「誰よ!見れば分かるでしょ、主人が脚立から落ちたの!救急車を呼ばなくちゃ!」
「救急車を呼ぶ必要はありません」
「どうしてよ!」
「様子や状況を見る限り、恐らく軽い捻挫です。勿論、大事をとって医師の診断を受けることには賛成です。ただ、救急車を呼ぶまでの緊急性はありません」
「どうしてあなたがそんなことを言えるのよ!」
「現に旦那さんは自力で立ち上がることが出来ています。救急車ではなくタクシーを呼ぶので、携帯を貸していただけますか?」
「タクシーならお金がかかるじゃない!」
「救急車は便利屋でもボランティアでもありません。本当に必要ですか?」
「……」
確かに、おじさんは自力で立ち上がり数歩先の縁側に腰掛けていた。おばさんは非の打ち所のない正論を言われ、顔を真っ赤にしている。そして投げやりにその子に携帯を渡した。
携帯を受け取ると、その子はテキパキとタクシーを呼ぶ。
「5分で到着するようです。市立病院が一番近いので、そちらに行かれたらどうでしょうか。どうぞお大事に」
丁寧にお辞儀をするその子が、紫垣さんには同年代に見えなかった。くるりと振り返ったその子の顔を見て、紫垣さんはようやく誰だか分かった。同じクラスの萌葱翠だった。
普段は殆ど言葉を発することがないので、そのソプラノボイスを聞く機会もあまりなかった。それよりも、常日頃一人で過ごす萌葱翠の今の一連の行動に紫垣さんは驚いた。
正義感に溢れ、テキパキと行動の出来る萌葱翠を、クラスで知っている人はいるのだろうか。
少なくとも紫垣さんは想像すら出来なかった。姿勢の正しい萌葱翠が、いつも以上に背筋が良く見えた。
「……紫垣さん」
萌葱翠が紫垣さんに気が付くと、声をかけてきた。
紫垣さんは演劇部所属とあって、あまり物怖じも人見知りもしない方だが、今の出来事を見た後では萌葱翠と話すことに少し緊張してしまう。
「も、萌葱さん」
「こんにちは、今帰りですか?」
「うん。この先のマンションに住んでるから」
「そうですか。良かったら途中まで一緒に帰りましょう」
同級生に敬語を使われるのは何だか落ち着かないが、きっとこれが萌葱翠の通常運転なのだと紫垣さんは納得することにした。