3.ボクは二つの死体の狭間にさいなむ
「嘘でしょ? 滝村先生が自殺?」
ボクは即座に呑み込めなかったよ。
だって、担任教師が唐突に死んだと言われても、現実味がなさ過ぎる。
ボクが呆然と立ち尽くす間、隣の泪先生はやけに落ち着き払った様相で、じっと相談室内を見渡していた。
凄いな、泪先生。死体発見現場を物怖じせず観察できるなんて。
こんな血みどろの惨状を目の当たりにしたら、悲鳴の一つくらい上げそうなのに。もしくは青ざめて絶句するとか、膝が笑って動けなくなるとか。
「ふ~ん。戸締まりは万全ね」
なんてことを冷ややかにこぼしているんだ。
泪先生、場慣れしているなぁ。もしかして過去にも流血沙汰に遭遇したことがあるのかな? または、ナミダ先生の義足とかで血は見慣れているとか?
「今日は雨だから~、相談室の窓はぴっちり締め切ってるわね~。となると、出入口はドアしかないんだけど、う~ん。自殺かなぁ?」
「……何をブツブツほざいている……! 早く警察に通報を……!」
ノッポの霜原が、腰の抜けた体を引きずって、必死に訴えた。
血の臭いでむせ返る中、その声で我に返った他の教師陣が、おぼつかない挙動で一一〇番をかけに職員室へ引っ込む。
「滝村先生って常にポシェットを持ち歩いてたわよね~」
泪先生が気にせず呟く。
死体のそばに転がっている小物入れ。
そこから取り出されたとおぼしきカミソリ。
他は何の変哲もない化粧道具ばかりだ。携帯用カミソリだって特に異質ではない。さっきも言った通り、ムダ毛やウブ毛を剃るのに常用するからね。
しかし、そんなものを首筋にあてがって自殺するなんて、衝動的にもほどがある。
なぜこんな場所で、しかも霜原との相談中に命を絶ったのか、ボクの貧困な想像力では補え切れないよ。
「本当に自殺なのかな~?」
泪先生が繰り返し、霜原の長身を見上げた。
一五〇センチくらいしかない小柄な泪先生と、一九〇センチを超えているであろうノッポの霜原とは、実に頭二つ分ほども身長差がある。
やおら傾けられた嫌疑に、霜原はこめかみをピクリとうずかせた。
自身の証言にケチを付けられたと思ったんだろう。
「……自殺しか、あり得ない……誰も手を出せる状況では……なかった」
「ふ~ん?」
泪先生はジト目になって、試すような上目遣いで霜原を眺め続ける。
あ、いいな。その詮索するような視線。羨ましいぞ霜原。ボクも泪先生から一心不乱に見つめられたい。
「警察が来るまでに情報を整理しておきたいわね~」
なんて言い出したかと思うと、泪先生はつらつらと状況を再確認し始めた。
うろたえたのは霜原で、探偵じみたことをぬかす泪先生に腹が立ったようだ。拳を握りしめ、廊下の壁を支えに無理やり起き上がると、彼女の進路を遮った。
「……勝手に……室内へ入るんじゃない……現場が乱れる……」
「何よ~。見られたら困るものでもあるわけ?」
「……そうじゃない、単に現場保存のためだ……滝村先生は自殺で間違いない……なぜなら、相談中にかなり思い詰めていたからだ……」
「やけに断言するじゃない。根拠は?」
「……滝村先生は燃え尽き症候群だったそうだが……アドバイザーやソーシャルワーカーの手で状況を改善すれば、解決できる内容だ……それを知った彼女は少しだけ元気を取り戻したが……その反面、役に立たなかったスクール・カウンセラーに失望し、あんな奴に悩みを打ち明けてしまった自分を恥じた……」
「はぁ? お兄ちゃんのこと馬鹿にしてたわけ?」
泪先生が筆舌に尽くしがたい形相で霜原をねめつけた。
ソーシャルワーカーとカウンセラーのアプローチは根本的に異なる。どの手法が相談者に合うのかは人によるし、破天荒なナミダ先生が苦手な人も居るだろう。でも、だからって悪しざまに罵るような言動は、ボクも聞き捨てならないな。
「……本当のことだ……」にべもない霜原。「……滝村先生は今日、カウンセラーの言い付け通り化粧を変えて来たが、たった一日では効果も薄く、ますます鬱を強めていた……化粧道具をひけらかし、何が悪かったのか首をひねっていた……」
「そんなの言いがかりでしょ~。一朝一夕で解決するわけないのに、いきなり自殺なんて飛躍しすぎ!」
「……滝村先生は完璧主義者だ……きっちりと服を着こなし、化粧も決め、厳しい態度で教員を勤めていた……そんな毅然とした彼女が、恥を忍んで悩みを相談したのに、カウンセラーの助言は役に立たず、今日は出勤すらしない……失望するのは当然だろう」
「仕方ないでしょ、大雨でバスが遅れて――」
「……理由など関係ない……高校に奴が現れない、それが全てだ……教師の悩みを、汚点を、勇気を出して相談した結果がこの体たらく……自分の暗部をホイホイ話してしまった彼女は死ぬほど恥ずかしかったんだ……」
「ふざけんじゃないわよ、お兄ちゃんが無能だって言いたいわけ? あんたこそ横からしゃしゃり出て手柄を盗むなんて、みっともないと思わないの?」
「……論点をずらすな……完璧主義の滝村先生は、湯島涙に自分の悩みが知られてしまったことを嫌悪した……クールに教職をこなすイメージが崩れないかと危惧し、鬱をより一層強めたんだ……」
霜原は、滝村先生が死ぬ寸前まで相談に乗っていた相手だから、きっとそれは本当なのだろう。
滝村先生は自分の内面を他人に握られている状況を厭い、完璧な自分が壊れると感じ、耐えがたい苦痛を覚えた。
霜原はボーッとした間抜け面を、初めてニヤリと動かした。
「……このことが広まれば……湯島氏は失脚するだろうな……相談者を救うどころか自殺に追い込んだ……彼のカウンセリングは異端であると糾弾せざるを得ない……彼を准教授に推薦する話もなくなるだろうな……そして、彼が師事する汐田教授の名にも傷が付くだろう……ざまぁみろだ」
それが本音かよっ。
そうだった、こいつはナミダ先生の恩師である汐田教授を恨んでいる。自分を捨てた父親が許せないらしい。
泪先生が噛み付かんばかりの勢いで霜原に詰め寄った。
「あんたカメリア・コンプレックスじゃないの? 助けるはずの女教師が死んで悲しむどころか、お兄ちゃんへの風評被害を垂れ流すなんて、いい度胸じゃないのよ」
「……もちろん悲しいさ……だからこそ、元凶である湯島氏を憎まずには居られん……」
「何ですって~!」
「……全ての女性を救いたい気持ちは変わらない……滝村先生を救済したかった……だから誰よりも早く相談に乗りたかった……!」
無念そうに吐露する霜原は、嘘をついているようには見えなかった。
(霜原はカメリア・コンプレックスだから、滝村先生を殺す動機はない、か?)
ボクは思考を巡らせる。
仮に滝村先生が自殺ではなく、実は他殺だったとしたら――犯人はノッポの霜原しかあり得ない。
この人しか相談室に出入りしていなかったからだ。
仮に第三者が殺害するとしたら、霜原がトイレに行ったという隙を突いて何者かが入れ替わりに突入し、滝村先生のカミソリを奪って殺したことになる。
「特に怪しい者は見かけませんでしたよ」
廊下に詰めかけていた教師陣の中から、証言が飛び出した。
なぁ、と周囲に同意を求めると、先生たちは次々に頷く。
「確かに居なかった」
「職員室の窓から廊下を見通せるけど、不審者が通ったとは思わなかったなぁ」
「相談室へ向かう廊下は、トイレを行き来する霜原さんしか往来してなかったはず」
どうやら霜原しか目撃されていないらしい。
第三者の線は途絶えたか……。
霜原に滝村先生を殺す動機がない以上、やはり自殺なのか?
無論、これから来る警察がどう判断するかは不明だけど――。
「あれ? 何の騒ぎですか、これ?」
――ナミダ先生ご本人が出勤したのは、このときだった。
ナミダ先生! うっわ、何という間の悪さ。
職員用通用口で上履きに履き替え、雨に濡れた衣服をハンドタオルで拭きながら近付く姿は、霜原から全力で侮蔑された。
他の教師たちも、滝村先生の死因となった無能なカウンセラーというイメージを刷り込まれたせいで、どう挨拶すべきか戸惑っている。
いや、それだけじゃない。
ナミダ先生のさらに背後から、わずかに遅れて清田のヒラメ顔までもがひょっこり出現したじゃないか。
そうか、この二人って同じ大学に居たから、ここに来るのも重なってしまったんだ。清田がナミダ先生の尾行をしていたせいかも知れないけど。
「おんやぁ? どうにも騒がしいですねぇ!」
そらっとぼけた能天気な清田が、とても腹立たしい。
おどけた舌鋒は明らかに浮いていたし、一同の神経を逆撫でした。
ナミダ先生も、金魚の糞みたいに付いて来る清田が疎ましいようだ。横目で軽く一瞥したあと、ボクと泪先生のもとへ足早に歩み寄る。
「何かあったのかい?」
「あっ駄目ですナミダ先生、相談室は今――」
ボクが止める間もなかった。
ナミダ先生は眼前の惨状を一望してから、こわばった相貌で廊下に向き直った。視線を泳がせる。ボク、泪先生、教師陣、そして血まみれの霜原に目が移り――。
「君がやったのかい?」
「……とんでもない」
――一触即発の空気になった。
ナミダ先生もどちらかと言えば短身だから、ノッポを見上げる格好だ。
睨み合う両雄を引き剥がすようにして、泪先生が兄に抱き着いた。いいなぁ。
「お兄ちゃ~ん、私怖かったよぉ。しくしく」
わ、わざとらしい……。
さっきまで全然怖がっていなかったじゃないですか。冷静に室内を観察していたし。
でもナミダ先生は、そんな妹を抱き留めて、頭を撫でてやった。
「よく頑張ったねルイ。よくあるんだよなぁ、相談患者がある日突然命を絶つことって。悲しいけどあるある」
「……それは貴様らカウンセラーが不甲斐ないからだ」のうのうと述べる霜原。「……心理学など……実は全く科学的ではない……同じ言葉でも聞き手によって意味の取り方が変わるように……心は不確かで捉え所がないんだ……そんな世迷言で相談者をそそのかし、惑わせ、自殺に追い込んだ……湯島氏が滝村先生を殺したも同然だ……!」
「あっはっは!」
さらにヒラメ顔の清田まで入り込んで来た。
声こそ笑い飛ばしているけど、顔面はちっとも笑っていない。ヒラメ顔にしわを寄せて干物みたいになっている。
「んー、スクール・アドバイザーの自分から言わせてもらえば、その言い分には反発したくなるけどねぇ。自分も心理学・精神医学を修めているんでね、ええ」
「……余計な口を挟むな、アドバイザー……」
「まぁそうツンケンしなさんな」バンバンと背中を叩く清田。「で、あの女性教師、死んじゃったんですね、お可哀相に。ふー、合掌合掌っと。いやぁ残念だなぁ、教職員の相談はアドバイザーの専門だったのに。自分なら死なせることなく解決できたのに、一体誰が彼女を追い詰めたんですかねぇ?」
「……そこのカウンセラーなのは間違いない……」
霜原が改めて指差した。
おいおい、ナミダ先生ったら到着早々、周囲から非難されまくりじゃないか。
(まずいな。まだ断定されたわけでもないのに『ナミダ先生のせいで教師が自殺した』という風潮が形成されつつある)
まるで、場の空気が誘導されているかのようだ。
集団の『心理』を意図的に操られている。
場の環境作りをソーシャルワーカーが、心理誘導をアドバイザーがコントロールしているようにさえ思えた。ナミダ先生を陥れるために。
「ま、自分としては手間が省けちゃいましたけどね! いやぁ残念だ!」
ヒラメ顔の清田が、再び呵々大笑してみせた。
手間が省けた、だって?
さすがにボクも聞き捨てならなかった。
「何の手間が省けたんですか?」
「んー? いやぁ、ここだけの話、自分は女教師を癒す振りして挫折させ、湯島さんのせいにして失脚させたかったんですよ、これがまた」
「何ですって~!」
泪先生が真っ先に反応した。
ナミダ先生本人より早いぞ。どれだけお兄ちゃんラブなんだよ。
「お兄ちゃんを失脚させるってどういう了見よ!」
「ほら、自分って大学で湯島さんと対立する学部なんですよ。だもんで、そこの教授に命令されて、湯島さんの邪魔をして来いって頼まれましてね」
やっぱり刺客だったのか! 黒幕は渦海教授だっけ?
