「いらっしゃいま……」

 カラカラとガラリ戸を開け、店内に入ってきた客の顔を見て、思わずいらっしゃいませの台詞が止まった。吟が黙り込んだのに気づき、ユキも僅かに眉を寄せる。

「おっす……と、なんだ、風祭は? いねえのか?」
 やって来たのは、そろそろ中年に差し掛かりかけているだろう風情の男、飛田慶一郎だ。
 飛田はその店の店主、風祭蒼太と微妙な位置の知り合いで、探偵をやっている。いろいろと便利な男なのだが、一つだけ難点があった。それも最大最悪の難点だ。
 彼はゲイで、ショタ専なのだが、なぜか年齢的には全然好みと合致しなさそうな、蒼太に惚れこみ、少しでも借りを作ると露骨にヤラせろと言ってくるらしい。蒼太も対処に困っていた。
 それでも彼は腕利きの探偵で、忙しい身だ、そうそう訪れては来ない。来るのはなにか頼み事がある時、もしくは人恋しくなった時だけだ。そして、そのどちらだとしても、蒼太にしつこく絡んでくるのがいつものことだった。
 だが、今、彼の所望する蒼太はいない。
 飛田は、店内をきょろきょろと見回し、厨房に蒼太の姿がない事を確認しながら、いつもと同じ、カウンター席の中央へ座り込む。そこが一番、厨房を見通せる席なのだ。
 席についた飛田は、無遠慮に厨房内を覗き、再度そこに蒼太の姿がない事を確認する。そしてその代わりに、見知らぬ女性がいることに気づいた。機嫌悪そうに眉を潜め、露骨にジロジロと見つめる。見られていることで、ユキも気が散るのだろう。彼女は吟にだけわかる程度僅かに、背中を緊張させた。その細い背が儚く美しい。姿勢がいいのでなおさらだ。
 肩甲骨下まである長い黒髪を一つに束ね、いつも飾り気のない白のダボを着込んでいる彼女は、店に出ているときだけ羽織る白の甚平に黒二枚の雪駄という料理人らしい佇まいながら、視線だけはやたら鋭く強い。従業員としてユキに付き従っている吟はいつもハラハラしどうしだった。
 出来るなら彼女にあまり興味を持たせたくない。
「いらっしゃい飛田さん、お久しぶりです、なににしますか?」
 飛田の興味を逸らそうと、吟は彼からユキが見えないように、さりげなく間に立った。だが飛田もそれくらいでは引っ込まない。立ち塞がる吟の背後に隠れた形になるユキを、身を乗り出すようにして見ていた。
「とりあえずビールだ、あとは適当に……て、誰が作るんだ、お前か?」
 この店の主は蒼太で、料理人も蒼太、吟はその弟子だ。一応料理人だが、吟が作った料理を店に出すことはない。だから飛田も訝しがった。なんと言っていいのか、吟も答えに詰まる。
「いえ、俺は……」
「お前じゃないなら誰だ、まさかその女か? 誰だそいつは?」
 誰が作るのかと聞かれれば、答えないわけにもいかない。今ここの主はユキだ、そこは変えられない。
 吟は、厨房のユキをチラリと見ながら、彼女は蒼太の妹で、蒼太が不在の間、店は彼女に任されていると話した。その途端、飛田の表情が変わる。
「奴の妹……?」
 呟く声は低く、疑いに満ちていた。付け焼刃の言い訳では勘のいい飛田は騙せないようだ。吟としても不味かったろうかと焦ったが、他の客にもそう説明してある、他に言い様はない。するとそこでそれまで飛田を無視するように仕事をしていたユキも、手を止めて顔を上げた。そしてゆっくりとカウンター席にいる飛田のほうへと歩く。
「オッサン、ちっと顔かしや」
「え、ユキさん! ……どこ行くんですか!」
「下(地下)や、ちっとこいつと話してくる、あとは任せたで」
 ユキは飛田について来いと声をかけ、外へと出て行く。あとには、仁侠映画にでも出てきそうな鋭い目つきの飛田が続いた。その様子はまるで、取立屋のヤクザと、追い詰められる少女のようだった。

