしなくても大丈夫だから」
「ふぅん」
一人暮らし、恋人はいない……その言葉が耳に残り、さりげないアプローチかもしれないと思った。ちょうどそのころ、正志もフリーだったこともあり、酒の勢いも借りて、かなり大胆に迫ったような気がする。
「もしかして津子さん、僕に気がある?」
「え?」
「だって、ほら、こんな時間まで僕を待っててくれるなんてさ、あり得ないだろ普通、だからそうかなって……」
「……ずいぶん強気のナンパですね」
「ナンパはキミのほうじゃないの?」
「違います」
「じゃあなんで待っててくれたの?」
「糸村さんの会計、私が立て替えてるんですけど、6845円、それに、糸村さんが起きるまでに私が注文しなければならなかったドリンク代とスイーツ代2250円、〆て9095円、今、払えます?」
「え……?」
なんで待ってたのかという問いに、津子は少し考えてから、ニコリと笑い、立て替えた料金の金額を言った。すぐ返せますかと聞き返され、手持ちがそれほど多くなかった正志は、それを出してしまうとタクシーに乗れなくなると答えた。すると津子は、じゃあ後日でいいですと正志の連絡先を聞き、手持ちが出来たら正志のほうから連絡をする、という約束をして、別れたのだ。
そして後日、お金を返すという口実で二人は待ち合わせ、正志は迷惑をかけたお詫びにと食事を奢り、そのまま映画も見た。デートみたいと笑う彼女が可愛く見えて、じゃあデートにしちゃいましょうと話し、それからなんとなく付き合い続けている。
あの日、立て替えた居酒屋料金を請求する津子の顔が、とても可愛く健気に見えて、心引かれた……それがその理由かもしれない。
「思い出しました? で、どうですか、もし今、お腹の子供ごと、彼女を欲しいという男が現れたら、あなたは黙って身を引きますか?」
「え……?」
「ここに彼女はいないんです、取り繕うことはありません、正直に答えてみてください、彼女と、別れたいですか? 欲しいという男が現れたら逆に助かると思いますか?」
「それは……」
ユキの言葉は不思議な響きを持っていた。子供が出来たと言ってきた恋人を放ってきた男である正志にも、別に怒るでもない。ただ正直に、自分の気持ちと向き合えと促してくれる。お陰で正志も、自分の気持ちを真正面から見つめることが出来た。
もしも今、津子に言い寄る男がいたとしたら、そいつが、彼女をよこせと言って来たら……。
迷う正志を、ユキは少し哀しそうな瞳でじっと見つめる。
「人の気持ちは理屈じゃ動きません、道徳観だけで一緒になっても、お互い辛いだけです、愛しているか、いないか、そこはご自身でよく考えてください、」
「でも……」
「結論を急かすわけではありません、でも子供は待ってくれない、とにかくただお互い不幸にならないように、後悔しない道を探すことです」
「後悔しない道」
「はい、あなたの気持ちを正直に彼女に伝えればそれでいいんです、どんな結論が出ても、必ずそうしてください」
「……わかりました」
静かに語り合ったあと、静かなユキの横顔を、切なく見つめた。
あなたは、それでいいんですか? 一人で生んで、一人で育てる。それを相手の男は知ってるんですか? そうと訊ねたくても声に出せない。それはユキがあまりに達観しているからだ。その決心が健気で切ない。卑怯者の自分になにが言えよう……その思いが口を鈍らせる。
だが……。
「ユキさんは、どうなんですか?」
「なにがですか?」
「さっきの写真の男、あいつはあなたがこんなところで一人で子供を生もうとしていることを知ってるんですか? 知ってて放ってるんですか?」
彼女には酷だ。そう思いながらも、つい訊ねた。さっきの例えではないが、もしそいつが彼女をいらないと言うなら、自分が立候補したい。そう思って聞いた。だがユキは、無遠慮なその問いにも笑って答えた。
「彼らは全部知ってますよ、放って来たのは私のほうなんです」
「え……?」
彼ら……と、ユキは複数形で答えた。その意味を頭の中で何度も反復し、考える。それに気づいたのか、ユキはクッと愛らしく笑いかけ、そろそろ夕食の時刻ですねと言った。その笑顔が眩し過ぎて思わず目を伏せる。
「今日はちょっと新しいのを考えたんです、ぜひ味見してってください」
「え、あ、はい」
つい今まで、あなたが好きだとか、東京に置いてきた恋人に子供が出来て悩んでいるとか、かなり深刻な話をしていたはずなのに、ユキの笑顔と言葉は、それらを全て払拭してしまう。正志もごく自然に、ああ、それは楽しみですねと立ち上がった。