ナミダ先生の准教授推薦を阻止すべく、課外活動であるスクール・カウンセラーに茶々入れして、実績にケチを付けようとしたわけだ。
「だからアドバイザーの皮をかぶって、この学校に入り込んだんですよ。湯島さんの手腕に泥を塗れば、推薦も取り消されるでしょ?」
「下らない足の引っ張り合い、あるある」忌々しく頭を掻くナミダ先生。「だから大学でも僕を嗅ぎ回ってたんですね。尾行バレバレでしたよ」
「はっはっは、以後気を付けますとも」ちっとも悪びれないなこいつ。「でもね、くだんの女教師は自主的に亡くなってしまわれた! 自分が手を下す必要がなくなったんですよ。正直、ホッとしてます」
「ホッとしてる、だと?」
「だってそうでしょう? 恩師の渦海教授には逆らえない、かと言って女教師を陥れて湯島さんのせいにするのも気が引ける。良心の呵責にさいなまれていたんですよ! でも、もう自分は何もしなくていい! 勝手に目的が達成されたんですから!」
「なるほど、あなたはオレステス・コンプレックスですか。下らないけどありがちだ」
ナミダ先生がフン、と鼻を鳴らした。
オレステス?
「語源は、エゴと利害の狭間に悩むギリシャ神話の英雄さ」ボクに語るナミダ先生。「父親と母親が意見を対立させて揉めたとき、子供はどっちの味方をしても片方に遺恨が残る……そこから転じて、逆らえない目上の人物からの重圧と、それとは別の呵責に懊悩し、進退窮まった心理状況を指すようになった」
へぇ……この場合は、清田の恩師である渦海教授の命令と、滝村先生の救済が対立軸かな? 上司の命令には逆らえないけど、滝村先生を陥れるのも気が引けたんだね。
「そうそう! それですよ!」
清田がナミダ先生の手を握った。
あいにく即座に振りほどかれたけど。
「いやぁ、社会人はこうした去就に悩まされることが多くて困ります。自分は滝村さんに恨みがない、湯島さんにも恨みがない、心理学部の汐田教授にもない! なのに命令で動かざるを得なかったんですよ、ほんと参った参った」
「なるほど、全て上司の命令だったと認めるんですね、あるある」
ナミダ先生が心底幻滅した様子で、小さく息を吐いた。
そんなことのために業務を妨害しに来るなんて、本当に馬鹿馬鹿しいね。
清田も葛藤していたんだろうけどさ。
「三種の職業が入り乱れた弊害だね」ナミダ先生の私見。「学校の相談業務はただでさえ煩雑なのに、管轄の異なるアドバイザーやソーシャルワーカーが過当競争を引き起こしたせいで、さらに現場が混乱した……お役所仕事によくある失敗さ、あるある」
スクール・カウンセラーの新たな問題点。
これは実際の教育現場でも日々発生し、しばしば報告されているようだ。
各職の管理団体が足並みをそろえず、その場しのぎで導入した結果、本来なら互いを補完し合うはずの三職がぶつかり合い、能率を下げてしまった。
結局、教職員や生徒たちが割を食わされるんだ。
その縮図を今まさに体験して、ボクは頭痛に襲われたよ。
「……だから何だ……湯島氏が滝村先生を自殺に追い込んだのは疑いようがない……」
RRRR。
「あ、僕のスマホが鳴ってる。ちょっと黙っててもらえますか?」遮るようにスマホを取り出すナミダ先生。「何だ、大学からか」
うまい具合に霜原の口をつぐませた。
ナイスタイミングだなぁ、まさか狙ったわけではないだろうけど。
ナミダ先生は廊下の隅に移動しながら、一言二言、電話口に応答した。
すると――。
「ええっ! うちのポスドクが、大怪我を?」
何やらキナ臭い出来事が、向こうでも起こったらしい。
瞠目するボクたちを尻目に、ナミダ先生がスマホ画面に唾を飛ばす。
「あの、先に帰ったポスドクさんが、帰り道で倒れてた? どうして……え、ナイフですか、お腹を一突き? 大雨で視界が悪い中、人っ気のない暗がりで……通り魔事件でしょうか? あるある……」
人が刺された?
そう言えば、泪先生と電話してたとき、雨の中を帰宅するポスドクさんが居たっけ。その人が被害に遭ったのかな?
「どういうことなんだ」
ナミダ先生が珍しく思案に暮れている。他のみんなも、人の不幸に驚愕を隠せない。
大学の同僚が事件に巻き込まれたから当然だけど、こんなに狼狽するナミダ先生は初めて見たよ。
のっぴきならない彼の姿を、さも心地よさそうに見守る清田や霜原が、とてつもなく憎たらしかった。
*
4.ボクは点と点を線で結ぶ
やがて近所の交番から警官が訪れた。
室内を一望するや顔をしかめ、所轄の捜査一課に出動を要請する。
事件現場で生の警察を拝めるなんてめったにないから、ボクはおぞましさと同時に妙な感動も味わったよ。
へー、こうやって警察は動くんだなぁ。
こうして警察署から『強行犯係』――変死体や殺人事件などを扱う捜査班――が、ぞろぞろと訪問した。
校長を始めとする教職員らに会釈を交わした彼らは、相談室の前に立っていたナミダ先生にも挨拶を投げる。
「あっれぇ? 湯島さんじゃないですか!」
強行犯係を率いた中年の刑事が、親身な口ぶりで話しかけた。
何だろう、と思ったらナミダ先生も軽く手を振って応じる始末。
そう言えば以前、警察に知人が居るって豪語していたっけ、ナミダ先生。
「お久し振りです、浜里主任」
「最近全く連絡が取れなくて申し訳ない! 不肖、この浜里漁助、湯島さんの犯罪心理に関する講演会や相談で何度助けられたことか!」
なるほど、そういう経緯で懇意なのか。
警察が捜査協力や後学のために大学を見聞することは少なくないからね。
おどけた仕草で敬礼した主任は、儀礼的に警察手帳を提示した。
階級は警部。
主任と呼ばれていることから、どうやら捜査班のリーダーらしい。
この人もどちらかと言うと小兵で、屈強には見えないけど、場数を踏んだ『現場の叩き上げ』を忍ばせる風格が感じられた。足の動かし方や目線の移動が、一般人と明らかに違う。
「浜里主任、警部に昇格したんですね」
「そうなんですよ実は! さすがに主任として部下を引き連れる手前、いつまでも警部補のままじゃ格好が付かないってんで、必死に昇進試験を受けました! ノンキャリアだとこの辺りが出世の限界ですからね、何とか面目は保った形です!」
本当にナミダ先生と親しげだ。
そうじゃなきゃ事件現場でこんな雑談を交わすはずがない。
とはいえ、すぐに気を引き締め直して「さっそく捜査にかからなくては!」なんて部下に命令を下しているから、頭の切り替えは早いようだ。
強行犯係だけでなく、鑑識課の面々も大挙して雪崩れ込んで、まずは室内の洗い出しが始まった。特に死体の検分はとても手際が良い。
「首筋は、さすがに一発では頸動脈を切れなかったのか、ためらい傷らしき跡もありました。それでも、かなり思い切って切断していますね。普通、失意の自殺は手首を切ることが多いんですが、まるでホトケの死角から寝首を掻くような切り口です」
自殺っぽいけど、そうとも言い切れないのか? 刑事たちはそんな報告をしながら、死体発見者や目撃者、現場に居合わせたボクたちから聞き込みを行なう。
「……滝村先生は死ぬ直前まで、湯島氏への相談を後悔していた……言ってみれば彼の型破りなカウンセリングが、彼女を間接的に傷付け、殺したようなものだ……」
あっ、霜原の奴!
ナミダ先生をなじる発言ばかり繰り返している。刑事さんも一言一句聞き取っているじゃないか。あの野郎、ナミダ先生を何が何でも失脚させたいんだな。
「あのままじゃナミダ先生の責任にされちゃいますよ?」
ボクがナミダ先生に寄り添って耳打ちする。
しかし当人はわずかに眉根を寄せただけで、あまり焦っていない様子だった。
それよりもボクがナミダ先生に肉迫したことで、泪先生から嫉妬の殺意を感じてしまった。今はそれ所じゃないのにっ。
「あれが霜原さんなりの『真実』なんだろう。人の心の数だけ真実はあるからね。うん、あるある」
「そんな悠長なことを言っている場合ですかっ?」
「それよりも大学のポスドクが心配だよ。電話によれば一命を取り留め、病院で手術を受けているようだ。僕も病院へ行きたいけど、ここを離れるわけにもいかないし」
ナミダ先生は心ここにあらず、だった。
それもそうか、大学の同僚が傷害事件に遭ったんだ。不安に決まっている。
「ああそれ!」手を叩く浜里警部。「その傷害事件も、うちの別チームが調べに行ってますよ! ポスドクさんが他人から恨まれるような出来事って、ありましたかね?」
「僕の知る限り、心当たりはありません。研究室は和気藹々で、仕事も真面目でしたし、研究一筋でプライベートな衝突もなかったようです。従って、怨恨を持たれる可能性は到底考えられませ――――……ん……?」
ナミダ先生が、喋りながら徐々に表情をこわばらせた。
どうしたんだろう?
今の会話は、現場の相談室とは関係ない、ついでの話として浜里警部が振っただけだ。なのに先生はあたかも天啓でも授かったかのように、彼岸の事件について思索を巡らせたじゃないか。
天井を見上げて、何かを検証している。ボクも見上げたけど、天井には何もない。
ナミダ先生の長考が続く。そばにはヒラメ顔の清田も突っ立って「いきなりどうしたんですかぁ?」なんて尋ねるけど、ナミダ先生は一切いらえを寄越さない。
代わりに、それまで黙っていた泪先生が一喝した。
「あんた! お兄ちゃんの邪魔すんじゃないわよ。すり潰されたいの?」
低音の唸り声で威嚇する泪先生が新鮮だ。
怖いけど、ちょっと可愛い。
浜里警部が泪先生に「相変わらずお兄ちゃん子ですね!」なんて茶化しているけど、それは無視された。
泪先生のブラコンまで熟知している刑事……一体どんな関係なんだ、この人たち。
「――解明したよ。あるある」
天啓は下った。
結論が出たんだ。
「飽くまで僕の推論ですが」目線を元に戻すナミダ先生。「スクール・ソーシャルワーカーの霜原さんは、滝村先生を救いたかったんですよね?」
「……当たり前だろう……それがどうした……」
「カメリア・コンプレックスですもんね。女性と見れば放っておけない、歪んだフェミニストです。あなたには彼女を殺す動機がない。ゆえに、これは自殺だと判断せざるを得ない状況にあった。あるある」
「……何が言いたいんだ?」
「仮に自殺でない場合、犯人は霜原さんしかあり得ません。他に相談室を出入りした人物が皆無ですからね」
「……何だと貴様……!」
やにわ怒りの拳を振り上げた霜原だけど、素早く浜里警部が制止に入った。
ナミダ先生のご高説を最後まで拝聴する意向のようだ。プロの刑事までもが耳を澄ませるなんて、ナミダ先生って信用され過ぎ。
「となると、やはり霜原さんが怪しい。あなたの話だと、滝村先生は化粧道具をひけらかしてたそうですね。トイレから戻ったあなたは、化粧道具の中にあったカミソリを奪い、返り血を浴びるのも構わず彼女の頸動脈を掻き切った……部屋中が血みどろになる中、第一発見者を装って派手に驚き、血の海に転んで衣服を血で染めれば、返り血も目立たずに済みますよね?」
ああ、霜原はいくら第一発見者とはいえ、大袈裟に驚愕していたっけ。
相談室から這い出るように逃げ、駆け付けたボクたちに一一〇番通報を促したんだ。
今も、霜原の衣服には滝村先生の血がこびり付いている。殺害時の返り血をごまかすための演技だったのか。
「……滝村先生を殺す理由がない……」首を横に振る霜原。「……女性を救いたいと願う者が……女性の息の根を止めるわけがないだろう……」
「理由ならありますよ――ねぇ、清田さん?」
「んなっ?」
唐突に話を振られて、ヒラメ顔の清田はさらに顔面をぐにゃりとひん曲げた。
言っちゃ悪いけど、気持ち悪い人相だなぁ。いかにも悪役って感じだよ。
「なぜ自分が槍玉に上がるんですかねぇ? 自分は、この事件には関係ないですよ? 滝村先生が死んだ頃、湯島さんと同じ大学に居たじゃないですか!」
「あなたには滝村先生を殺す動機があります。あるある」
「はへ?」
「あなたはオレステス・コンプレックスです。渦海教授の命令で滝村先生を始末し、僕のせいにしようとした……さっき話してましたよね。それが期せずして叶ったと」
「ま、まぁそうだけども、自分に殺人は無理ですよ。だって滝村先生の死亡時刻には、ここに居なかったんですから――」
「だから清田さんは、代わりにポスドクを襲撃したんですね」
…………。
…………。
え?