 ***

「さて、オッサン、今日はなんの用や?」

 疑いの目を向ける飛田を引き連れ、店の地下にあるガレージまで歩いたユキは、両手をダボのポケットに突っ込んだまま、上目遣いに振り向いた。飛田はそれを胡散臭そうに見返す。
「お前は誰だ?」
「吟に聞いたやろ」
「ああ、だが奴に妹なぞいない」
「お前が知らんかっただけで、いてたんやないか?」
「馬鹿言え、こっちは調べんのが商売だ、奴の背後は全部洗った、妹なんぞいねえんだよ」
「勝手に人の周りを嗅ぎ回るなと言うたやろうに、聞かん男やな、まったく……」
 ユキがやれやれと肩を竦めると、飛田は真剣にムッとした表情でユキを睨み、大きな拳でガレージの壁を殴った。
「ふざけんな! お前はなにモンだ? なにを考えてやがる、奴はどこだ? さっさと答えろ!」
 飛田はどうやら本気で心配しているらしい。繰り出された拳も、脅すように吐き出された言葉も、僅かに震えていた。
 ユキは自分を睨みつける飛田を静かに見返し、ゆっくりと息を吐く。
 誤魔化せないのは最初からわかっている。飛田は元々お節介な上、好奇心旺盛で、図々しい。探偵だけあって、謎解きは得意だし、わからないことはわかるまで調べる男だ。納得できる説明を聞くまで、引っ込まないだろう。ただ問題は、彼が信じるか否か、だ。
 しかし話さないわけにもいくまいと、ユキは覚悟を決めた。
「奴、というのが風祭蒼太のことやったら、どこにもやっとらん、ここにおるで」
「ここに? ここのどこだ? 上か?」
「ちゃうちゃう、ここや、ここ」
 出来るだけ普通のことを、当たり前に話すように心がけ、ユキは自分を指差した。それを見て飛田が眉間に皺を寄せる。そいつをさらに見返し、ユキはもう一度答えた。
「今、目の間におるやろ、俺が、風祭蒼太、本人や」
「ふざけんなっ!」
 自分がそうだと答えると、飛田は目を剥いた。どうやらいい加減なことを言って、からかっていると思ったようだ。無防備なユキの襟元を掴み、壁へ叩きつける勢いで怒鳴る。案外気が短いなと半分呆れながら、ユキは自分より十センチ以上は上になる飛田の目を正面から見返した。
「別にふざけとらん、俺が蒼太や」
 平然と自分を見返すユキを見つめ、飛田は襟元を掴んでいた手の力を抜いた。だがまだ信じることは出来ないようだ。掴んだ手は離したが、表情は厳しいまま、ユキを睨む。
「笑えねえ冗談だな、お嬢さん、なにか裏があるのはわかったが、アンタが風祭のわけがない」
「そうか、けど俺が本物や、他に蒼太はおらんで?」
 先日まで男だったものが突然女になったなど、普通は誰だって信じない。それが当たり前だ。他人事として聞けば、自分だって信じない。納得させるのは至難だろう。ユキは半ば説明を諦めつつ、もう一度、自分が蒼太であると告げた。
「何度も言わせんな、蒼太は俺や、他にはおらん」
「馬鹿を言え、言葉遣いをまねようが、アンタはどう見ても女だ、風祭のわけがねえ、そうだろ!」
「俺やってそう思うわ、けど本人なんや、しゃあないやろ」
「仕方ないで済ます問題か? ありえねえよ」
 飛田はあくまでも信じない姿勢のようだ。蒼太は他にいて、今、目の前にいる女はその事情を知っている。真意はわからないが、少なくとも敵ではない……そう判断したのだろう。剥き出しの敵意は引っ込んだが、事情を話せと迫ってくる。
「頭の固い男やな、探偵ならもちっと柔軟になったほうがええで? ま、無理ないがな」
「どう柔軟になっても、ありえねえもんはありえねえんだよ、半年くらい行方不明だったとか言うなら、全身整形したとしてやってもいいが、一ヶ月やそこらで男が女になるわけねえだろうが」
「なんで俺がそんなん(整形)せにゃアカンのや、それこそありえんわ」
「ならなんだ? 脳移植でもしたってのか? それともどっかの女と角道でぶつかったか?」
「アホか、映画やないで? ぶつかったくらいで入れ替わって堪るかいな」
「そうさ、ありえねえんだよ、つまり風祭は別にいる、そうだろ?」
 飛田は、それ見ろと頷きながら力説する、そこでユキも、これ以上彼に説明しても無駄だと判断した。信じないならそれでもいい、納得してもらう必要はない。
「メンドクサ、信じられんならそんでもええわ……あ、けど店では俺は風祭蒼太の妹ということになっとる、蒼太に妹がおらんとか、余計なことだけは言うんやないで」
「俺には話せねえってわけか? ならいいさ、後で吟ちゃんに聞いてやる」
「ええけどな、吟に聞いても答えは同じやで」
「聞いてみなきゃわかんねえよ」
「あ、そ、ならそうしたらええわ」
 これ以上話しても無駄だと判断したユキは、じゃあなと片手をあげ、飛田を無視して店へ戻ろうとした。翻る白い甚兵衛、ひらりと翳される右手、なんの未練も持たない冷たく硬そうな背中が、ほんの少し、哀し気に揺れる。
 その後姿に、蒼太の影が重なった。

