君はきっとまだ知らない

 しばらくして吹き疲れた私は、少し休憩しようとブランコに座った。すると千秋がやってきて、隣のブランコに腰を下ろした。
「もういいの?」
「うん、ちょっと疲れた」
 彼はふうっと息を吐いてから、しみじみと言う。
「冬哉って元気だな」
「だよね。幼稚園のとき、マラソン大会で優勝してたし、サッカーも習ってるし。ほっとくと何時間でも走ってるよ」
「え、すごいな。俺はあんなに長く走れない……」
 しゃぼん玉の軌道の読めない不規則な動きに振り回され、「えっ、そっちかよ、そう来るか!」と右往左往している冬哉の姿を、千秋は尊敬の眼差しで見つめる。私は小さく首を振った。
「いいんだよ、そういうのは人それぞれだから」
 私は最近覚えたばかりの言葉を口にしてみる。いい言葉だな、と思ったのだ。
「そのぶん千秋は、冬哉が持ってないもの持ってるんだもん」
「そうかな……?」
 彼は少し唇を尖らせて首を傾げたけれど、私は確信を持って「そうだよ」と深く頷いた。
 千秋はまだ知らないだけなんだ。自分がどんなに素敵な人なのか。でも、私はたくさん知っている、千秋のいいところを。
 早く自分でも気づけたらいいね、と心の中で語りかけていると、彼はふいに「あ、そうだ」と声を上げ、鞄をがさごそと漁り始めた。そして、スケッチブックと色鉛筆を取り出す。
「お絵描きするの?」
 しゃぼん玉に飽きたのだろうかと思って訊ねると、千秋は「うん」と頷きながら、まだいくつか空中を漂っているしゃぼん玉を指差して言った。
「すごく綺麗だから、絵に残しときたいなって」
「へえ、そっかあ……なるほど」
 綺麗なものを見て感動して、その気持ちを絵として残すという発想など全く持っていなかった私は、驚きに目を見開いた。
 また見つけた。千秋の素敵なところ。
「ねえ光夏、おっきいしゃぼん玉って作れる? 色と形をよく見たいんだ」
 私は大きく頷いた。
「うん、やってみる」
 さっきよりもずっと優しく、そっと息を吹くと、ストローの先で新しいしゃぼん玉がぷうっと生まれた。すぐに閉じて飛んでいったりしないように、勢いがよすぎて弾けて消えたりしないように、少しずつ少しずつ、慎重に空気を送り込む。
 ゆっくりと時間をかけて、両手にも収まらないほどに大きく膨らませたしゃぼん玉は、まるで生き物のように小さく震え、その動きに合わせて一瞬ごとに色を変える。
「すごいなあ、本当に綺麗なグラデーションだ。金色、黄色、オレンジ、赤……」
 それが飛び立ったあと、次のしゃぼん玉がすぐに生まれた。
「あ、今度はちょっと色が違って見える。ふちは銀色で、紫、青、黄緑……。青っぽいのと、赤っぽいのがあるんだ。あ、でも、虹色のもある……」
 ぶつぶつと独りごとを言いながらしばらく観察したあと、千秋は色鉛筆を動かし始めた。
 彼は絵を描き始めるととんでもない集中力を発揮して、話しかけても反応しなくなるのを知っていたので、私はしゃぼん玉を吹きながら他のふたりへ目を向けた。
 冬哉が空を仰ぎながら走り回り、小石につまづいて転びかけて、慌てて体勢を整える。春乃はそれを見ておかしそうに笑いながら、「風、風、吹くなー」と何度目かのしゃぼん玉を歌っている。
「本当に綺麗だなあ……」
 千秋がふと目を上げ、空を見上げて噛みしめるように呟いた。本当に嬉しそうに微笑みを浮かべていて、だから私も嬉しくて、笑いが込み上げてくる。
 なんて穏やかで、幸せな時間だろう。自然と頬が緩んだ。
 こんな時間が永遠に続けばいいのに――。
 そんなことを考えながら、ふうっとストローを吹く。先端で生まれたぶどうほどの大きさのしゃぼん玉は、風にのって少しだけ昇ったあと、雪の花びらのようにひらひらと舞い降りてきた。息を吹きかけてみたけれどだめで、力尽きたように一気に落ちる。そして地面に触れるか触れないかのところで、ぱちん、と音もなく弾けて消えた。
 まるでもとからしゃぼん玉なんてなかったかのように。
「……生まれてすぐに、壊れて消えた――」

 その瞬間、目が覚めた。
 脳裏には空いっぱいに広がる無数のしゃぼん玉の姿が、瞼裏にはひとりぼっちで消えていったしゃぼん玉の残像が、くっきりと残っていた。
 ふ、と唇が歪む。なんて昔の夢を見たんだろう。
 もう何年も前のことだ。あの三人と、あんなふうに楽しく過ごしていた日々は。
 二度とあんな時間は過ごせないだろう。