「はぁ?」
話が飛びまくっているぞ、ナミダ先生。
ポスドクと滝村先生に、どんな関連があるんだ?
あちこち跳弾する講釈に、ボクたちは頭の回転が追い付かないよ。
何が言いたいんだ、このカウンセラーは。
「清田さんは大学から高校へ移動する際、帰宅中のポスドクを闇討ちしたんです。恨みなんてありません。ただ、そう頼まれて代行した。そうですよね?」
「代行って?」
浜里警部が我慢できずに問い詰めた。
別の場所で発生した二つの事件が、一つの線で結ばれようとしている。
「――これは、交換殺人ですよ」
「なっ……」
誰もがまぶたをしばたたかせた。
交換殺人?
ボクだけが言葉の意味を知らず、ほけらっと口を開けたまま途方に暮れてしまう。
泪先生がボクの後ろに立って、そっと耳元で説明してくれる。あ、吐息が耳にかかってくすぐったいっ。気持ちいいっ。
「交換殺人っていうのは~、殺意を持つ二人の加害者が、互いの標的を交換して犯行に及ぶことよ。推理小説とかによくあるトリックよね」
「標的を、交換?」
ボクはゾッとした。
そうか、そんなことをしたら――。
ナミダ先生が沈着に言い放つ。
「標的を入れ替えれば、動機がないので疑われません。また、本来の標的から遠く離れた場所に居られるので、アリバイも成立するメリットがあるんです、あるある」
そうか! どうせ人を殺すなら、足が付かないよう赤の他人を殺した方が良い。
代わりに別の人が、本来の標的を殺してくれるから、目的も達成できる。
「滝村先生を亡き者にして、僕のせいにしようとしたんですよね、清田さん? しかしあなたはオレステス・コンプレックスで良心の呵責にさいなまれてました。渦海教授に従わなければならないが、滝村先生を殺すのも気が引ける……そこで、霜原さんに代行してもらったんです。よくある、よくある」
「じ、冗談じゃないですよ!」
猛然と突っかかる清田だったけど、浜里警部に手で遮られた。
この刑事さん、完全にナミダ先生のボディガードみたいな振る舞いだな。
ノッポの霜原も渋面をかたどった。
「……滝村先生を殺して何の得があるというんだ……?」
「霜原さんには『滝村先生を殺す動機がない』ので疑われずに済みます。事実、あなたは滝村先生を自殺の線で結論付けようとしましたよね?」
「……それはたまたま……」
「いいえ、霜原さん。あなたはそれを実行する対価として、清田さんへ条件を出したんでしょう――『汐田教授を殺して欲しい』と」
汐田教授をっ?
一同が生唾を飲み込む中、ナミダ先生は切々と語る。
「霜原さんは、父親である汐田教授を恨んでました。交換条件として、父殺しを清田さんに依頼したんです。だから清田さんは、僕の学部まで偵察に来たんです」
「待ちたまえよ、刺されたのはポスドクだ。汐田教授じゃないぞ!」
当の清田が指摘した。
自らの潔白を示そうと必死なことだ。確かに、被害に遭ったのは心理学部のポスドクであって、汐田教授本人ではなかった。
「あなたは間違えたんですよ」指差すナミダ先生。「汐田教授はピンク色の目立つ傘をさしますが、今日は突然の豪雨で、ポスドクが教授の傘を借りたんです」
そうか!
あのときナミダ先生が電話で話していたのを、ボクも傍受したから判る。
「ピンク色の派手な傘=汐田教授……そう早合点した清田さんは、人相もろくに確認せずポスドクを襲ったんです。土砂降りで視界が悪く、人物の見分けも付きませんしね。現場から早く立ち去りたいという犯罪心理もあいまって、標的の正誤など確認せず凶行に及んだんでしょう?」
そうだったのか……。
じゃあ「ポスドクが刺された」とナミダ先生が報告したとき、清田もたまげていた理由は「教授を刺したはずなのに人違いだった」と気付いたからだったのか。
(誤認で大怪我したポスドクさんが可哀相だな……)
ボクは奇妙な同情を覚えてしまった。
「馬鹿も休み休み言いたまえよ!」
清田がヒラメ顔を最大限に醜くひしゃげさせた。
醜悪な強面だ。化けの皮が剥がれたとはこのことを言うんだろうね。その態度が、図星を指されて慌てているようにしか映らない。
「えー、話をまとめると」頭を掻く浜里警部。「そこの清田さん……でしたっけ? あなたは大学教授の命令で、滝村さんを自殺に偽装して湯島さんを失脚させようとしたが、大雨のせいで大学に居た。一方、霜原さんは湯島さんの恩師を恨んでいたが、高校に居た。――ならば、互いの標的を交換すれば、疑われずに目的を果たせると踏んだ!」
しかし誤算だったのは、傘だった。
清田はピンク色の傘が汐田教授だと聞きかじり、それを頼りに襲撃したつもりが、実は傘を借りただけのポスドクだったわけだ。
おまけに致命傷には至っておらず、ポスドクは病院で治療を受けている。
「急ごしらえの交換殺人ですから、うまく行くはずがないんですよ、ないない」
憐れむようにナミダ先生がのたまった。
押し黙る霜原とは裏腹に、清田がさらに口角泡飛ばす。
「ふざけないでもらいたいね! 証拠がないじゃないか!」
「傘を借りたポスドクを狙ったことが、何よりの状況証拠にはなりませんか?」
「なってたまるか! あんなの単なる通り魔事件だろう! 自分には関係ないぞ――」
「……黙れ間抜け……」
ノッポの霜原が愚痴をこぼした。
長身を活かして清田を見下ろしている。何だ、仲間割れか?
「……貴様……汐田と間違えて赤の他人を刺した挙句、その人は一命を取り留めたそうじゃないか……どのみち汐田を刺しても殺しきれなかったということだ……!」
「おい霜原、何を喋っているんだ、静かにしろ――」
「……こっちは貴様に頼まれた通り、滝村先生を自殺に偽装したんだぞ……! なのに貴様はしくじった……! これでは交換条件が成り立たないだろうが……!」
「馬鹿野郎! ここで喋るな――」
「今の話、署で聞かせてもらえますかね?」
浜里警部が、清田と霜原の背中を後押しした。
身から出た錆だね。証拠は出来た。
霜原からの自供だ。
その後、ポスドクを刺した凶器の出どころを辿って、清田の犯行だと再証明された。
*
「ようこそ刑事さん。ワタシが精神医学部の渦海です。はい、どうやらワタシの助手である清田が、犯罪をしでかしたそうですね。しかもワタシの命令でやったとか世迷言をぬかしているとのこと。大いなる誤解ですよ。ワタシは単に、うちの研究室からスクール・アドバイザーを派遣しただけです。殺人なんて命令するわけないでしょう? 全て清田の勝手な独断ですよ。清田は懲戒処分にしますので、煮るなり焼くなりお好きな罰を与えて下さい。はい、ではそういうことで。ご機嫌よう……ふう、やれやれ……」
*
――第四幕へ続く
・使用したよくあるトリック/交換殺人
・心理学用語/燃え尽き症候群、カメリア・コンプレックス、オレステス・コンプレックス
1.ボクは他人の過去を掘り下げる
「ナミダ先生の義足って結構、年季が入っていますよね」
――夏服が当たり前になった梅雨明け、ボクは思い切って尋ねてみた。
夕闇の校舎。そろそろ下校時刻が差し迫って、居残る生徒には先生方から帰宅を打診される頃だ。
ボクもご多分に漏れず、カウンセラーの湯島涙先生から下校を勧められたばかりだ。何しろ最近は、保健室で湯島兄妹と雑談するのが常態化していたからね。部活にも入らず保健室に入り浸るなんて、周囲からはぐーたら学生と思われているに違いない。
今日もボクは制服のすそを翻し、保健室へ立ち寄ると――不在の場合は相談室にも顔を出す――、ナミダ先生と泪先生が仲睦まじく談笑していた。
兄妹とはいえ、見せ付けてくれるなぁ……。
「沁ちゃん、僕の義足を頻繁に観察してるよね。気になるのかい?」
ナミダ先生がボクの名を呼びながら、やんわりと口角を持ち上げた。
え、そんなに観察しているかな? 全然自覚ないや。ボクは抗弁しようと思ったけど、ここでツンデレよろしく反駁したらそれこそナミダ先生の思うつぼだと考え直し、思いとどまった。
ま、そんなボクの思考も彼は全てお見通しかも知れないけど。
「だってナミダ先生、すごく目立ちますもん。特にその義足! ステッキも常備していますし。決して障碍者差別ではなく、純粋な興味ですけど……気に障ったらすみません」
ボクはぺこりと頭を下げた。
制服のすそがひらりと舞う。
純粋な興味――一応、それが建前だ。
本当は、理由はもっとある。
重治を叩きのめしたとき、ナミダ先生はステッキで杖術を使っていた。
ステッキが単なる補助ではなく、武器に昇華されている。
そんなの、気にならないわけがない。
――ちなみに、仮にもカウンセラーが暴力を振るったら学校問題にならないかハラハラしたけど、大丈夫だったようだ。重治はあれ以来、ボクとすれ違うことさえない。このまま二度と会わずに暮らしたいね。
すると、泪先生が複雑そうにほっぺを膨らませた。
「私のお兄ちゃんを詮索するなんて、恐れ多すぎて不愉快なんだけど~」
泪先生、子供みたいにへそを曲げている。
えぇ……ここで嫉妬?
泪先生、本当にナミダ先生のことが好きなんだなぁ……実の兄妹なのに。
ナミダ先生は、泪先生の心を治そうとはしないんだろうか?
それとも、すでに治そうとしたけど失敗したのか?
あるいは……ナミダ先生も泪先生の偏愛を甘受しているとか……?
きゃー、だとしたら少女漫画的な禁断の兄妹愛が展開してしまうっ。それはそれでオイシイのかも知れない……?
(って、そうじゃない。話がだいぶ横道にそれてしまった)
ぶんぶんとかぶりを横に振って、ボクは考えを改めた。
湯島兄妹は今、保健室内のデスクと、診察用の丸椅子に座っている。単に歓談しているだけのようだ。名目上は、養護教諭とカウンセラーが業務上の情報交換をしているんだろうけど。
ボクもさっさと帰れば良いのに、すっかりナミダ先生に心を許したせいか、気になる点を質問したくてたまらない。
「僕の義足とステッキが気になるかい? 確かによく聞かれるよ」
ナミダ先生は左足のズボンをめくり上げて、これ見よがしに義足をさらした。
膝をゆすると、ガションガションと左足の装甲が伸縮する。衝撃を吸収するバネが仕込んであるようだ。かかとや爪先も、足の向きに応じて細かく可動するらしい。
足首との接続部分も緩衝材で覆われており、それでいて肌色に近い彩色がされているため、機械仕掛けとはいえ遠目には義足だと気付きにくい。駆動音でようやく察しが付くほど、自然な『足』にしか見えない。
「パラリンピックを観れば判るけど、義足でも常人以上に運動できる選手は多い。むしろ技芸に磨きがかかることもあるからね。あるある」
人は何らかのハンデがあっても、それを克服できるんだ。
逆に健常なままだと、凡人で終わっていたかも知れない――。
「じゃあナミダ先生も、左足首を失ってから杖術に興味を持ったんですか?」
「そうだね。今はステッキなしでも歩けるけど、ステッキを手放すと手持ち無沙汰でさ。こいつを握ってないと落ち着かない……そんなレベルまで僕の生活に定着してるよ」
「お兄ちゃんの相棒みたいなものよね~。義足になってからの半生を、ずっとそばで見てた愛用のステッキだし」
泪先生が割り込むように口を挟んだ。
ボクに対する視線が冷たい。やっぱり女性を敵視している? 怖い怖い。
「そこで~、持て余したステッキを補強して護身術に使えるようにしたのよね~」
ね~、と兄の顔を上目遣いに覗き込んだ泪先生は、フフンとボクを一瞥した。
な、なぜ勝ち誇るんです?
ナミダ先生の来歴に詳しいことを自慢しているんですか?
そんなことで張り合われてもなぁ……。
泪先生、めちゃくちゃ嫉妬深い一面があるよね。
「沁ちゃんは、僕がルイを交通事故から助けようとした話は知ってるかい?」
ナミダ先生が講釈を続ける。
「はい、泪先生から聞きました。そのとき左足首を失ったんですよね」
確か兄妹が高校生のときだっけ?
