2.ボクは青い鳥を見失う
「実は……学費を滞納してしまって、困っているのです」
先に切り出したのは母親だった。
娘の水河ちゃんはずっとうなだれて黙りこくっているし、付き添いのボクが口を挟むわけにはいかないしで、自然と口火を切るのは母親に絞られた。
浅谷流水――それが母親の名だ。
幸薄そうな容貌は親子共通だ。いつも表情に影を落とし、陰気そうに振る舞っている。
「滞納ですか」
カウンセラーのナミダ先生は、合いの手を入れるように繰り返した。
それはきついな……公立校より私立校の方が高く付くのは、今も昔も変わらない。
いろいろな補助制度もあるにせよ、それでも手が回らないんだろうか?
「滞納の原因をお聞かせ願えますか?」
やんわりと先を促すナミダ先生に、浅谷親子はホッと胸を撫で下ろした。
おどおどした態度は残っているけど、空気が和らいだのは確かだ。このカウンセラー、本当に百戦錬磨のタラシだな。
「わたしは夫と離婚し、娘の養育費を毎月もらっていたんですが……今年に入ってから、振り込みが途絶えてしまったんです……」
「ほう」身を乗り出すナミダ先生。「支払いをバックレたわけですか。よくある話だ」
「学費は養育費から捻出していたので……学校側からも結構せっつかれていて……」
「私、退学になっちゃうんですか……?」
水河ちゃんもいたたまれなくなったのか、喉から声を絞り出した。
顔を両手で覆って、前のめりに上体を伏せる。か細い肢体がさらに小さく見えた。
(それがストレスの原因か)
せっかく入った高校、しかも私立の進学校だから、辞めたらもったいない。
かく言うボクも、血反吐を出す思いで受験に合格した記憶があるよ。
「元・夫は……いい加減で、不真面目で、不誠実を絵に描いたような駄目亭主でした」
母親の愚痴が堰を切った。
一度火が点くと止まらないっぽい。心の奥底に不満を溜め込んでいた反動かな。
「元・夫は娘の育児放棄、ときには暴力を振るっていました。そのせいで娘は夫に怯えてしまって……おまけにろくな定職にも就かず、ふらりと旅に出て連絡をよこさず、たまに家へ戻って来ても、なけなしの貯蓄を奪ってまた家を空ける……の繰り返しでした」
「ありがちなパターンですね。あるある」
「なので、弁護士を立てて離婚を成立させたんです……」
「へぇ、弁護士を」
「貯蓄をはたいて雇いました……今でもわたしたちを気にかけてもらっています」
「なるほど。その旦那さんは育児放棄と家庭内暴力、お二人は被虐待症候群の向きがありますね、あるある。虐待が常態化すると反抗心を削がれ、甘受してしまう症状です」
「ネグレクト……ひぎゃくたいしょうこうぐん……?」
「旦那さんは恐らく酒、タバコ、ギャンブル好きで、睡眠時間は短く、夜型。時間もルーズで、約束を守らない、忘れっぽい、気が短い、語彙力も低い。定職に就かないのではなく、就けなかったと見るべきですね。外見も気にせず、だらけた身なりが浮かびます」
「ど、どうして判るんですかっ?」
浅谷親子がそろって目を剥いている。
ナミダ先生は、何てことなさそうに肩をすくめた。
「心理学の統計と分析ですよ。よくあるパターンを選別するとこうなりました」
「凄い……」
あ、水河ちゃんが喰い付いた。
ボクも以前、ナミダ先生に性格を分析されて、彼のペースにハメられたことがある。この人はそういう手練手管が本当にうまいな。
「もう一つ付け加えると」指を立てるナミダ先生。「旦那さんは『青い鳥症候群』です」
「青い……鳥?」
何それ、と浅谷親子は首を傾げた。末席のボクも同様だ。
青い鳥って……有名なメーテルリンクの?