「風祭……?」

 飛田の重い声で、ユキは振り向く。視線の先にいる飛田は、呆然と瞳を見開き、右手でユキの……いや、消えた蒼太の背を掴もうとしていた。どうやらなにか感じたらしい。
「なんや?」
 当たり前のように返事をすると、飛田はますます動揺し、視線を上げ下げさせては、仕切りと首を振り、唇を噛んだ。そしてようやく思いきったように顔を上げる。
「本当に、風祭……なのか?」
「そうやと言うとるやろ」
 ユキは、静かにそうだと答える。その途端、飛田は伸ばしかけていた右掌で顔を覆い、黙り込んだ。どうやら、理屈ではなく、感覚と本能で、それが正解だと悟ったらしい。ショックは大きそうだ。
 だがショックなのも信じられないのもこちらの方だ、本人の目の前で本人より落ち込むなと言いたくなる。ユキは顔を覆ったまま、動かなくなった飛田の前に戻り、その横の壁へ背を預けた。そして懐から、暫く吸っていなかった煙草を取り出して、口に咥える。
 だが火がない……。

「落ち込んどるとこ悪いがオッサン、火、貸してんか?」
 声をかけると飛田は反射的に顔をあげ、咥え煙草のユキを見た。そして少しムッとしたような表情で、ジッポの火を差し出す。カシンと火花を散らし、炎があたりを明るく照らす。久しぶりに吸い込んだニコチンは、少し辛い。
「……煙草、変えたのか?」
 飛田は自らも煙草を咥え、火をつけながら、浮気はしないんじゃなかったのかと聞いてくる。変える気はなかったのだが、仕方がないではないか、身体が変わったせいで、妙にニコチンがきつく感じるのだ。以前の銘柄だと二本も吸えない、クラクラしてくる。仕舞いには気持ち悪くなりそうだった。
 かと言って、長年親しんだ煙草は手放せない。仕方なく、これを機に止めればと言う吟の声を振り切って、吸えそうな銘柄を選んだのだ。そう話すと、飛田はそんなんで吸った気になるのか、情けないとぼやいた。
「しゃあないやろ、吐くよりましや」
「馬鹿じゃねえのか? そんなに合わんならいっそ禁煙すりゃいいだろ」
「お前がしたら考えるわ」
「なんで俺を巻き込むんだよ」
「そら目の前で旨そうに吸われたら腹立つからやんか」
「意地で吸うな」
「やかまし、どうでもええやろ」
 ユキが腐って見せると、飛田はようやくクッと笑った。だがすぐに真面目な顔つきになる。