「そう。歩けなくなった僕は内にこもり、今後の人生を葛藤した。苦悩し、煩悶し、妄執するうちに、人間とは何か、自己実現とは何か、精神とは何か、心とは何か……って、心理学に興味を持った」
「へぇ……それで心理学を」
「やがて大学の心理学部へ進もうと決意し、義足を履いてリハビリした。そこで人生の転機が訪れた。汐田教授と出会ったんだ」
汐田教授。
この間の交換殺人でも名前が上がった、ナミダ先生の恩師だ。
「心理学の大家・ユングの言葉を借りるなら『フロイトは私の出会った最初の真に重要な人物であった』だね、あるある。僕にとって汐田教授はフロイトにも等しい『真に重要な人物』だったよ。ご本人は放蕩三昧なユングを自称してるけど」
フロイト級の衝撃かよ。
それほどまでに運命的な師弟なのか。
それでいて本人はユングを名乗っているのも滑稽だ。
「そんなに汐田教授ってユングの生き写しなんですか?」
「ところどころは、ね。汐田教授は七月二六日生まれで、ユングと同じ誕生日なんだ。妻が居るのに相談者と不倫してたのも、ユングと同じだよ。あるある」
いや、あんまりないと思うし、そのせいで霜原の事件が起きたような……。
「フロイトとユングは一九歳差の師弟だったけど、僕と汐田教授もまた一九歳差なんだ。だから僕にとっては断然、教授がフロイトなんだよなぁ……」
ユングだのフロイトだの、何とも贅沢な同一視だね。
どちらも心理学の基礎を築いた偉大な人物だ。とはいえ、双方とも波乱万丈の生涯で、性格がまっとうだったとは言いにくいようだけど。
「大学の頃には~、左足もだいぶ歩けるようになったわよね」
泪先生がまたしても間に入った。
ナミダ先生を自分の方へ向き直らせてから「ね~」って同意を求めている。怖い。
「大学に入ってから、お兄ちゃんの社会復帰が始まったのよ~。尤も、学内の対立抗争で事件に巻き込まれたり、因縁のある尖兵に襲われて護身術を覚えたりもしたけど~」
「せ、尖兵?」
ボクは耳を疑ったよ。
日常会話ではまず聞かない単語だ。
え、何、この人たち、物騒な人生を送っているぞ……。
だとしたら護身術を使えるのも、理解できなくはない……?
「えっと、先生」戸惑いを隠せないボク。「今も、その、尖兵っていうのは現れるんですか?」
「うん、出るよ」
出るのかよ。
じゃあ現在進行形で命を狙われ続けているってこと?
この現代日本で?
平和ボケした法治国家で?
「僕ら兄妹は警察に知り合いも居る。浜里警部のこと、覚えているだろう?」
浜里警部……先月の相談室で起きた事件の際、所轄の警察署から来た強行犯係の捜査主任だ。
「なぜ彼らと知り合ったのかっていうと、それだけ怪事件に遭遇したり、命のやりとりに出くわしたりしたせいなんだよ。あるある」
ないよ、普通ないよ。
あまりに現実離れしていて、ボクはだんだん頭が痛くなって来た。
この人たちの発言が、どこまで真実なのか読み取れない。
全て本当だとしたら、ボクには付いて行けない世界だ。
よもや虚言癖じゃあるまいな?
それとも、ボクをからかっているんだろうか?
頭がクラクラする。
うーん、今日はもう退散するか……。
「じゃあボク、そろそろ帰ります」
通学鞄を持ち直して、ボクは早々に下校することに決めた。
続きはまた後日、気持ちの整理が付いてからにしよう。
「なら校門まで見送るよ」
「え」
ナミダ先生も立ち上がった。
ボクが目を丸くすると、泪先生まで血相を変える。
「え~っ? お兄ちゃん、私を差し置いてその子に付いてく気~?」
怒る所、そこですか。
泪先生ってば、息のかかる距離でナミダ先生に抗議するけど、当の先生はどこ吹く風と言った様相で、ぽんぽんと泪先生の頭を優しく叩いてなだめた。
「いつまでも雑談してられないからね。ルイもそろそろ帰る支度をした方がいい」
「む~。それはそうだけど~」
再びむくれる泪先生が子供っぽくて可愛いなぁ……ときどきボクを恨みがましく睨んで来るけど、それはそれでご褒美です。
「じゃ、校門まで歩こうか」
ナミダ先生はボクをエスコートするかのごとく、颯爽と杖を突いて歩き始めた。
そつがないな、この人。
上背がないため見栄えはしないけど、物腰や所作が紳士的で威風堂々としている。
大人の余裕というか、洗練されているのが判る。
なるほど、確かにこんな兄が居たら惚れるかも……と泪先生の心情を想像してみた。
「妹にはときどき手を焼いてるんだ」
廊下を進みつつ、ぽつりとナミダ先生が吐露する。
「そうなんですか?」
ボクはこれまた目を丸くしてしまったよ。
妹の猛アタックを軽くいなしているように見えたけど。
「兄離れしてくれなくてね。もう結婚適齢期だから良い人を見付けて欲しいのに」
それを言ったらナミダ先生だってそうじゃないの?
「でも、結婚だけが人生じゃないですよ」だから反論するボク。「独身でも人生を謳歌している人は大勢居ますし。ボクも多分、異性との結婚はしないだろうし――」
「ふぅん。そんなもんかな」
「それに、ナミダ先生のような兄が居たら、妹はそれが男性の基準になっちゃいます。足を欠損してまで妹を救った兄……かっこよすぎて一般男性なんか眼中に入りませんよ」
「それは僕を買いかぶり過ぎだよ」
困ったように顔をしかめるナミダ先生が面白い。
妹を心配しつつも手をこまねいている現状が、この上なく複雑だ。
所詮ボクには他人事だから、話半分で聞いて居られるけど――。
昇降口で靴を履き替え、中庭に出る。先生も職員用通用口から靴を持って来た。
すっかり日は落ちて、辺りは一面の闇だった。街灯だけが唯一の採光だ。校門まで無言で歩いた所で、ボクはナミダ先生に体を向けた。制服のすそがふわりと膨らむ。
「じゃあ先生、今日はありがとうございました」
「ああ、気を付けて帰るんだ――……よ?」
刹那、ナミダ先生が顔をそむけた。
遠くから駆け足が迫って来たんだ。
校門の外からだ。それも複数。夜闇に紛れて、黒いジャンパーやらジャージやらで身を包んだ、覆面をかぶった男たちがナミダ先生を取り囲んだ。
わ、何だこれ。
校門前には守衛が居ない。警備会社の監視カメラがあるだけだ。それに映らないよう立ち回る覆面連中に、ボクは恐怖を覚えた。
(尖兵……ってやつか?)
ナミダ先生を待ち伏せしていたのか?
たまたまボクの下校に同伴したから、ボクも巻き込まれたようだけど……。
「貴様、湯島涙だな?」
覆面の一人が問いかける。
「だったら何だい?」
澄まし顔で、ナミダ先生は答えた。
どうしてそんなに落ち着いて居られるんだこの人は。暴漢どもに囲まれているのに。
覆面の一人が再び告げる。
「こんな高校で悩み相談を請け負っていたとはな。雲隠れしたつもりか? そんなことをしても無駄だ。我々は必ず貴様の居場所を突き止め、追い詰める」
「やれやれ、こんな所でおっ始める気かい? なりふり構わない無鉄砲だね、あるある」
大仰に肩をすくめるナミダ先生へ、覆面どもが包囲の輪をじりじりと縮めて行く。
やばい。やばいってこれ。
「ナミダ先生、警察を呼んだ方が――」
「かかれっ!」
ボクの提案は、覆面の号令に掻き消された。
先生めがけて、幾多の毒牙が襲いかかる。
*
2.ボクは黒ずくめの闇に呑まれる
幸い――というか何というか――暴漢どもの動きは、お世辞にも連携が取れているとは言えなかった。
単に徒党を組んでいるだけだ。
専門の戦闘訓練を受けた精鋭部隊というわけではないらしい。そんなスパイ小説モドキな本格バトルアクションだとしたら、ボクの命なんていくつあっても足りやしないよ。助かった。
ナミダ先生もそれは承知の上だったらしく、この数に囲まれても落ち着き払った冷笑を顔面に貼り付かせている。
「ま、多勢に無勢の僕が、唯一付け入る隙があるとすれば――」
殴りかかって来た一番槍をステッキで払いのけ、すれ違いざまに相手の腰を打ち据えて横薙ぎに倒した。
杖術、炸裂だ。
横から力を加えられた暴漢はぐるんと天地を引っくり返り、そばに居たもう一人の暴漢も巻き込んだ。どちらも路上にしこたま頭を打ち付けて動かなくなる。
「――君たちが明らかに烏合の衆で、僕には護身術の心得があるっていう点かな、あるある。君たち、受け身もろくに取れないようだね」
「なめるなぁっ!」
まだまだ暴漢どもはたくさん居る。
ざっと見積もっても十名を下回らない。こんな数の暴力、普通ならナミダ先生が集団リンチに遭っちゃうんだろうけど、ステッキで敵陣を牽制する勇姿は凛々しく、とても負ける気がしなかった。
背後から飛びかかる暴漢の喉笛に、ステッキの尖端を打突して黙らせる。
うわぁ、あれは痛そうだ……。
その一撃で暴漢は泡を吹いて昏倒した。その体を踏み越えて、新たな暴漢が掴みかかろうとする。
ナミダ先生はくるりとステッキを手先で反転させると、暴漢の脇下へステッキを滑り込ませ、てこの原理で軽々と持ち上げた。暴漢が接近する勢いを利用して、ステッキで浮き上がらせたんだ。
あとはステッキを振り下ろし、路面へ叩き落とせば処理完了。
あおむけに倒れた暴漢のみぞおちをステッキで突き、呼吸困難で気絶させる。
うわ、しっかりトドメ刺すのも怠らない入念っぷりだ。
(ナミダ先生、本気で強いぞ)
瞬く間に暴漢の戦力を削いで行く辣腕は、奴らをたじろがせるには充分すぎた。
ナミダ先生は敵の足が止まったのを見届けるや、フンと鼻で笑ってみせる。
「どうしたんだい? もうおしまいかな。あるある、人海戦術に頼り過ぎて、一人一人の練度がおざなりな編成、よくある」
「き、貴様、言わせておけば――うぎゃあ!」
反駁した暴漢が間合いを詰めた瞬間、踏み出した奴の右足をすかさずナミダ先生がステッキでつまずかせた。
あわれ暴漢は、顔面から突っ伏してしまう。
思いきり鼻っ柱をアスファルトに打ち付けたそいつは、覆面を鼻血で赤黒く染めながら立ち上がろうとしたけど、間髪入れずナミダ先生の追い打ち――義足で顔面を踏み付ける――によって呆気なく白目を剥いた。
容赦ないな、ナミダ先生。
まぁ正当防衛だろうから問題ないと思うけど……この人数差だし。
「君たちのボスに伝えてくれないかい? 僕を闇討ちしても意味ないって。僕も人に恨まれる覚えはない……と言いたいけど、こうも立て続けに生活の邪魔をされると、さすがに傷付くなぁ」
な、何度もこんな目に遭っているのか……。
ナミダ先生、修羅場多すぎだろ。
どんな人生を歩んだら、こんな状況にしょっちゅう出くわすんだ? ボクにはそっちの方が不思議だよ。世紀末のスラム街じゃあるまいし。
「大方、大学の対立派閥が、僕を失脚させたがってるんだろうけどね。准教授の推薦でさらに拍車がかかったかな? 権力争いの果てに暴力で脅すなんて、ありがちな悪党だ。呆れて物が言えないよ」
いや、めちゃくちゃ言っていますよ。喋りまくりじゃないですか。
ナミダ先生は訳知り顔で、暴漢どもに警告した。どうやらナミダ先生には、こいつらの黒幕がおぼろげながら見えているようだ。
彼は、ボクら凡人には及びも付かない敵の思惑が、心の動きが、読めるんだ。
全てを見透かす慧眼。
いや、分析力?
心理分析――普遍的無意識を介した、精神の伝心?