 過去には、戻れない。
 未来にも、飛んでは行けない。
 あるのは、現在(いま)だけ。
 なんにも知らなかった昔の能天気な自分を懐かしんだって、振り返るときらきら輝いて見えるあのころが眩しいだけだ。
 将来どんな出来事が待ち受けているか想像を巡らせたって、それはどうせ希望的な観測だ。
『今』から逃げることはできない。逃げてはいけない。
「……起きなきゃ。行かなきゃ……」
 かすれた声で呟く。
 長い長い休みは、終わった。学校が始まる。
 私はひとつ息を吐いて、のろのろと起き上がった。
 レースカーテンが揺れる掃き出し窓に目を向ける。
 ベランダの向こうにある外の世界は、呆れるほど鮮やかな光に満ちていて、私は眉を寄せて目を細めた。


 俯いて自分の爪先を見つめたまま、ドアに手をかける。瞬間、エアコンで人工的に冷やされた空気がいっきに溢れ出してきて、私を包んだ。
 ぶるっと軽く身を震わせて、一歩踏み出す。もちろん俯いたまま。
 それでも、視界の端には教室の景色が飛び込んでくる。等間隔に並んだ同じ机と同じ椅子、そして同じ制服に身を包んだクラスメイトたち。
 代わり映えのしない光景にうんざりしながら、私は黙々と足を動かして机の隙間を通り抜け、自分の席の椅子を引いた。なるべく音を立てないように、軽く持ち上げて、そっと床に下ろす。
 少しでも気配を消すために、余計な動きは控え、避けられない行動についてはそれに付随する音を極力抑えるようになったのは、いつからだろうか。考えてみるけれど、頭が思考を拒否するようにぼんやりとしていて、思い出せない。
 椅子に腰を下ろし、鞄をそっと机上に置いてから、小さく顔を上げて黒板の右側を見た。ひどく適当に消されたらしく薄ら残っている昨日の日付の上に、日直の男子の乱雑な文字で【十四】と走り書きされている。
 九月十四日。新学期が始まってから、もう二週間も経っているのか、と思った。死んだように過ごしているせいか、なんだか実感がない。
 そして、“あの日”から――私の学校生活が一変してから、とうとう三ヶ月だ。
 ほんの三ヶ月間のはずなのに、もうずっと何年も“こんな”生活をしていたような気がする。
 ゆるりと視線を机の上に戻す。除光液を使って何十分もかけて丁寧に丁寧に消したのに、それでも消えてくれなかった、マジックペンで書かれた文字。私はそれをじっと睨みつけ、鞄を置き直して視界から閉め出した。
 俯いた視界の端で、クラスメイトたちが蠢いている。でも、誰ひとり私に声をかけてきたりしない。視線さえ向けられることはない。
 いつものことだった。私はきっと今日も、誰からも話しかけられることも、目を合わせることもない。一日中、始業から終業まで、放課後になってもだ。
 私が息を殺しながら学校生活を送っている理由。それは、六月の“あの日”からずっと、クラス中から無視されていることだった。
 無視されているのに、いつも不穏な気配が私を取り巻き、誰とも目が合うことはないのになぜか見られている気がする。私がなにか目立つような動きをすると、どこからかくすくす笑いが聞こえてくる。でも、振り向いても、誰も私を見てなんかいない。
 私は一年A組の幽霊だ。
 いるのに、いない。確かに私はここにいるはずなのに、誰からも存在を認められない。
 でも、と私は口許を歪める。
 でも、こんなことがなんだっていうの? 心の奥から問いかける声がする。あなたの八十年の人生にとって、たったの三年間過ごすだけの学校で、少しくらい上手くいかなかっただけで、なにか問題がある? 別に誰とも話さなくたって、なにも困らないでしょう。事実、あなたはこの三ヶ月、誰とも話さずに、それでもなんの問題もなく学校生活を送れていたんだから。
 そうだ、と私は頷く。別にかまわない。なんの問題もない。
 無になればいい、心を殺せばいいのだ。きつく目を閉じて、ぎゅっと耳を塞いで。深く深く息を吸って、細く長く吐き出して、酸素が頭のてっぺんから爪の先まで染み渡るように深呼吸をする。そうしたら、ほら、酸素はきっと私の心を凪の海のように平坦にしてくれる。
 そんなことを考えているうちに、いつの間にか授業が始まり、終わり、また始まって終わって、放課後になっていた。担任が連絡を終えたと同時に、帰りの挨拶もそこそこに、私はいつものように俯いたまま足早に教室を出た。