「メーテルリンクの『青い鳥』にちなんだ心理学用語です。本当の自分とは何か、理想の青い鳥を求めて自分探しの旅に出たまま戻らなくなる、フラフラした心理です。安定した生活を疎み、定職にも就かず彷徨い歩く、困った状態ですね。あるある」
「元・夫がまさにそんな症状でした!」
母親が何度も強く頷いた。
定職に就かないのなら、お金を振り込めなくなるのも無理ないか。その日暮らしで糊口をしのぐから養育費も途絶えたんだろう。
「わたしは弁護士に頼んで、元・夫との連絡を取ろうとしました……弁護士によると、元・夫は現在、市外の田舎町に転居し、町工場で日雇い従業員をしているそうです」
一応、働いては居るらしい。
さすがに住所不定無職ではなかったか。青い鳥だから油断は出来ないけど。
「私……弁護士さん好き」
水河ちゃんがぽややんと夢見がちに相好を崩した。
は? 弁護士が好き?
いきなりノロケたぞ、この子。弁護士が何歳だか知らないけど、水河ちゃんにしては大胆発言だな。引っ込み思案で大人しい子なのに。
「そう言えば水河さん」現実に引き戻すナミダ先生。「君は心因性の体調不良を訴えてたね。父親との軋轢が要因だとして、それ以外に悩みごとはないかな?」
「……というと?」
「女性特有の心の病や症候群もあるからね。心当たりがあれば早めに絞り込みたい」
「はぁ……」
「例えば、シンデレラ・コンプレックス。これは自分をシンデレラに見立てて、白馬の王子様を待ち望む依存症だ。今言った弁護士さん、まさしく君たちに親身な王子様だね」
「えっ。そんなこと、な、ないですよぅ……」
顔が真っ赤だぞ水河ちゃん。
「シンデレラに似た症状として、男性に依存しつつも内心では反発し、破滅させたくなるユディット・コンプレックスなんてのもあるね。あるある」
いや、めったにないよ、そんな歪んだ気持ち。
「ユディット? んー……私には判りません……ごめんなさい」
水河ちゃんは困ったように頭を下げた。
ナミダ先生も人が悪い。矢継ぎ早に専門用語を連発して、水河ちゃんを試したんだ。
室内が静まり返った隙に、母親が割り込んで話の矛先を戻す。
「わたしたち、今度の週末に、弁護士を伴って元・夫に会いに行く予定なんです。その前に何かアドバイスをもらえればと思って、カウンセラーを頼ったんですが……」
週末に?
父親の住む田舎町へ?
弁護士が場をセッティングしたのかな。会う直前に蒸発されなければ良いけど。
「現時点では何とも言えませんね」あごに手を当てるナミダ先生。「弁護士に交渉を委託して、黙って見守るのが最善かと。駄目なら役所で母子家庭の援助を申請しましょう」
「うーん……それだけ、ですか?」
母親は不服そうだった。もっと具体的に、養育費を全額払わせる必勝の心理誘導とかを教われると期待したんだろうか?
当たり障りのないナミダ先生に、水河ちゃんも拍子抜けしている。
「何か……普通ですね。沁ちゃんが以前お世話になったらしいから、起死回生の助言が聞けるのかと思ったんですけど……」
「いやぁ。カウンセリングは通常、何日もかけて対話を重ねて解決するものだから」
「……沁ちゃんの悩みは即日解決したって聞きましたけど?」
うわ。今それを言っちゃうのか、水河ちゃん。
いくら友達でも、ちょっとボクはカチンと来た。あの件は繊細な問題だからね。
「仕方ないだろ、水河ちゃん」
「……沁ちゃん?」
「スクール・カウンセラーは週にたったの一日しか出勤しないんだ。そんなわずかな時間で手とり足とりご教示できる時間があると思う? しかもカウンセラーは本業を他に持っているんだぞ。ナミダ先生がどれだけ身を粉にしていると思っているんだ?」
ボクはいつの間にか、ナミダ先生の肩を持っていた。
このカウンセラーには恩があるからね。あれは確かに即日解決したけど、極めて特殊な例なのは想像に難くない。
すると母親が鼻を鳴らした。
「ふん……本業を他に持っているですって? 週に一日だけ? だから片手間な返答しかよこさないんですね……見た目は格好良いのに、とんだ肩透かしでしたわ」
か、片手間な返答だと?