「くそっ……撤収だ!」
暴漢どもは、周辺に倒れ伏す同胞を肩で担いだり抱き上げたりして、校門前から逃げ出した。
見れば、向こうの車道にワゴン車が二台停められていて、そこに負傷者を運び込むなり急発進する。
(あれに乗って来たのか)
今さらながらボクは合点が行った。
そりゃそうだ。普通、あんな黒ずくめの覆面で、公道を歩けるわけがない。
かくして再び静けさを取り戻した校門前は、夜の帳が降りたおかげもあて、人っ子一人見当たらなくなった。
空は暗雲に覆われており、月明かりすら存在しない。
目撃者なし、か。
連中もそれを見計らっていたんだろう。
「やれやれ、逃げられちゃったね。ありがちな顛末だ、あるある」
「いや、わざと見逃しましたよね、先生?」
くるくるとステッキをもてあそぶナミダ先生に、ボクは反論せざるを得ない。
いや、これもまた、ボクがツッコミを入れやすいようわざと発言したんだろう。会話のきっかけを生むために。
全く、この先生は抜け目ないね。何気ない言動ですら、人を心理操作する術に長けているんだ。
「これに懲りて、連中も僕にちょっかいかけなくなれば良いんだけど……ちなみに今の荒事、防犯カメラには映らないようにしておいたよ」
「えっ、先生も!?」
ナミダ先生がステッキで指し示した先には、防犯カメラが街灯を照り返していた。
敵がカメラを避けているのは察したけど、ナミダ先生まで?
いくら敵が素人集団だとしても、そこまで配慮する必要があるんだろうか?
むしろ映り込んだ方が、いざというときの証拠にもなるのに――。
「僕が揉め事を抱えてると知られたら、せっかくのスクール・カウンセラーが解雇される恐れもあるからね。うん、ありそうだ」
「そ、そんなこと――」
「あるんだよ。公的機関は特に、そう言った不祥事にはうるさいからね。ルイの勧めで始めた仕事を反故にしたくないし、君という逸材も失いたくない」
「は? ボク?」
やにわ買いかぶられて、ボクはドギマギしてしまった。
ボク、何かナミダ先生に認められるようなこと、したっけ?
あ、ディアナ・コンプレックスだからかな? 貴重な心理サンプルと思われている?
ボクはしどろもどろに髪を乱し、スカートのすそをもじもじといじっていると、ナミダ先生はボクの心を読み取ったのか一笑に付す。
「おおむねそんな感じだね、よくあるよくある」
「よ、よくあるってそんな……どうしてボクの思考が判るんだ、この人は……」
「全ての心は、普遍的無意識で繋がってるからね。感受性の強い人間ならば、他人の気持ちを共感し、同調し、以心伝心で思考が伝わるんだよ」
「そ、そんなテレパシーじゃあるまいし、荒唐無稽なこと――」
「あるのさ、あるある。普遍的無意識の概念は、心理学では常識だよ?」
「ええ~……」
「何にせよ、今日のことは忘れよう。僕も大袈裟に事を広めたくないから」
「警察に通報した方が良いですよ。こんなことが何回もあるなんて危険すぎます」
「あー、実はもう警察には相談してるんだ。極秘にね」
「へ?」
「警察に知り合いが居ると言っただろう? 水面下で根回しはしてるさ」
浜里警部のことか。
最低限の対策は練っているんだ。
すぐに逮捕しないのは、尖兵を泳がせているからだろうか?
連中は所詮、末端のチンピラだ。そいつらを露払いするよりは、大元であるボスキャラを突き止めた方がよっぽど利口だもんね。
「浜里警部によると……管轄や担当が違うから手こずってるそうだけど、少しずつ調査は進んでる。そして、僕自身に被害がない限り、警察も静観するよう念を押してる」
「どうしてですか! 明らかな傷害未遂事件なのに――」
「僕の出世にも響くから、黒幕の正体を暴くまでは騒げないのさ」
「気持ちは判りますけど……」
「どうも黒幕が、僕の大学に関係あるのは間違いないんだ。僕がこの若さで講師を経て、あまつさえ准教授にまで推薦されたのが気に食わないらしい」
ああ、さんざん言われていたね。
対立派閥がどうのこうのって。
相談室の交換殺人も、それが犯人の動機だったっけ。
「大学は派閥争いや足の引っ張り合いがあるからなぁ、あるある。教授への道は狭き門だ……助手やポスドクから成り上がれず、人生を棒に振る博士の多さたるや、社会問題になってもおかしくないよ」
ナミダ先生が、寂しそうに肩をそびやかした。
ステッキを力なく路面に突いて、夜空を見上げる。
派閥争いか……。
今一つ判らないけど、おぼろげには想像が付く。
自分の研究チームから教授や准教授が生まれれば、大学内で発言力も向上するし、待遇も予算も上がるし、学会で幅を利かせることも出来るだろう。
同門内でも、自分を差し置いて他人が出世するのが許せず、嫉妬して、妨害を仕掛けて来る恐れだってある。醜い大人の世界だ。
「現在は、心理学部の汐田教授と、精神医学部の渦海教授による対立が激化してる」
「はい……世知辛いですね」
「でも、精神医学部といえば天下の『お医者様』だ。どこへ行っても引く手あまただろうから、いつまでも大学に残って派閥争いするとは思えないけどね……」
「交換殺人の清田が妄執的だっただけで、実は渦海教授は無関係とか?」
「判らない。とにかく、君も気を付けて帰るんだよ。奴らの狙いは僕だけど」
「はい……先生もお気を付けて」
ボクは考えあぐねつつ、ナミダ先生に手を振った。
一人で帰宅するのは不安だったけど、姿が見えなくなるまでナミダ先生はボクに手を振り続けてくれた。
(ナミダ先生が准教授になったら、スクール・カウンセラーも辞めちゃうのか……)
当たり前のことを、今さらのように思い知る。
スクール・カウンセラーは非常勤だから、本業が忙しくなれば辞職するのは当然だ。
ナミダ先生は大学講師だ。博士号も取得しているから、大学に残って教鞭を取るくらいしか進路がないんだろう。
(単なる講師や助教だと、あんまり待遇も良くないんだっけ)
赤信号で立ち止まる間、スマホで手早く検索してみる。
うん、やっぱりそうだ。
大学に残った研究者や助手は、いわば定職でありながらフリーターに近いという微妙な待遇のようだ。もちろん学振などできちんと収入を確保する学者も居るけど、下手すると下っ端のまま生涯を終えるらしい。そりゃ他人の推薦に嫉妬するわけだよ。
(准教授の椅子をめぐって、ドロドロした怨念が渦巻いている……)
かと言って、医学部のエリートがそんな抗争に加担するとも思えない。
信号が青に変わったので、スマホをスカートのポケットに突っ込んで歩き出す。
横断歩道を渡り終え、対岸の歩道に足を乗せようとしたとき――。
「居たぞ、あの女だ!」
キキキキ――――。
けたたましいブレーキ音と叫び声が、ボクの背後から迫って来た。
何だ、と警戒して振り返ったときには、もう遅い。
スカートのすそを翻したボクが見たのは、眼前に急停車するワゴン車だった。
(さっきの暴漢どもの車!)
黒ずくめの覆面連中が、ぞろぞろと車から飛び出した。一瞬でボクを取り押さえ、抵抗する間もなく担ぎ上げて、ワゴンの中に収納する。
(連れ去られるっ……!)
これって誘拐? 拉致監禁?
まずいな、という認識だけがボクの脳裏で警鐘を鳴らした。
けど、この数じゃどうしようもない。
やっぱり人海戦術って有効なんだな……。
ボクは男勝りなだけの、ただのか弱い女子高生だった。この人数差を覆せる戦力は何もない。だからこそ、こいつらはボクに矛先を変えたんだろう。
ワゴン車が走り出す。どこへ向かっているのかは不明だ。
「こいつ、湯島涙と一緒に居た生徒だ。人質に使えるぞ」
暴漢どもが口々に呟く。
「だが、ただの在校生だろう? 湯島に近しい人間じゃないと駄目じゃないか?」
「それはそうだが、例えば奴の妹もあの高校に勤めてるが、手を出しづらくてな。あの女も結構強そうだぞ。謎のオーラ出してるしな」
「あー。近寄りがたい雰囲気はあるよな、人を寄せ付けない魔性っつーか」
……何の話をしているんだ、こいつらは。
ともかく、ボクがナミダ先生のダシとして誘拐されたのは間違いない。
くそっ。あの人はボクのことを気に入っていた。ボクを人質にするのは有効なんだ。
足手まといには、なりたくないな……。
なんてことを考える間も、ボクは暴漢どもに手足を縄で縛られ、口に猿ぐつわを結ばれて、夜の闇へと消えて行った。
*
3.ボクは暴漢どもに監禁される
ボクは最終的に目隠しまでされて、前後不覚な状態で車から降ろされた。
背中を押されて、縛られた縄を引っ張られて、おずおずと歩き出す。
何これ怖い。
いや、怖いなんてもんじゃない――恐慌だ。
目が見えない状況で足を動かさなければいけない、この焦燥とサスペンス。転んだらどうしてくれるんだ。
そもそもどこへ連れて行かれるのかも定かじゃないので、その心理的恐怖が鼓動を早める。例えばここが断崖の海辺だったり、人知れぬ樹海だったりして、その場で殺されて遺棄される可能性だって充分にある。
何しろこれは誘拐事件なんだから――。
ただ不幸中の幸いにして、連中はボクに一切危害を加えようとはしなかった。
正直、ここでは書けないような暴行を受ける危険も高いと覚悟したけど、その倫理観に関してのみ、こいつらは統制が取れていた……まぁ、ときどき好色そうな気配を感じたりはしたけど。
ボクが男っぽいから、あまり好奇の対象になりにくいのかも知れない。
(こいつらの目的は飽くまでも、ナミダ先生一人ってことか)
それ以外の人間には極力手を出さないよう厳命されているのだろう。ボクをさらうにしても、身柄を拘束するだけで済ませているのが何よりの証左だ。
「よし、そこに置いとけ。目隠しも外していいぞ」
ボクを先導する暴漢が一言、吐き捨てた。
「うす」
という返事が後ろから聞こえる。ボクの背を押して歩行を促していた奴だ。
初めてボクは目隠しをほどかれ、突き飛ばされた。
痛っ!
ボクはよろけて、前のめりに突っ伏す。
スカートのすそがめくれて暴漢どもに大サービスしてしまったけど、連中は大して気に留めていない。
危ない危ない。何が刺激になって欲情されるか判ったものじゃないからね。
奴らが意外と理性的なのは、腐っても賢明な大学関係者だからか?
(ここはどこだろう……埃っぽいな。廃屋か?)
ボクは床に積もった塵埃に顔をしかめた。
瓦礫やガラス片も散らばっている。コンクリート剥き出しの殺風景な部屋だ。内装は剥がれ落ち、調度品も見当たらない。窓ガラスすら取り外されて、風がびゅうびゅう吹き込んで来る。
天井には電球が吊るされ、煌々とボクを照らしていた。
「大学旧校舎の廃墟に着きました」
暴漢の一人が携帯電話で何者かと通話する。
大学。
旧校舎。
廃墟。
ははーん、何となく察しが付いた。
ここがこいつらの拠点なのか……しかも大学って……結構あからさまだなぁ。そんな場所、内部関係者しか立ち入り出来ないだろうに。
勝手に利用しているとしても、もっと足の付かない所、せめて大学と無関係な建物を探せば良いのに。
その辺が素人感覚と言うか、手近なもので間に合わせただけの即席集団であることが推して測れる。
「あー、いててて。あの野郎にこっぴどくやられちまった」
暴漢どもはようやく一息ついた。
ナミダ先生に薙ぎ倒された奴らが、傷口の治療を始めたんだ。
床にどっかと腰を下ろし、尻を突いて、どこからともなく救急箱をいくつか持参する。
自分たちで応急手当が出来る……医療の心得があるのか?
消毒液を塗り、絆創膏を貼り、打ち身には湿布を貼り、ガーゼをかぶせ、止血したり薬を塗ったり、人によっては添え木と包帯まで巻いている。
(……手慣れているなぁ)
ボクは直感的にそう思った。
単に医療機関へ足を運べないせいかも知れないけど。
こんな不衛生な場所で、コソコソと怪我を治すということは、人には言えない蛮行をしでかしている自覚があるようだ。
闇討ちを仕掛けた挙句、返り討ちにあったんだから当然か。かっこ悪いったらありゃしないね。
(じゃあやっぱり、精神医学部の人たちなのか?)
医学部なら基本的な応急手当くらいは出来るだろう。
また、人の心を研究する学問として、心理学と精神医学は共通点がある。
学術的な権威を巡って両学部に何らかの対立があったとすれば、医学部の荒っぽい連中が喧嘩を吹っかけて来ることもあり得るんじゃないか? エリートだの出世だのは関係なく、面子と立場を守るために――?