 リノリウムの床を打つ上履きを凝視しながら、生徒玄関へと繋がる廊下を歩く。
 時間的にまだ終礼の終わっていないクラスも多いので、あたりにはほとんど人がいない。たくさんの生徒がひしめく空間にいると気分が悪くなるので、いつも放課後はなるべく誰もいないうちに校舎を出ることにしているのだ。
 向こうから他クラスの集団がやってきた。大きな笑い声をあげながらふざけ合っていて、こちらに気づく様子もなく廊下の真ん中を歩いてくるので、ぶつからないように私は端に身を寄せた。反射的に顔を背けて窓の外を見る振りをする。
 次の瞬間、私は動きを止めた。すらりと背の高い男子と小柄で華奢な女子が肩を並べて、校門に向かって歩いているのが目に入ったからだ。
 ここからの角度だと顔は見えないけれど、見慣れた背格好や歩き方で、誰なのかはすぐに分かる。白川冬哉と香山春乃――私の幼馴染だ。
 思わずふたりの姿を目で追いかけていた数秒後、今度は呼吸が止まった。彼らの少し前を、俯きがちに歩いている男子に気がついたのだ。ほっそりとした身体と柔らかく風になびく髪、少し猫背ぎみの後ろ姿。間違いない。もうひとりの幼馴染、金森千秋だ。
 ゆっくりと歩を進めていた千秋が、ふいに顔を上げた。ちょうど春乃たちが彼に追いつき、横で足を止める。どうやら彼女たちが声をかけたらしい。
 私は思わず、「え」と声を上げてしまう。まさか彼らが接触するとは思わなかったのだ。
 私が知る限り、昔から特に仲の良かった冬哉と春乃は、今でもときどき校内でふたりでいるのを見かけたけれど、そこに千秋が加わるのは見たことがなかった。
 だから私は、軽く挨拶をするだけだろうと予想した。でも、彼らはその場で会話を始めた。
 当たり前のように顔を合わせて言葉を交わす三人を見て、私の心の中には、自分でもよく分からない、なんとも言いようのない感情が込み上げてきた。
 数分間なにか話したあと、春乃と冬哉は千秋に小さく手を振り、校門に向かって歩き出した。千秋はしばらく立ち止まって彼らの背中を見送っていたけれど、忘れものでもしたのか、踵を返して来た道を戻っていった。
 二手に分かれた幼馴染たちの姿を見つめながら、私は自分の鼓動が妙に忙しないのを自覚した。
 彼らとは家が近所で、幼いころから中学、高校まで同じ、いわば腐れ縁というやつだ。
 春乃と私は幼稚園の年少クラスで出会い、ふたりとも外に出るより室内で折り紙やビーズで遊ぶほうが好きだったことから仲良くなった。
 年長のときに冬哉が同じクラスになり、私のいないところで男の子たちにからかわれていた春乃を、彼が助けてくれたのがきっかけだ、私も含めて三人でよく遊ぶようになった。
 そして、小学校に上がった七歳のとき、千秋が同じ学区内に引っ越してきた。私たちの通っていた学校に転入してきて、そのときはクラスが違うので面識はなかったのだけれど、たまたま公園で遊んでいるときに出会って、一緒に行動するようになった。千秋は私たちからするとずいぶん変わった雰囲気をもっており、だからこそ私たちは彼のことが気になって仕方がなくて、やいのやいのと声をかけては遊びに連れ出していた。
 学校の校庭や近所の公園、原っぱや土手、誰かの家やその庭、とにかくどこで遊ぶにも四人で出かけていた。
 周りの親や友達からは『仲良し四人組』と呼ばれたり、偶然にもそれぞれの名前に春夏秋冬が入っていることから、からかいまじりに『劇団四季』などと呼ばれたりしていた。
 でも、小学校の高学年になるころには、まず周りの雰囲気が変わってきた。男子と女子に分かれて対立したり、誰々ちゃんは誰々くんが好きだとか、あの子とあの子は両想いだとか、無責任に騒いだり。そういうふうにして男女の境目がはっきりしてくるにつれて、私たちもその空気に影響されていった。男女入り交じって仲良く行動というのは、周囲の目もあってなんとなく気恥ずかしくなった。共に行動する時間が減って、徐々に距離が離れていったのだった。
 中学も高校も同じだったけれど、私たちはもう二度と四人で一緒にいることはなくなった。
 それなのに今、彼らは、昔と同じように話をしていた。そのことが私をひどく驚かせ、動悸を激しくさせたのだ。
 もしかして、私以外の三人は、今でも親しくしているのだろうか。私は三人の誰とも、もう何年も、同じ高校に通っている今でさえ、会話どころか視線すら合わせていないのに。