「お前、最近どこかでお札でも剥がさなかったか? もしくは蛇か猫を殺したとか」
「なんやそれは、まさかこれ(女性化)が祟りのせいやとでも?」
「整形でも魂の入れ替えでもないなら、あとは薬か祟りか呪いくらいしかねえだろ」
「飲むだけで性転換できる薬があるならニューハーフが泣いて喜ぶやろ、開発者は大儲け、ノーベル賞やで?」
「まあな……しかしそうなれば、あとは祟りしかねえぞ」
「それも嘘臭いわ、映画やないで? そんなん信じられるか」
「じゃあ原因はなんだよ」
「知るかいな、そんなん俺が知りたいわ」
 ある朝、起きたら女になっていた。背が十センチ以上縮んでしまったため、今までとどいていた高さの物がとどかなくなったり、力が弱くなったせいで持てると思ったものが持てなかったりと不自由が続いて腐ったが、それ以上に、店をやるのに困った。
 店の主は自分だが、この姿の自分を蒼太と認識しろというのも無茶だ。仕方なく、自分のことを蒼太の妹ということにし、暫く留守にする蒼太に変わり、店を任されたのだという設定を考えた。出す料理の味は蒼太とそっくりだ(本人だから当然だが)、それで客は騙せた。だがさすがに吟は騙せなかった。
 現在店の手伝いをしてくれている澤田吟は、蒼太とは学生時代からの付き合いで、高校では先輩後輩だった。その他大勢と、徒党を組んで「未晒組」と名乗り、いい気なって暴れまわった仲だ。蒼太に妹がいないことも知っている。彼の眼はごまかせない。
 だから吟にだけは正体を明かしたし、吟も納得した。現在ユキが店の主として普通にやって行けるのは、尽くしてくれる吟のお陰だ。こんな話、吟以外の誰も、信じないだろう。それを飛田にわかれというのは無理だと思っていた。しかし彼は持ち前の勘か、本能か、ユキがイコール蒼太だと納得したらしい。そこにはちょっと驚いたが、それで話が好転するわけではない。彼が信じようが信じまいが、元に戻れるわけでないのだ。
 吸い込んだ紫煙をガレージの天井目掛けて吐き出したユキは、胸の内だけで浅い溜息をつき、ことさら何でもないように話した。
「あ、面倒やろうが、このかっこ(女性)のときはユキやで、間違えんな?」
「んだよその名は、どっから出て来た?」
 飛田も急に現実に引き戻されたのだろう。少しぼうっとした表情だ。ユキは事実を知った飛田の気持ちを組みつつも平然と答える。
「俺の母親の名や」
「かーちゃん? お前、マザコンか?」
「ちゃうわ、アホ」
 軽く悪態をつき、ガレージの壁で煙草をもみ消す。飛田はまだなにか言いたそうだったが、こちらはまだ営業中だ、長々と店を空けておくわけにもいかない。そろそろ戻らなければならない。ユキは返るぞと話して先に歩き出した。
「ま、ええわ……いつまでもサボっとくわけにもいかんし、理由の詮索はお前に任す」
「そうだな、そいつは俺が突き止めてやんよ」
「なんや、素直やな、気色悪い、言うとくが、ギャラは成果が出てからやで?」
「ギャラはいらねえよ」
 あまり期待しないで、女性化の原因と、どうしたら戻れるのかを探ってくれと言うと、飛田は仕事はするが、金は要らないと言った。
 なぜだと聞くと、自分がやりたいからやるのだ、だから依頼料は要らないと言う。
「そんでええんかいな、まあこっちはそのほうが助かるがな」
「テメエがそんなんじゃこっちが面白くねえんだよ、気にすんな」
「そうか、なら任すわ、期待しとくで、探偵」
「おう、その代わり……」
「ん?」
「元に戻ったら、一発やらせろよ?」
 男に戻ったらヤラセロと言う飛田の台詞に、ユキも絶句した。どうやら本当に女はダメらしい。彼が女嫌いである意味ホッとした。
 飛田が女に興味がないというなら、それはそれで助かる……というか、それなら面倒がないので、ずっとこのままでもいいくらいだ。とは言っても、本当にこのまま、というのも困る。店へ戻りかけていたユキは、暫く考えた末、ゆっくりと振り向いた。
「そやな、まあ、考えとくわ」
「ぉ、本気か?」
「考えるだけやで、まあ結果次第やな、せいぜい気張りや」
 以前と同じく、唇の端を上げてニヤリと笑うユキを見て、飛田もようやく安心したように口角を上げた。その表情を見て、ユキもなんとなく安堵した。
 普通に話せる相手がいるということが、少し嬉しかったのかもしれない。普段なら絶対聞かないのに、ついうっかり彼に、その日の訪問のわけを聞いてしまった。