「何ジロジロ見てんだよ」
暴漢の一人が、床にうずくまったボクへ睨みを利かせる。
そりゃ目隠しを外されたんだから、周囲を観察するに決まっているだろ。
見られたくなければ、目隠しを外すなよ。理不尽極まりないなぁ。そもそもこんな所に拉致された時点で不条理なのにさ。ぶつぶつ……。
「おい、もうじき『教授』が来るってよ」
――教授?
暴漢どもがざわつき始めた。
さっき携帯電話で誰かと話していた奴が、仲間たちに指示を出している。
大ボスのお出ましというわけか。
(教授だなんて、これまた判りやすい渾名だなぁ)
きっと大学の教授なんだろうな。
職場から旧校舎まで、恐らく大して離れていない。電話してすぐ駆け付けられるんだから当然だね。それくらいはボクにだって想像が付く。
(だとすると、やっぱりこいつらはナミダ先生の敵対勢力……大学内の権力争い?)
うーん、考えが堂々巡りしている。
もう少しで何かが掴めそうなんだけど……確証が足りない。条件はそろっているのに。
ただ一つだけ言えるのは、こいつらが紛うことなき卑劣漢ということだ。
大昔、団塊の世代とやらも暴漢だらけで、警察と戦って社会に迷惑をかける馬鹿ばかりだったと聞いたけど、ここに居る連中はさらに大馬鹿だ。
結局、こいつらがやっていることは犯罪でしかない。
罪を犯しても、自分の正しさなんて証明できない。
誰かを傷付け、誰かに疎まれるだけだ。
暴力に訴えること自体が、短絡的で、幼稚で、極悪非道だ。
その時点で、ボクは絶対に共感できない。尊敬も出来ない。単なる忌避の対象へと成り下がる。
大学を出ているくせに、そんなことも判らないんだろうか、こいつらは?
「湯島の野郎はホント目障りだよな。出る杭は打たれるって奴だ」
「ああ。その上、助教や助手の経歴もほとんどないのに、いきなり准教授に推薦されるなんて羨まし過ぎるんだよ。言語道断だろ」
うわ、恨み言が飛び交い始めたぞ。
そうか、やっぱりナミダ先生の出世を妨害したいんだな、こいつら。
ナミダ先生は大学講師で、所属する教授の下で研究助手も務めていたと聞いた。
年齢的に、博士号を取得したばかりで、講師職は一~二年だろう。その経歴で昇進するのは驚異だ。世の中には三一歳で教授に上り詰めた実例もあるというけど、かなり稀だ。
――でも、それが実力主義の世界だろう?
他人の功績を妬み、嫉み、あまつさえ邪魔しようとするなんて、心底みっともない。
こいつらは醜い。
反吐が出そうだ。
本当に吐いてやろうかな。猿ぐつわされているけど、嘔吐すれば外してくれるか?
「教授が来たぞ!」
暴漢どもが立ち上がり、二列に並んで黒幕を出迎えた。
あ、そこは統率が取れているんだ。
妙に体育会系だな。素人集団のくせに。
「みんな、ご苦労」
しわがれた声が廃屋に染み入る。
老獪そうな男性の声だ。
案の定、明かりに照らされたその顔は、しわの寄った初老で、毛髪もいぶし銀のロマンスグレーを放っている。
骨と皮だけの痩せ細った体格だけど、その割には足取りも強く、健康そうだ。
値の張るスーツなのか、埃っぽい廃墟を煙たがり、しきりにゴミを払い落としている。
(こいつが精神医学部の渦海教授って奴か……?)
ボクは床の上から、じろりと見上げた。
教授もボクを睥睨したものの、大して関心なさそうに目をそらしてしまった。
それもそうか……こいつはボクを、ナミダ先生との交渉の道具としか認識していない。
さらうのはボクじゃなくても良かっただろう。要はナミダ先生をおびき出して、脅迫できれば満足なんだ。
「本当にこんな小娘……娘か? ごときが人質として成立するのか?」
教授が手下に尋ねている。
小娘で悪かったな。
というか今「娘か?」って疑問符を差し挟んだだろ。悪かったな、男っぽくて。化粧っ気も洒落っ気も全然ないからね。スカートは穿いているけど。
「この女は、湯島が目をかけてる生徒ですよ。親しげに話してましたから!」
暴漢が取り繕っている。
ふぅん。他人の目には、ボクとナミダ先生はそう映るのか。
ボクたちは、いつの間にか関わりを持ち過ぎた。
心の傷を癒されたり、友達の悩みを聞いてもらったりするうちに――。
「それに湯島は、なぜか警察沙汰にしませんからね! いや、裏では警察の知り合いと連絡を取ってるっぽいですが、表に出すのを避けてます。おかげで、こっちも誘拐や闇討ちが出来るわけで――」
「ふん。まるで直接は争わず、遠回しに論文で中傷合戦を行なったフロイトとユングのようだな。ユングは『リビドーの変容と象徴』という論文でフロイトの思想とは異なる無意識の概念を発表し、それを受けてフロイトも『モーゼと一神教』で真っ向からユングを全否定してのけた……以後、この二人が会うことはなくなった」
教授はこれ見よがしに鼻を鳴らした。
有名なフロイトとユングの確執ってやつか。
「かつての盟友が道をたがえる……フロイトとユングは、さしずめ精神医学部と心理学部だな。そこに籍を置くワタシもまた、この対立から逃れられない。歴史は繰り返す……奇妙な偶然の一致ではないか。ユングは『精神病は診察だけでなく心の物語が重要だ』と悟って独自の分析心理を開眼したが、我々の因縁も病的な物語性を内包していると言える」
な、何か語り始めたぞ……そう言えば交換殺人のときも、精神医学部と心理学部は『フロイトとユングばりに袂を分かちました』って話していたっけ。
「個人としてもユングと同じ誕生日であり、ユングのように年の離れた妻と結婚し、放蕩もしたのだから筋金入りではないか。特別視してしまうのもさもありなん」
だから何だって言うんだよ。
あんまり夢見がちな面相で語らないで欲しいな、気持ち悪いから。
第一、それっぽっちの類似点でユングとカブってるとか、傲慢じゃないかな? 箇条書きのマジックと同じで、たまたま似通っている部分を書き連ねただけで全てが酷似しているような錯覚に囚われるんだよ。
仮に、ユングそっくりだとしても、犯罪をやらかして良い道理なんてない。
馬鹿馬鹿しい。
ボクは延々と考える。この教授がどれほどナミダ先生を嫌っているのかは不明だけど、こんな奴に先生が負けるとは思えないし、思いたくもない。
でも……勝つとしたら、どうやって?
ナミダ先生がボクを救出する見込みは、あるのかな?
この期に及んでも警察抜きで交渉するつもりだとしたら……?
(帰りが遅くなったら、ボクの親が通報しそうだなぁ)
娘の帰りが遅くなれば当然、両親は心配する。
どっちも共働きで帰りも遅いから、ボクの不在に気付くのは深夜を過ぎてからになるだろうけど――。
それまでにボクが解放されれば良いな……無理かな?
ああ、もう、どうしてこうなった。
ボクを巻き込んだ『教授』とやらが、本当に腹立つ。
「それで、湯島は?」
教授が問うと、暴漢の一人が声を荒げる。
「湯島には連絡しました! 人質を返して欲しければ、一人で旧校舎へ来いとね!」
「ふむ。そうか。さて、本当に単身で殴り込んで来るかどうか――」
「来ました!」
「――むっ?」
別の暴漢が遠くで叫んだ。
廃屋の入口に近い方角だ。見張りを立てていたようだ。
たちまち一派に緊張が走る。
教授も部屋の外へ踵を返して「早いな」なんてひとりごちている。
ナミダ先生、迅速だな……というか、来てくれたんだね。ボクなんかのために。
いや、出世の進退がかかっているから、そっちの交渉が主目的だろうけどさ……。
「寂れた廃墟だなぁ、あるある!」
建物に呼びかけるナミダ先生の大音声が、染み入るように反響した。
あの人、こんな声も出せるのか。
隅々までよく通る、明朗な声量だ。
「腐った連中には、腐った根城がお似合いだね! いい加減、僕も辟易したよ。無関係の未成年を誘拐するなんて、そこまで見境がないとは思わなかった」
「ふん。ぬかせ――」
「君たちの悪行はもう見飽きた。滅びた建物にふさわしく、悪もまた滅びるがいい。正義は必ず勝つものだからね……よくある台詞だろう? あるある」
*
4.ボクは黒幕との決別を看取る
ナミダ先生、怒っている。
その声色、荒い口調、息遣い。
ありありと、怒号がボクたちの耳に伝わって来た。
建物を穿つ怒気。
力強い靴音。片方は義足だけど。
空気がピリピリと緊張する。
暴漢どもが尻込みしているのが見て取れた。無理もないか、いくら人質を取っていると言っても、つい先刻にナミダ先生の手でコテンパンに叩きのめされたんだもんね。それも余裕綽々と。鎧袖一触とばかりに。
そんな先生が憤慨のあまり本気を出したら、一体どんな目に遭わされるのか……もしかしたら本当に命を失いかねないんじゃないかって、暴漢どもは今さらのように青ざめ、戦慄しているんだ。
こいつらは、決して触れてはいけない竜の逆鱗に触れてしまった――。
「出て来なよ、黒幕も居るんだろう?」
ナミダ先生が、さらに猛る。
旧校舎の門前から呼びかけている。
空室の一つから彼を見下ろすボクたちだったけど、やがて教授がしびれを切らし、暴漢のリーダー格に「行け」と命じた。
暴漢はゴクリと息を呑み、数秒ほど逡巡したものの、引けまくった腰を叩かれて飛び上がり、仲間たちを伴って廊下へ出て行く。
室内には縄で縛られたボクと、それを見下ろす教授、あとは護衛の雑兵が二名残っているのみとなった。
それ以外は皆、出陣する。
ナミダ先生を迎撃すべく、入口で対決する。
「見ているがいい」
教授がボクにあごをしゃくった。
ガラスのない窓枠から、入口の外に立ったナミダ先生を俯瞰できる。
ここは廃屋の二階だった。ナミダ先生がボクを助けるには、並み居る暴漢どもを薙ぎ倒し、旧校舎に入ってここまで登って来なければならない。
「よく一人で来たもんだな!」
暴漢のリーダーが入口から声をかけた。
ナミダ先生の正面に立ち、数メートルほどの距離を保って、せいぜい威嚇している。
リーダーの左右には手下たちも整列し、決戦に備えて目を血走らせていた。中には及び腰の奴も散見されたけど。
「一人で来いという君たちの要望があったからね、あるある」ドスの利いた声で答えるナミダ先生。「そして、僕はこの通り現れた。人質を解放してくれないか?」
「やなこった」
唾棄する暴漢のリーダーが憎たらしい。
ナミダ先生も眉根を寄せ、嫌悪感をあらわにした。
「てめぇをボコボコにするまで人質は利用させてもらうぜ。抵抗するなよ? 刃向かったら人質がどうなるか判るだろ?」
「ありがちな三流悪役の台詞だなぁ。情けない」
「何だと!」
「知能が低いと言わざるを得ないね。今日び、もっと考えてモノを言うだろう。感情のまま、気の向くまま声を発すると、こんなにも理性からかけ離れるんだね。そういう意味では君、とても典型的なサンプルだよ」
「サンプルだぁ? 人を馬鹿にするのも大概に――」
「だから、それが愚かな三下だと言ってるんだよ。君たちは本当に博士か?」
「!」
博士。
ずばり明言した。
ナミダ先生はこいつらの素姓を探るべく、かまをかけている?
「医学部の博士号といえばエリート中のエリートだ。世界中から引っ張りだこだろうに、なぜ大学の椅子にこだわるんだい? いつまでも研究室にくすぶってるなんてあり得ないだろう? うん、ないない」
ナミダ先生の物言いに対し、暴漢どもがざわつき始めた。
困惑している。
外に居た連中だけじゃない、部屋でボクを見張っている教授と手下二名までもが、きょとんと顔を見合わせる始末だ。
「おい、何を言い出すんだ、湯島の奴?」
「もしかして、俺たちの正体を勘繰ってるのか?」
こいつら全員、戸惑っている。
ボクはあいにく部外者なので、彼らの事情は何とも言えないけど。
「僕の所属する心理学部や、他の学部ならまだ話は判るんだけどさ」大手を振って語るナミダ先生。「博士号を取得した後、大学や研究所で任期制の職に就いた人をポストドクターと呼ぶ。そこからさらに助教・講師・准教授・教授へと出世できる者は、非常に限られる。想像を絶する狭き門だ。当然、競争や駆け引きが生じる」
「…………!」
暴漢どもが歯噛みする仕草を察せた。
何か心当たりがあるんだろうか?