それから二人でユキの作った夕食を食べ、穏やかに話しながら数時間を過ごした。話題は殆ど、正志が仕事で取材した各店の特徴や味、そのときの感想などで、個人的な話にはならなかったが、彼女が興味深げに聞いてくれるのが嬉しい。
楽しい気分で食事を終えた正志は、時刻が夜七時を回ったばかりで、まだそれほど遅くないことに気づいた。少し早めの夕食だったようだ。いつもそうなのか、それともなにかあるのかと、ユキの様子を窺う。彼女は正志に食後のお茶を出したあと、ちょっと失礼と中座し、先ほどの小部屋に引き篭もっている。なにをしているのかなと考えたが、ユキは出されたお茶もまだ飲みきらないほど早く、ほんの数分で出て来た。
小さな鞄を手に戻って来たユキは、いつもの白い作務衣ではなく、紺地の地味なスウェット姿だった。肩甲骨のあたりまである長い髪をフワリと下ろしたそのいでたちに、正志は目を見張る。
彼女はいつも、料理の邪魔になるからか、長い髪を一つに束ね、後頭部あたりでクルリと団子にしていた。それでも充分美しかった。だが、今のように自然におろしてみると、さらに美しい。華やかで可憐、テレビに出てくるアイドルタレントのような、ちょっと、いや、かなり、ひと目を引く可愛らしさだ。
そういえば、歳はいくつなのだろう? 二十代半ばあたりだと思っていたが、こうしてみると、前半、いや、十代でもいけそうな気がする。しかし子供を生むと言うし、立ち居振る舞いも、だいぶ落ち着いて見える。実際いくつなのかは想像もできない。正志は、母親に彼女の年齢も聞いておけばよかったなと思いながら、腰を浮かした。
「あの、どこか行くんですか?」
出かけるにしては化粧気もないし、服装も地味なスウェットだが、その華やいだ顔を見ていると、なにかいいことでもあるのかと聞きたくなる。そこで聞いてみたのだが、その問いにユキは、正志さんも一緒にいかがですかと笑った。なんだろうかと思いながらのこのこついて行く。
行き先は、最近できたばかりのショッピングモール内にある、スポーツジムだった。
そこは、モール内にあるにしてはかなり本格的なつくりのジムで、身体を鍛えるための様々な機具が配置されている。バーのついたダンスレッスンルームもあり、柔軟体操用のマットルームも完備されているようだ。しかもシャワー付き。かなり本格的ジムだなと驚きながらあたりを見回していると、ユキは受付に会員証を提示し、正志を差して、連れですと話した。どうやら、会員一人に対し、一人までなら非会員も入れるらしい。彼女はそのまま広い柔軟ルームへと入った。正志も慌てて後を追う。
「正志さんは、ジムは初めてですか?」
「え、ぁ、はい」
「じゃあまずは柔軟体操から入りましょうか、いきなり身体を動かすのは筋肉にも良くないですから」
「ぁ……はい」
話しながら、ユキは受付で借りてきたジャージの上下を正志に手渡す。正志は、なにがどうなっているのかわからずに、もたつきながらもそれに着替え、彼女の横に並んだ。
「そこで見ていて、私のするのと同じようにしてみてください」
「はい」
彼女はマットの上にぺたりと座り、足を大きく広げて身体を伏せたり、伸ばしたりという動きを黙々と続けた。それを横で見ていた正志は、ユキの身体のしなやかさに驚く。元は体操選手かと思えるほどだ。だが驚かされたのはそれだけではない。なんと彼女は、柔軟のあと、疲れも見せず、そのままマシンジムへと取り組んだ。そのメニューが物凄い。
レッグプレス、ペッグデック、ラットプルダウン、ケーブルトライセップにランニングマシン、その種類もさることながら、見事なフォームに見惚れる。妊娠中というのは自分の聞き違いかと思うほど、彼女の動きには無駄も無理もない。ゆったりとしたスピードで、充分に時間をかけて付加をかけ、それをまた、倍近い時間をかけて戻す。その繰り返しは、見ているぶんには美しいが、本人はそうとうしんどいはずだ。それを彼女は呆れるくらい熱心に、黙々と続けた。しかし、さすがに腹筋は不味いだろうと怖くなり、声をかける。
「大丈夫なんですかそんなことして、お腹に障るんじゃ……」
「大丈夫です、ぬるいメニューですし、医師の許可も得てます」
「……そうなんですか」
「はい」
ぬるいメニューと言われて力が抜けた。一緒にどうぞと声をかけられ、同じように始めた正志は、全て数回で挫折したというのに、ユキは涼しい顔だ。ひたいに汗を滲ませながらも、呼吸一つ乱さず、各トレーニングを十分から十五分ずつこなしていった。
そしてジムに着いてから二時間後、一通りのメニューを終えたのか、ユキはようやく息をつき、一度シャワールームに消えてから、帰りましょうかと話した。ジムのベンチに座り、待っていた正志は、まだ少し濡れた髪で戻って来たユキを、眩しく見つめ、黙ってその後に続く。