「ところでお前、ホンマ今日はなにしに来たんや?」

 なにか用があって来たんじゃないのかと聞くと、飛田はまた少し神妙になった。どうやらなにか頼み事があったらしい。しかし、なんだと聞いてみても、気にしないでくれと言って話そうとしない。
 利用するのはいいが、されるのは好かないので、いつもなら相手が言わないのをいいことに、ああそうかと言って、話を打ち切るところだ。だが今は、女には話せない話だと言われているような気がして面白くない。自分はどこも変わってないと思いたかったのかもしれない。
「なんや、困っとるから来たんやないんか? 言うてみ」
「いいんだ、お前だってそれどころじゃねえだろ」
「話を聞いたからと言って事態が変わるわけやなし、妙に気回さんと、言ったれ」
「しかし……」
「いいから言え!」
 あまり遠慮されるので、お前ではダメだと言われている気分になり、つい焦れた。怒鳴り返すと、飛田も黙る。そして迷いに迷った末、ぼそぼそと話し出した。
「お前、アッパーフラッパーって、知ってるか?」
「そら……物騒な名前やな」

 アッパーフラッパー、通称フラッパー。
 名前どおり、ハイで淫乱になるセックスドラッグだ。値段が安いことから、一昔前、若年層に流行った。中高生でも手に入る安価で気楽な合法ドラッグというのが、その頃の売りだ。
 だがフラッパーには厄介な裏がある。中毒性が高く、ひとたび溺れたらなかなか抜け出せない。そして……許容量を超えると即死だ。
 中毒性が高ければ高いほど、抜け出せなくなった少年少女に高値で売りつけられて儲かる。だから大歓迎のはずだったが、問題はその危険性のほうだ。中毒者の殆どが、売り手を儲けさせる前に死んでしまう。それでは役に立たない。
 つまり、儲からないという理由で、販売組織はフラッパーから手を引いた。今は昔の薬であり、現在市場には出回っていない……はずだ。