「統計では、ポスドクが大学で生き残れる確率は一〇パーセントにも満たない。離職率ダントツだね。途中で解雇される人は、年間に千人単位で存在する。大半の人は、外部の研究施設へ働きに出ないと食って行けない」
千人単位?
生存率一〇パーセント以下?
博士の世界は厳しい。学者の世界は金にならない。
人材の犠牲の上に成り立つ世界。雇用の安定とは程遠いブラック中のブラック。
「湯島てめぇ、何が言いてぇんだよ!」
「医学部のエリートには判らないだろうけど、ポスドクは報われない。博士号はイバラの道。世間によくある評価はおおむねこうだ。君たちはどんな挫折をしたのさ? なぜ僕を闇討ちしようとした? エリートが嫉妬するとも思えないけど?」
「や、やかましいっ!」
「あまつさえ脅迫して、僕を出世から辞退させようとまで試みた。どうもおかしい。つじつまが合わない。人間の短絡的な攻撃機制は、余裕のあるエリートには発生し得ない」
「攻撃機制だぁ?」
「人間の心理で、嫉妬や欲求不満を抱えたとき、八つ当たり・暴言・暴力的な行動を起こしてストレスを解消しようとする……それが攻撃機制さ」
「…………っ」
「他にも、代替品や第二志望で満足する『代償』、幼児退行して現実から目をそらす『退行』、憧れの人物になりきって現実逃避する『同一化』などがあるね、あるある」
おおー、心理学の講釈が始まったぞ。
こんな状況でもスラスラと能書きが出るなんて、ナミダ先生、ちゃっかり冷静沈着じゃないか? 怒っているのは見せかけだけか。
暴漢のリーダーが歯を食いしばって反論した。
「だから何だってんだ! 俺たちの素姓なんかどうでもいいだろうが! 湯島、てめぇさえ蹴落としゃ、教授が俺らの面倒を見てくれるんだよ! 教授の言葉に一縷の望みを託すしか、もはや大学で生き残る手段はねぇんだ――」
「教授、ね」
「――あ!」
しまった、と暴漢が口をつぐんだけど、もう遅い。
一度発した言葉は決して引っ込まない。
教授。
そいつが首謀者だ。
今、ボクの隣に突っ立っている男性こそが――。
「馬鹿だなぁ君たちは。一体何をやらかしたらそこまで追いつめられるのさ。君たちの面倒を見るだなんて、黒幕の方便に決まってるだろ。よくあるパターンだよ」
「うるせぇ! 貴様らに落伍者の心情が判るか! 実績のねぇポスドクは首を切られたら路頭に迷うしかねぇんだよ!」
「ポスドク? 君たちが?」
――違和感。
ナミダ先生の顔に暗雲が立ち込めた。
「君たちは精神医学部ではないのかい? 前述した通り、医学部のエリートなら行き場がないなんてあり得ないんだけど?」
「てめぇも言ったよな、離職率ダントツ、ブラック中のブラックだと。その通りさ。給料だって研究室の予算にもよるが決して高いとは言えねぇ。学振で高給取りも居るっちゃ居るが全員じゃねぇ。博士課程を出た人材は潰しが利かねぇ……お先真っ暗だ!」
「僕の質問に答えろ! 君たちは何者だ!」
高学歴どうしが言い争っている。
何だ?
何が起こっているんだ?
こいつらはナミダ先生の心理学部に敵対する『精神医学部』じゃないのか――?
「君たちの首謀者は誰なんだ?」
ナミダ先生は一帯を見回してから、旧校舎の二階に焦点を定めた。
そこに居たボクと、ばっちり目が合う。
ボクが捕まっている部屋を察知したんだ。
まぁ、この部屋だけ電灯で明るかったから、見当も付きやすいだろうけどさ。
ナミダ先生はひとしきり、ボクを心配そうに望遠してから顔を横に振った。
「僕を敵視する教授と言えば、精神医学部の渦海教授だと思ってた。心理学部との確執でね。あるある」
うん、ボクもそう思っていた。
「でも、それにしたって教授どうしの鍔ぜり合いだ。研究員が律儀に付き合う道理なんかない。よほど大恩や弱みを握られてるとかでない限り」
うん……その通りだと思うよ、ボクも。
「そうなると、いよいよ暴漢たちの実態が掴めなくなる。渦海教授の傘下で、僕の邪魔をしたがる人種とは、一体どこのどいつ――」
「知りたいかね、湯島くん?」
「――だ?」
そのときだった。
ボクの横に居た教授が足を進めて、窓際に顔を出したんだ。
ついでにボクを手で引き寄せ、人質として並ばせる。
痛いなっ。そんな乱暴に引っ張るなよっ。
「見るが良い、湯島涙よ。このワタシが誰なのかを」
「なっ……」
言葉に詰まったのは、広場から部屋を見上げるナミダ先生だった。
豆粒みたいに遠く離れているけど、ナミダ先生はボクと教授を視認している。
ボクを見て安堵したのも束の間、続けて目の当たりにした教授の尊顔に、愕然とあごを外しそうになっていた。
ナミダ先生も、あんな顔をすることがあるんだ……。
(何を驚いているんだろう?)
ナミダ先生は、黒幕が渦海教授だと踏んでいた。そこに疑問の余地はないはずだった。
そう――『はずだった』んだ。
実際はそうではないってこと。
まさか、この『教授』は、渦海ではない……?
「あなたは――」
ナミダ先生が喉を震わせた。
「あなたは――汐田教授!?」
え?
は?
はああああああああ?
ボクは耳を疑ったね。
教授を見つめる。
彼方のナミダ先生にも目をやる。
二人は遠くから睨み合い、火花を散らしている。愕然と、あるいは凛然と。
「汐田教授……!」
ナミダ先生が、推理を外した。
呆然と立ち尽くしている。
(汐田って、ナミダ先生の恩師だよね?)
ボクも聞いたことがある。
この人がナミダ先生を准教授に推薦したという、正真正銘の『味方』のはずだ。ほとんど内定していたらしいから、大学の人事にも承認を取り付けたんだろう。
それをやっかんだ敵対勢力の精神医学部教授・渦海が、息のかかったスクール・アドバイザーをけしかけたと目された。
それなのに――渦海はブラフで、ナミダ先生の恩師が『黒幕』だった?
渦海は今回、関係なかったのか!
信じられなかった。あってはならなかった。
だって、味方に裏切られた格好じゃないか!
「汐田教授! なぜあなたたちが!」
ようやく発するべき言葉を見付けたナミダ先生が、あらん限りの金切り声で問う。
眼前の暴漢たちに対しても、瞳を潤ませる有様だ。
(あの暴漢どもは、心理学部のポスドクたちか! 敵対する精神医学部ではなく、ナミダ先生と同門の仲間たちが妨害工作をしていた?)
仲間たちが、ナミダ先生に毒牙を――。
ポスドクは出世に必死だ。例え同門だろうと、ナミダ先生の昇進に嫉妬したのか。
(真相は学部の対立ではなく、内輪もめだった……!)
覆面をかぶっていたから、ナミダ先生も気付かなかったんだ。
「色彩心理学において、黒は全てを包み隠す没個性の象徴だ。みんな一様に黒衣と覆面で外見の判別を付かなくさせ、同門だとバレないよう振る舞ってたのか……!」
それを指示した汐田教授も不可解だ。ナミダ先生を推薦した張本人じゃないのか?
傷心するナミダ先生に、今度は汐田教授が声を張り上げる番だった。
「ワタシはもう四〇代後半だ。君とは一九歳違いだったかな? 期せずして、フロイトとユングも一九歳違いだったな。いやはや皮肉なものだ。ワタシはユングになりたかったのに、君はワタシをフロイトに見立てていたのだから」
「僕にとってはまさにフロイトでしたよ! ――『フロイトは私の出会った最初の真に重要な人物であった』――ユングがフロイトに抱いた有名な第一印象です。僕は汐田教授にそれを感じました! なのに……なのに……!」
「――『ユングはワタシの跡継ぎ息子だ』――フロイトがユングに放った有名な言葉がある。君はこれを夢見ていたのかね?」
「そうです、あなたは僕の師匠であり、フロイトでした。ユングではなく!」
「いいや。ワタシがユングだ。フロイトはむしろ渦海だ。同じ心理学の道を志しておきながらワタシと対立した奴こそが、ワタシにとってフロイトの見立てだ!」
な、何か知らないけど下らない言い合いをしているなぁ……。
フロイトとユングの見立て、だって?
人の立場によって、見立ては変わるものだ。相談室の交換殺人事件のときも、渦海教授と汐田教授の関係を『さながらフロイトとユングばりに袂を分かちました』って比喩されていたからね。
「ワタシはユングになりたかった。ワタシの人生はユングと瓜二つなのだ。誕生日は同じ七月二六日。子供の頃から『ファウスト』を愛読し、二〇歳で父を亡くし、八歳下の幼な妻と結婚し、教え子や相談者と浮気もした。ああ、まさにユングだ」
「いいえ、あなたはユングじゃない。ユングは浮気をしても、妻と別れることはありませんでした。ですが、あなたは別れた! ユングになり損ねたんです!」
「何だと……!」
「人間の適応機制に『同一化』というのがあります、あるある。憧れの人物を自分と同一視し、なりきることで、辛い現実から気を紛らわせる逃避の心理です」
あ、それさっきも聞いたぞ。伏線だったのか。
確かに汐田教授は、ユングになりきることで現実を乗り切ろうと焦燥し、テンパっているように見える。
失敗しているけど。
放蕩三昧しても家庭を維持できたユングと違い、汐田教授は離婚している。ユングになり損ねたんだ。そのせいで、別れた妻の息子・霜原から恨まれもした――。
「ワタシはそれでも、元・妻と息子を愛していたんだ!」血眼になる汐田教授。「ワタシが二四歳のとき、一六歳の嫁と学生結婚した。当時の民法は一六歳で結婚できたからな。生まれた息子も今年で二四歳、現在は大学を出て社会福祉士に就職している……ワタシは離婚後も息子を気にかけていたのだ! 愛する息子に殺されるなら、それはワタシの自業自得だ。甘んじて受けよう……だが、それを邪魔する者が居た!」
「僕ですか?」
「そうだ! 湯島くん、君は息子の罪を暴いた! 息子は警察に逮捕され、輝かしい人生を台なしにされたのだよ! 愛する息子によくも泥を塗ってくれたな!」
「それが、教授の動機ですか……」
「君のような恩知らずを准教授に推薦したことを、ワタシは後悔した!」窓から身を乗り出す教授。「とはいえ、すでに学内人事で話が進み、君の昇進がほぼ内定しつつある。これを取り下げるには、君が失脚するか、辞退するしかないのだよ」
だから今回、脅迫と誘拐を実行したのか。
(精神医学部とはまた別の、異なる陰謀だったんだ。てっきり同じ黒幕の計略だと思い込んでいたのが、ボクたちの落ち度だ)
それにしても、ひどい。
汐田教授の我がままじゃないか。自分のエゴでナミダ先生を翻弄しただけだ。
霜原が逮捕されたのは、犯罪を犯したからだ。ナミダ先生のせいじゃない。逆恨みだ。
「そんなの勝手すぎませんか?」
だからボクは口を挟んだ。声を荒げて裏返るほどに。
久々に女らしいソプラノボイスを叫んだ気がするよ。
「ひどいじゃないですか。ナミダ先生は悪くないのに、あなたの勝手な思い込みで出世を揉み消すなんて、あんまりですよ。あなたも恩師なら、最後まで責任を持って面倒見たらどうなんですか!」
「知ったことか。ワタシは湯島涙を排除する」
「大人の都合のくせにっ」
「黙れ小娘!」
汐田教授がボクをはたいた。
痛っ。
横っ面を平手打ちされたボクは、よろけて転倒してしまった。
この野郎、ぶちやがったなっ。
心は男だから怒りが湧いたけど、体はか弱い女なので力が入らず、へなへなと床にくずおれた。腰が抜けて動けない。
くそっ、肝心なときにボクは……!
「生徒に手を出すな!」
ナミダ先生が吠えている。
それは遠吠えだ。
ここには手が届かない。
「さぁ湯島くん、辞退せよ」息巻く汐田教授。「ワタシが急に推薦を取り消したら不自然だからな。君が辞退するのが一番収まりが良いのだ」
「やめろ。やめて下さい汐田教授――」
ナミダ先生の声が先細った。
失望と絶望。
敬愛する師が、まさかの怨敵に成り下がる悪夢。
そんな奴にお願いしなきゃいけない屈辱。
ナミダ先生から戦意が抜けて行く。棒立ちになり、隙だらけになり、暴漢どもが間合いに寄って来ても身構えない。
彼の持つステッキだって、今にも手放しそうなほど、力が入っていない。
フロイトとユングが決別したように、汐田教授とナミダ先生も別れようとしている。
(こんな結末、嫌だよ)
ボクは首を振る。
(そんなナミダ先生は見たくないよ。ナミダ先生はいつだって不遜で、自信家で、人を食ったように心を見透かして、小馬鹿にしつつも思いやりがあって、相談者を励ましてくれたじゃないか。心が挫けたナミダ先生なんて、先生じゃないよ!)