ボクは柄にもなく熱くなってしまった。
「何だとあんた――」
「やめるんだ、沁ちゃん」
僕の暴走をなだめたのは、ナミダ先生ご自身だった。
「でもナミダ先生……」
「いいんだ、よくある批判だよ。勤務時間は文科省の規定だから、どうしようもない」
そう語ったナミダ先生は、虚しく空笑いした。目が笑っていない。
――スクール・カウンセラーの問題点。
それがついに顕現した格好だ。
短い時間でノルマをこなさなければならないため、混雑時はどうしても面倒を見切れない。特に今日は、保護者会で他にも相談者が控えているしね。
しかし、相談者はもっと突っ込んだ話がしたいはずだ。せっかく心の悩みを打ち明けるんだから、真摯に接して欲しいんだ。
その齟齬。すれ違い。
スクール・カウンセラーを取り巻く環境は、改善すべき課題がまだまだ多い。そこを突かれたら反論できない――。
「また来週、僕は出勤しますので、そのときに結果をお聞かせ願えますか? 今週末に旦那さんと話し合うであろう報告を」
「ふん……気が向いたらね。帰るわよ水河」
「……はい」
二人は立ち去る。彼女たちにしては乱暴な歩調だった。
ボクが所在なげにまごつくと、ナミダ先生は「君も帰りなさい」と温和に諭す。
はぁ……やむを得ないか。ボクもすごすごソファから腰を上げた。
「やっと、お話終わったのね~」
廊下に出るや否や、泪先生の声が降り注いだ。
えっ、どこどこ?
見回せば、相談室の壁に聞き耳を立てている泪先生が居た。コソ泥ですか貴女は。
彼女の視線は、一足先に退室した浅谷親子を捉えて離さない。向こうも泪先生の奇行に驚いて、廊下で立ちすくんでいる。
「浅谷親子!」ビシッと指差す泪先生。「私のお兄ちゃんを、あんまり馬鹿にしないでくんない?」
うっわ、超ドスが利いた声だ。
泪先生、こんな怖い声も出せるのか……相当ハラワタが煮えくり返っているようだ。
母親も売り言葉に買い言葉で、こめかみに青筋を立てた。
「はぁ? カウンセラーのみならず、養護教諭まで減らず口を叩くつもり? 最低ね!」
思いっきり泪先生を侮蔑して、さっさと廊下を退散して行く。
水河ちゃんはときどきボクを振り返ったけど、母親にたしなめられて遠ざかる。こりゃボクの方も軋轢が生まれそうだなぁ。
「泪先生、良かったんですか?」
「あとで吠え面かかせてやる」ふんぞり返る泪先生。「一つ、予言するわ。あの親子は来週、必ずここに戻って来る。自分たちの過ちに気付いて、泣き付くわよ」
「そ、そうですかね」
「当然よ。お兄ちゃんが今まで人を救えなかったことって、ある?」
いや、知りませんけど……。
*
「助けて下さい、カウンセラーさん……!」
かくして泪先生の予言は実現した。
翌週、再び相談室に顔を出した浅谷親子。
そして案内人のボク。
って、なんでまたボクが付き添わなきゃいけないんだ……。
理由は単純、水河ちゃんに頼まれたからだ。先週、あんな大見得を切って相談室を出て行った手前、ボクを仲介役に挟まないと、再訪問する勇気が湧かなかったらしい。
どうやら父親に会ったものの、話がこじれたようだ。
あらましを泣きながら話す親子が痛々しかった。
「元・夫は、田舎の町工場で、電卓やパソコンのキーボードに使うボタンカバーを生産していました。それ以外はろくな産業もない辺鄙な場所で……最寄りの駅も無人。周辺は田園とあぜ道ばかりで、喫茶店が一軒あるきりでした」
「金欠だと、物価の安い過疎地へ引っ越すしかないんですよね。あるある」
ないんだかあるんだか。
このカウンセラー、内心ニヤニヤしながら親子を観察しているだろ絶対。
「本当は、弁護士さんの車に乗せてもらって行く予定でした……」はにかむように呟く水河ちゃん。「けど……当日、弁護士さんは事務が立て込んで遅くなるらしくて、現地集合することになって……私とママだけ、先に電車で無人駅へ着いたんです」
「へぇ。それで弁護士さんは?」
「事務を済ませ次第、車を飛ばして現地に駆け付けるとのことでした……駅前の喫茶店で待ち合わせをしました。ああ、弁護士さんの助手席って憧れますよね……」
おい水河ちゃん、話が脱線しそうだぞ。
そんなにぞっこんなのか。どんなイケメンなんだ? それともナイスミドルなのか?