「それが?」
「最近な、そいつを密造して儲けようって輩が出てきたんだよ」
「は、物好きやな、儲けるまえにガキは死ぬ、たいして金にはならんやろ」
「そういうリスクはあんまり知られてねえんだろうさ、手っ取り早く作れて儲かる、そんな安易な考えの馬鹿どもってことさ」
 馬鹿はどの時代にもいるものだなと半分呆れながら、ユキは視線を下げた。
 薬は嫌いだし、鬼門だ。出来れば関わりになりたくない。それは飛田も知っている。それでもこの話を持ってきた……ということは、なにか重大な裏があるのだろう。聞くべきだと思ったが、聞いたら後に引けなくなる恐れがある、そう思えば簡単には聞けない。
 ユキが迷っていると、それを待ちきれず、飛田のほうから話し出した。
「実はその現場を高山が見ちまったらしい」
「高山? 美幸がか?」
「ああ」
 飛田の古くからの友人、高山美幸は、ちょっと名の売れてきている写真家で、いい撮影場所を探して、山奥の廃墟へ入り込み、そこで偶然フラッパーの密造現場を発見してしまったらしい。そしてつい、撮った。それが密造者たちに知られ、今、彼は命を狙われているという。
「アホやな、なんでそんなん撮ったんや」
「性分だろ、探究心ってヤツさ」
「探究心で命を落とす気か? アホくさ」
 言っても始まらない、もう撮ってしまったのだ。そして狙われている。
「……で?」
 高山が狙われているとなれば、飛田は動くだろう。そして今回は自分だけでは手に負えないと踏んだ。だからここへ来た。
 だが来て見れば、頼みの蒼太は女性化していた……だから彼は、その次が言い出せないのだ。
 できるなら関わりたくない。しかし、それでは高山はどうなる……? 考えに考えた末、ユキは憂鬱な口を開いた。
「俺になにをさせたいんや?」
 低くなった声で訊ねると、彼は気まずそうに視線を反らせた。女には任せられないとでも思っているのだろう、そう思えば腹も立つ。自分からやるとは言いたくないが、話されないのも気に障るではないか。
 早く言えと視線で促すと、飛田は視線を反らせたまま、もういいんだと答える。
「奴らの本拠地に突っ込んで、密造所をぶち壊す、幸い場所は人里はなれた山奥だ、焼き払えば使い物にならなくなるだろ……で、ついでに連中も黙らせる」
「殺る気か? 探偵のお前が?」
「アレ(フラッパー)には遺恨があんだよ、復活させようなんざ、許せねえのさ」
 小さく呟く飛田には、深く重い後悔が滲んで見えた。知人か関係者か、フラッパーの犠牲になった者がいるのかもしれない。
 個人的な遺恨、それは時として判断を鈍らせる。ましてや殺しは探偵の仕事ではない、自分の領分だ。ユキはあくまでも一人でやろうとしている飛田の、いつになく真剣な横顔を見つめて小さく息を吐いた。
「裏はあるのか? 連中は何人だ?」
「高山が見たのは四人、俺の調べではそのバックにさらに三人、大掛かりな組織はくっ付いてなさそうだが、連中の中には暴力団の準構成員がいる、組に知れれば乗り出してくるかもしれんな」
「なら知れる前に叩いとかんとな」
「ああ、だがお前は関わるな、(今のお前には)荷が重い」
「アホか、素人一人でなにが出来る、殺しはただの破壊工作とちゃうで? そういうんはプロに任すもんや」
「けどお前……っ」
 女じゃないか……とでも言いそうな飛田の顔を見て、ついブチ切れた。だからどうした、そんなことで俺がダメになるとでも思うのかと、怒鳴り返したくなる。
 そこを抑え、こんな返事をする気じゃなかったと半分以上後悔しながら、ユキは自分がやると話した。
「相手は七人、多く見積もっても十人やろ、楽勝や、そっちは俺がやる、お前は施設の破壊工作と、証拠隠滅に徹しとけ」
「しかし……」
「しかしやないわ! 証拠隠滅と退路確保は必須やで、捕まるわけにはいかんやろ」
「だからお前を巻き込みたくないっつってんだろ!」
「もう巻き込まれとるわ、これでお前の死体なんぞ見せられたら寝覚め悪いやんか、いから腹括れ!」
「風祭……」
 普段なら絶対に自分からやるとは言い出さない。それなのに、言ってしまった。女性化し、苛々が募り、精神不安定が続いていたせいかもしれない。ユキはもう一度、連中の始末は自分がつけると告げた。
 その返事を聞いた飛田は、まだ少し心配そうながらも、どこかホッとした顔をしていた。
「美幸にはいろいろ借りがある、今あの男に死なれても困るしな、任しとき」
「そう言ってくれると助かるが……本当に大丈夫なんだろうな? (その身体で)出来るのか?」
「そこまで腐っとらんわ、アホが」
「そうか」
 少し強がって答えると、飛田は安心したように頷いた。どうやら信じたらしい。
 普段は嫌になるくらい疑り深く、人の顔色を窺うのも上手い男だ。いつもならこの返事が強がりだと気づく。それが気づかないということは、それだけ彼も追い詰められているということだ。今回は個人的遺恨があると言っていた。それに高山の命もかかっている。そこが彼から冷静さを奪うのかもしれない。
 彼にとって高山はどんな存在なのか、そういえば聞いたことがなかったなと、ユキは急に思い出した。
 飛田は三十七歳、高山は二十六歳、年齢差は十年以上だ。普段、高山は飛田を避けているように見えるし、友人とも思えない。ではなんだと考え、尋ねてみたが、飛田は、ある事件で知り合っただけの腐れ縁だと、以前と同じ返事しかしなかった。
 誰にでも言いたくないことはある。自分だって聞かれたくない話は山とある。ここは聞かないのが花かなと考え、その方面への思考はそこで閉ざした。
「詳しい打ち合わせは後日っつうことで、それまでにお前は手筈を考えといてくれ」
「ああ、そういうお前は、当日までに、もう少し鍛えとけよ、半端じゃ出来ねえぞ」
「アホ、誰に言うとる」
「ははっ」
 その細い腕でなにが出来る?
 笑いながらも、彼の目がそう言っているように見えて、ユキも少し拘った。
 たしかに、このままでは無理があるかもしれない。それは自分でもわかっていた。だが出来ないとは言えない。やるしかない。やって見せて、自分が自分として、以前とどこも変わってないと、まずは自分自身で納得したいのだ。
 肉体は女性であっても、自分が自分である事だけは捨てたくない。そう決意し、ユキは足早に店内へと戻っていった。その小さな後姿を、飛田はジッと見つめる。