元気出してよ、ナミダ先生。
いつものように暴漢を蹴散らして、偉そうに心を見破って、能書きを垂れて、勝ち誇ってみせてよ……!
「単身でここに乗り込んだのが運の尽きだ」窓の外を見下す汐田教授。「所詮、君は独りなのだ。味方など居ない。足を欠損して引きこもっていた頃と同様、君は孤独――」
「いやぁ、そんなことはないですよ、っと!」
「――だ!?」
やおら。
部屋の外から、第三者が主張した。
場にそぐわない、ひょうきんな軽口だ。
ギョッとして教授が振り返る。つられてボクも体ごと向き直る。
そこには、冴えないカーキ色のコートに身を包んだ、三〇代半ばくらいの小柄な男性が立っていた。
あれ? この人、どこかで見たような――。
「何者だ……ぐあっ!」
部屋に残っていた二名の暴漢が睨みを利かせたけど、雑魚も同然だった。
男性は空手のような構えを取って、一人をカウンターパンチで叩き伏せ、もう一人には柔道さながらに懐へ飛び込むや、背負い投げで一発KOしてのけた。
見事な秒殺だった。
「不肖、この浜里漁助にかかれば、下郎などお茶の子さいさいだ! 現場の叩き上げで警部に成り上がったノンキャリアを舐めるなよ!」
浜里……?
あ、思い出した!
確か、ナミダ先生と知り合いだっていう、強行犯係の警部じゃないか!
「湯島さん! 侵入成功! 人質は保護しましたよーっ!」
窓の外を見下ろして、浜里さんが呼びかけている。
「浜里さん……遅いですよ、危うく挫折する寸前でした」
ナミダ先生も少しだけ覇気を取り戻した。
苦笑いしているのが、この距離からも判別できた。
「一人で来たのではなかったのか!」
汐田教授が部屋の隅へ後ずさりする。
浜里さんはボクの拘束をほどきながら、チッチッと舌を鳴らして口角をゆるめた。
「そりゃあ、警察と一緒に来ましたーなんて馬鹿正直に話す奴なんか居るわけないでしょうに。湯島さんはその点、人の心をたばかるのが上手ですからねぇ」
警察も動いていた。
そう言えば、水面下では調べているって、ナミダ先生も話していたっけ。
「ま、警察としては非公式だから、不肖・浜里漁助の単独行動ではあるけれども、こうして現行犯を押さえた以上、もはや言い逃れは出来ないですよ!」
「うぐぐっ……小癪なああああ!」
逆上した汐田教授が、やぶれかぶれに浜里さんへ突進した。
ボクを介抱する浜里さんは、両手が塞がっている。おいおい、完全に油断しているじゃないですか……警部のくせに詰めが甘いですよ。確かに非力そうな汐田教授が牙を剥くなんて予想しにくかったですけど。
浜里さんはボクをかばうのが精一杯だったようで、無防備に体をさらけ出した。あっ、まずい、このままじゃやられる――。
「えいっ♪」
「ぎゃふっ!」
――あれ?
横から瓦礫が飛んで来て、汐田教授に命中したじゃないか。
見れば、部屋の入口に新たな人影が立っていた。その可愛らしい声と外見は、大いに見覚えがある。
「泪先生!」
こ、この人も来ていたのか……。
憧れの女神ともいうべき養護教諭・湯島泪先生が、小さな体と胸を張ってキリリと屹立していた。
泪先生は足下の破片を拾っては投げ、拾っては投げを繰り返し、堅実に汐田教授を打ちのめして行く。よ、容赦ないなぁ……。
「えへへ~。私も役に立つでしょ? 浜里さん?」
「あなたが付いて来ると言って聞かないから、黙認していただけですよ!」
浜里さんが嘆息しながら現場の鎮圧を淡々とこなす。
石をぶつけられた汐田教授を羽交い絞めにしてから、ボクを束縛していた縄を再利用して教授を捕縛する。手際が良いなぁ。
泪先生はそれを尻目に、部屋の窓枠から半身を乗り出した。
「お兄ちゃ~ん、私すっごく事件解決に貢献したよ~! 後で抱っこしてね!」
両手を振って、階下の兄へ自己主張を忘れない。
うーん。泪先生が居ると、どんな緊迫した場面もお花畑みたいになっちゃうな……。
「……はは。まさか浜里さんやルイに元気づけられるとはね」
ナミダ先生が、旧校舎入口で踏ん張った。
足腰に力を込め、義足を奮い立たせ、相貌に凛々しさを蘇らせた。
近付く暴漢どもを、眼光だけで立ちすくませる。
あとはもう、先生の独擅場だ。
暴漢どもが逃げ腰になったのは言うまでもないね。
「ひいっ!」
「やめろ、来るな!」
「俺らが悪かった!」
「助けてくれ……勘弁してくれ!」
人質という後ろ盾がなくなった連中に、もはや勝ち目はない。
あっさり観念して平伏する奴まで出たから、さすがにナミダ先生も苦笑したよ。
「あるある。自分の立場が危うくなると途端に命乞いする三流悪役、よくある」
――そして、先生の無双が開幕した。
ステッキを振りかぶり、横に薙ぎ、すくい上げ、突き出す。
左の義足を軸にして、円を描くように立ち回り、敵をいなして行く。
そのつど暴漢が一人ずつ地に伏し、宙を舞い、横倒しにされて、泡を吹いて気絶した。
流麗な演武でも見ているかのような、素敵な杖術だった。
まるで舞踊だ。
暴力の血生臭さはそこになく、ナミダ先生の美しさと猛々しさだけが、この舞台を構成する全てだった。
(かっこいい…………って、あれ?)
ボクはいつしか、ナミダ先生に見とれていた。
おかしいな。ボクは体こそ女だけど、心は男勝りで、同性の泪先生が好きなのに――。
*
・使用したよくあるトリック/見立て、叙述
・心理学用語/適応機制、攻撃機制、同一化、リビドーの変容と象徴、モーゼと一神教
――こうして、事件は幕を閉じた。
ボクは家に帰るなり、母さんに泣いて抱き着かれた。
心配していたらしい。
だから警部さんも大急ぎで動いたわけか。本格的に通報されたら大騒ぎになってしまうからね。
ともあれ、ボクの身の危険はなくなった。
翌日、保健室には泪先生が笑顔で待ち構えていて、ボクをすげなく追い返す。
「君はもう、どこも悪くないでしょ~?」
ついに仮病認定されてしまった。
以前は無条件で招いてくれたのに、今は素っ気ないものさ。塩対応ってやつか。
でも、仕方ないのかな。ボクの心は完治し、こうして元気になったのだから。
保健室を引き返し、廊下をあてどなく歩く。
職員室の奥に『心理相談室』の看板が見えた。
(ナミダ先生……今日は来ないかな?)
まだボクは、ナミダ先生に礼を述べていない。
助けに来てくれてありがとうって。
けど、それはもう叶わないのだろうか。
あの人は大学で身辺整理に忙しい。恩師が逮捕されたことで、研究室が閉鎖されるらしい。准教授推薦の道も白紙に戻されなければ良いけど。
かと言って、あの人が無事に出世すれば、スクール・カウンセラーとして顔を合わせることもなくなるわけで……。
はぁ……複雑な心境だ。
「きゃ~お兄ちゃんっ」
ん?
泪先生の嬌声が響いた。
後ろからだ。
制服のすそを翻したボクが見たものは、職員室から退室するナミダ先生の姿だった。
……居たのかよ!
それをめざとく発見する泪先生も抜け目ないなぁ。保健室の戸口から虎視眈々と見張っていたんだろうか。
とにかく、ボクは湯島兄妹が抱き着く様子を、目と鼻の先で目撃した。
全く、これで何度目だろう。
いい年した大人が――それも実の兄妹が――人目もはばからずイチャイチャ抱擁するなんて、目の毒以外の何物でもないよ。
……って、なんでこんなにイラつくんだろ。
ちくり、と胸が痛んだ。
どうしたんだろ、ボク。
この苦痛は、兄妹への嫉妬?
だとしたら、どっちの?
泪先生かな……いや、ボクはもう彼女にフラれて、ふっきれたはずだ。今でも好きだけど、割り切っている。
じゃあ、ナミダ先生――?
「お兄ちゃん、まだスクール・カウンセラーは継続できるの?」
泪先生が、ナミダ先生の胸板に顔をこすり付けながら、猫なで声で問いかけた。甘えきっているなぁ。
ナミダ先生はボクの存在に気付いて咳払いすると、泪先生の頭を優しく撫でながら述懐する。ボクにも聞こえる声量で。
「まぁね。准教授の推薦者だった汐田教授が逮捕されたことで、大学は大荒れでさ。僕の昇進はうやむやのうちに流れてしまったよ。しばらくは大学講師とスクール・カウンセラーという二足のワラジを続けるだろうね、あるある」
「そっか~。えへへ」
泪先生、嬉しそうな悲しそうな、どちらとも付かない生返事をしている。
確かに、素直に喜べないよね。
異例のスピード出世が、パーになってしまったんだ。理不尽だけど、こればかりはボクらにはどうしようもない。
そして不謹慎だけど、ナミダ先生がカウンセラーとして高校に残ってくれるのは、泪先生にとっては朗報だ。一緒に居る時間が増えるから。
「まぁ、僕はまだ二〇代だしね。この先もチャンスはあるさ、あるある。汐田教授が抜けたことで、大学は新たな教授を補充しないといけないし、それはきっと現役の准教授から選ばれるだろう。となると繰り上がりで空席の准教授が出るから、近いうちにまた抜擢される可能性は高いと思う」
そうか。
門戸が閉ざされたわけではないんだ。
次こそはナミダ先生が報われると良いな――。
ちくり。
(あれ? まただ……)
ボクの胸が痛む。
心は男なのに、女として膨らみ始めた思春期の胸が、ちくちくと刺すように痛む。
女の制服に身を包んだ肢体が、柔肌が、ナミダ先生を見るたびにドキドキと脈打つ。
何だこれ……?
「というわけで沁ちゃん、もう少しだけお世話になるから、よろしく」
ナミダ先生が、顔だけボクの方を向いた。
目が合う。
ドギマギする。
「は、はいっ」
ボクは咄嗟にうつむいた。
直視できない。
鼓動が激しい。
(スクール・カウンセラーを続けてくれると知って、喜んでいるボクが居る)
不思議な感覚。
奇妙な自覚。
顔が熱い。赤面する。火照る。紅潮する。
この気持ちは……何?
ボクはこの、得体の知れないフワフワした心情を胸に沁みつつ、今日もナミダ先生の部屋に立ち寄るんだ。
人の心を解き明かしてくれる、心理相談室へ。
――閉幕
参考文献
・スクールカウンセラーの仕事/伊藤美奈子(岩波書店)
・学校が求めるスクールカウンセラー/村瀬嘉代子監修・東京学校臨床心理研究会編(遠見書房)
・ユング/アンソニー・スティーヴンズ著・鈴木晶訳(講談社)
・ワルい心理学/渋谷昌三(日本文芸社)
・手にとるように心理学がわかる本/渋谷昌三(かんき出版)
・やさしくわかるユング心理学/山根はるみ(日本実業出版社)
・ケースで学ぶ犯罪心理学/越智啓太(北大路書房)
・図解雑学 犯罪心理学/細江達郎(ナツメ社)
春休みに「とある事故」で心の傷を負った高校生・渋沢沁は、心理相談室で『スクール・カウンセラー』の診察を受ける。
春休みの事故……それは、沁の友人が自宅で転落死したことだった。
カウンセラー・湯島涙は、沁の心を癒すには事故の真相を解き明かす必要があると指摘する。
転落は事故ではなく「殺人」だった。心理学的見地から犯人を推理し、解決へ導く。
――以後、沁と涙の間で、さまざまな悩み相談にまつわる事件が多発する。
親の離婚問題に悩む級友の揉め事。
沁のクラスで嫌われている担任教師の悩み。
さらには、スクール・ソーシャルワーカーやスクール・アドバイザーと言ったカウンセラーのライバル業種からも妨害に遭う。
湯島涙の過去も明かされ、大学時代の恩師による派閥抗争に巻き込まれる。居合わせた沁が誘拐され、湯島涙はこれを救出し、黒幕を暴く。