「午後〇時頃……駅へ着いた私たちは、父親に電話を入れる予定だったんですが……」
水河ちゃん、大事そうに自分のスマートホンをひけらかした。
マイナーなキャリアだけど、最新モデルの機種だ。
ん? 学費も払えない赤貧の彼女が、最新モデルを買う余裕があるのか?
「以前は違う機種だったんですけど、奮発して弁護士さんと同じキャリアに変えました」
どんだけ弁護士に惚れているんだよ、この色ボケ女子高生。
ボク、この友達を素直な目で見られなくなりそうだ……。
「それが誤算でした」トホホと嘆息する母親。「そのキャリアは、過疎地の電波をサポートしていない『圏外』だったんです」
「うわ、あるある。マイナーなキャリアは特に、強い地域と弱い地域があるんですよね。都市圏は全域カバーしてるけど地方都市はからっきしとか。ありがちな話です」
ナミダ先生がしきりにあるある頷いた。
それが口癖なのは判ったから、もっと本筋の話をしましょうよ。
「だから私、スマホの代わりに……無人駅にあった公衆電話を使いました」
「公衆電話を」
「はい。私、生まれて初めて使いました……!」
普通はスマホさえあれば、わざわざ公衆電話なんか触らないもんなぁ。
かくいうボクも、電話ボックスに入ったことないや。どうやって電話をかけるのかも知らないよ。
「十円を入れて、プッシュボタンを押して……公衆電話ってパソコンのテンキーと同じなんですね、慣れない機械だったので緊張しました……ああ、怖かった」
やおら水河ちゃんは、自分の肩を抱いて震え始めた。
自分を虐待した父に電話をかけるなんて、さぞ嫌だっただろうなぁ。
「私……頑張りました。ここで逃げちゃ前に進めないって、弁護士さんにも言われましたし。ママが代わろうとしたんですけど、私の手で電話しました」
「番号はあらかじめ知ってたのかい?」
「父の電話番号はスマホに登録してあったので、それを見て電話しました……」
「僕も見て良いかな?」
ナミダ先生はスマホの画面を要求した。
『深川渓三/自宅030・72731・4989
/携帯090・18197・4323』
深川というのは、父方の苗字だろう。現在は離婚したから、水河ちゃんは母方の姓を名乗っているわけだ。
「父の自宅に電話したら……物凄い怒鳴り声で、威嚇されました」
そりゃそうだろうなぁ。もともと仲が悪かった上に養育費をせびりに来るなんて、歓迎されるとは思えない。
「父は怒りのあまり、何を叫んでるのか聞き取れないくらい発狂してて……ううっ」
「水河……大丈夫?」
ソファにうずくまる水河ちゃんを母親が手でさすった。
少しずつ落ち着きを取り戻した水河ちゃんだけど、父との対話は想像以上にトラウマをえぐったようだ。
「すぐに電話は切れちゃって……仕方なく、弁護士さんの到着を待ちました……」
「駅前の喫茶店で、弁護士と合流したのは午後一時過ぎでした」代弁する母。「わたしたちは、軽く腹ごしらえをしてから車に乗り、元・夫の家へ向かいました……」
歯切れの良くない語り口だ。
どうにも億劫な、話したくなさそうな唇の重さだった。
「わたしたちは……山ふもとの古びた一軒家に着きました。すると、家の玄関が開きっ放しで……屋内は家具が倒れ、荒らされて……空き巣か強盗が入ったような惨状でした」
え?
ちょっと待って、不穏な気配がするぞ。
「怪しんだ弁護士さんが先頭に立って、恐る恐る中へ進みました……廊下を抜け、リビングに入り、奥の台所に差しかかった所で……死体を見たんです」
「死体?」
「元・夫の刺殺死体です……うっすらと死斑も浮かんでいました!」
「え!?」
「元・夫は、娘が電話してから到着するまでの間に、強盗被害に遭ったんです……! 家からなけなしの現金と財布、通帳などが奪われて……彼の手許には免許証と携帯電話くらいしか残されていませんでした」
「そんな――」
「犯人はまだ見付かっていません……わたしたち、どうすれば良いのでしょう? 何より死体を見たショックが大きくて、日に日に心は荒む一方……嗚呼、カウンセラーさん。助けて下さい……治して下さい……!」
*