 あれが蒼太だと納得はした。だがそれで以前と同じなのかと問えば、まったく違う。
 腕も首も腰も、呆れるほど細く華奢になった。普通に女としてみても細過ぎるくらいだ。とても立ち回りが出来るとは思えない。
 しかし本人はやれると言う。そこを信じるべきか、無茶な強がりだと疑うべきか、正直、飛田自身も迷っていた。
 だが高山の件も切羽詰っており、手段は選べない。彼《ユキ》が出来ると言ったのだ、あとは信じるしかない。

 *

 ユキと飛田が連れ立つように店へ戻る。店の中では吟がもの言いたげな表情で客の相手をしていた。言いたいことはわからなくはないが、それこそ余計な世話だ、ユキも厨房に戻った。
 それからしばらくは注文が立て込み、雑念も消えたかに見えたのだが、閉店時間を迎えたころ、ずっと黙って仕事をしていた吟が動く。時計の針が午前二時を差すと同時に、残る客に閉店だと告げて回り、カウンターに陣取る飛田にも、同じように看板だと迫った。当然飛田は不機嫌そうに吟を睨む。
「なんだよ俺まで追い出す気か?」
「誰でも同じです、もう閉店時間ですんで、お帰りください」
 自分はユキの知り合い、友人枠だ、いてもいいだろうという飛田は言い返す、だが吟も譲らない。強い態度で閉店だと繰り返し、早々に会計を済まさせた。