 でも、当然と言えば当然だ。私が通っているのは大学進学を目指す普通科で、彼らはみんな専門科だった。千秋は芸術コース、春乃は家政コース、冬哉は体育コース。
 普通科は朝学習があり、授業の時間編成も専門科とは違って、登校も下校も時間がずれる。それに、普通科のA組からF組までは職員室のある本館、専門科のG、H、I組は特別教室が集まる別館と、教室が分かれていた。出入口も違うため、教室移動などでたまたますれ違いでもしない限り、普通科と専門科の生徒が互いに顔を合わすことはない。
 だから、高校で一緒になってクラスも近い彼らが再び仲良くなり、同じ学校とはいえ学科の違う私だけは接点もないまま、というのは納得できる。
 できるのに、このもやもやとした気持ちはなんだろう。でも、名前をつけてしまったらまっすぐには立っていられなくなるような気がして、私は小さく首を振り、勝手に駆け巡る思考を頭から振り払う。
 無理やり空っぽにした脳裏に、いつかテレビのドキュメンタリー番組で見た、ある野犬の映像がぽかりと浮かんだ。争いに負けて群れを追われ、今までの居場所に戻れなくなった野犬が、遠くから仲間たちを見ている横顔。
 はたから見ればもしかしたら、教室で息をひそめている私も、昔の友達をこっそり覗き見ている私も、あの野犬と同じような顔をしているように見えるのかもしれない。
 嫌だ、と思った。私は別にひとりでも平気なのに、そんな不様で哀れな姿なんて晒したくない。
 過去には戻れない。未来も明るいなんて限らない。
 過去を振り返っても、未来を夢見ても、なにも意味はない。『今、ここ』だけが私の居場所だ。その場所がどういうものかなんて、居心地がいいかどうかなんて、考えるだけ無駄だ。どうせなにも変わらないのだ。
 私はもう一度ぶんぶんと頭を振り、生徒玄関に向かって黙々と足を動かした。
 あの三人のことは、もう忘れよう。いくら昔同じ時間を過ごしたからといって、今はもう私とは無関係なのだ。彼らがどうしていようと私には関係がない。
 そう自分に言い聞かせていたときだった。靴箱が見えてきたあたりで、ふいに、かすかな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 何度も嗅いだことのある、懐かしい香りだ。内心で首を傾げているうちに、それは徐々に濃度を増し、私は確信した。
「金木犀……」
 思わず呟いて足を止める。少し視線を上げて、周囲を見回した。まだ金木犀の季節ではない。花は咲いていないはずだ。じゃあ、どこからこの香りはやってくるんだろう。
 甘い花の香りはそこら中に漂っているような感じがして、どこでなにが香っているのかは全く分からなかった。
 そのとき、突然、息をのむような音が聞こえてきた。私は反射的に目を上げる。
 視線の先に現れたのは、見慣れた、でも見慣れない顔。
「ひ、な……?」
 かすれた声で私を呼んだのは、千秋だった。
 長い前髪の奥から、少し見開かれた切れ長の瞳が、じっと私を見つめている。昔と変わらない、すっきりと澄みきって、透明で、ひどく静かな眼差し。
 全てを、心の奥底までも見透かしてしまいそうなまっすぐな視線に、胸を抉られそうな気がした。
 瞬間、走って逃げ出したくなるのを、私は必死に堪えた。ここで不自然な動きをしたら彼に不審に思われるかもしれない、そして探られたりしたら……という危惧が、かろうじて私の足を床に貼りつけてくれた。
 微動だにせず、言葉もなく彼を見ていると、その薄い唇がゆっくりと開いた。
「……光夏」
 できれば会話など交わさずに、軽く会釈でもしてさっさと擦れ違ってしまおうと思っていたのに。こんなふうに名前を呼ばれてしまったら、無視することなんてできない。
「……千秋。偶然だね」
 できる限りの平静を装い、普通の声、普通の声、と自分に言い聞かせながら、小さく言った。
 答えてから、そういえば学校で声を出したのはいつぶりだろう、と思う。たぶん、一学期の最後あたりで、世界史の授業中に当てられて、先生の質問に答えて以来だ。二学期になってからは、一度も指名されてされていないはずだ。
 うまく声が出ていただろうか。千秋が不自然に思うような声じゃなかっただろうか。ちゃんと、“高校生活をなんの問題もなく順調に送っている生徒の声”だっただろうか。
 そんな焦燥が、逆に私の重い口を押し開いた。
「……珍しいね、千秋がこっちにいるなんて」