「ありがとうございました」
「ぜんぜんありがたい顔してねえぞ、吟ちゃん」
「そんなことはないです、とにかく、閉店ですので、申し訳ないですがお帰りください」
「そう邪険にしなくてもいいだろうに、まったく……じゃあ風祭、また連絡する」
「おう、それまでにこっちも態勢作っとくわ」
「頼むぜ」
「お帰りください!」
 なんだかんだと名残り惜しそうに話を続けようとする飛田を外へ押し出し、吟はピシャンと戸を閉める。いつも温和で人当たりの良い吟らしくない。
「どうした? なんや、機嫌悪いやないか」
 声をかけても、吟は閉められた戸を見つめたまま、動かない。さらにどうかしたと訊ねると、吟はようやく振り向いた。やけに神妙な顔をしている。
「なんや?」
 もう一度訊ねると、吟は何度か躊躇ってから、言い難そうに口を開いた。
「ユキさん、飛田さんとなにを話しはったんですか?」
「ぁ?」
「あの人が来るとろくなことはない、なにかまた頼まれごとでもされたんでしょう?」
 やってやる必要はないですよと吟は言う。どうやら心配しているらしい。しかし、いきなりそう言われては面白くない。ユキは思い切り不機嫌になった。
「なんやいきなり」
「あの人の頼み事はだいたい厄介なんです、それはあなたやって、わかってるでしょう、今回は断ってください」
 真顔で諭すようにそう言われると、ますます面白くない。それでは自分がか弱い娘のようではないか。たしかに、外見は女だが、それは見かけだけの話だ。多少落ちたとしても、そんじょそこらの男には負けない。
「お前、俺を疑っとるんか?」
「そうやないです……けど、そろそろユキさんも、自分が女性やということを、自覚したほうがええと思います」
「自覚してなんや? 結局おとなしくしとれと言いたいんやろ、ちゃうんか?」
 追い詰めると吟は黙った。だがその表情は、そうだと肯定しているように見える。さすがに苛々してきた。
「はっきり言うたらどうなんや、言えんのやったら……っ」
「言えますよ! 言わさしてもらいますっ!」
 そこで吟は、口出しするなと言いかけるユキの口を遮り、初めて怒鳴り返してきた。その真剣な表情を見て、ユキも思わず口を閉ざす。吟は本当に申し訳なさそうに、言い難そうに、言葉を選びながら話した。
「あなたは女性なんです、以前と同じつもりでいても違うんです、体の構造からして違う、女は男に敵わない……そら、並みの男やったらなんとかなるかもしれへんですけど、力のある男には通じんと思います」
「それで?」
「もう危険なことはせんと、そう約束してください」
「…………」
 それまで一度も自分に逆らったことがなく、一度として何かを迫ることのなかった吟の言葉は、酷く重く感じた。それだけ本気なのだろう。
 だがそこで頷くことは、ユキにとって自分を否定することに繋がる。なるほど見掛けは女性かもしれない、だが自分だ。ハンデがあるなら克服してみせる。それでなければ自分ではない。
「断る」
「ユキさん!」
「俺は俺や、変える気はない、文句があるならかかって来い、お前が勝ったら聞いたってもええで?」
「そんな……」
「なにが、力のないモンがなに言うても戯言やで」
 言うことを聞かせたいなら力で来いと言ってやると、吟は黙り込んだ。だがその目には怯えも引っ込む気配も見えない。
「わかりました、勝負しましょう、俺が勝ったら、言うこと聞いてもらいます、そんでええですね?」
「おう、そっちこそ、ええんやな?」
「はい」
「ならついて来い」
 ユキの住む家は、元々小さな雑居ビルだった物を買い取り、改装したもので、作りも普通の家と違う。一階が店、生活空間は四階、二階は身体を鍛えるためのジムになっていて、必要になれば鍛錬の場としても使える。

「さて……」
 道場の中へ入り、ゆっくりと振り向くと、吟は殆ど始めて入ったその部屋をを、きょろきょろと見回していた。これから戦うというのに、どこか呑気な顔だ。ユキは自身も気が緩まぬようと気を張り、少し声を落として話した。
「わかっとると思うが、全力で来いや?」
 全力で来いと言うと、吟は動揺を見せた。女性相手に本気でというのは気が引けるというらしい。だが自分は女性ではない。吟にはそれがわからないのだろう、ユキはそこが吟の甘さだと思いながら、忠告を入れた。
「なるほどお前の言う通り、女は男に敵わんのかもしれん、けどな、俺も壬晒組総長やった人間やで? どんなになっても、手え抜いて勝てるほど甘ないわ、そんぐらいわかるやろ?」
 階段を上りながら頭を冷やし、気持ちを切り替えたユキは、静かに話す。それを見つめ、今ひとつ納得しかねていた吟も、わかりましたと頷いた。
「じゃ、始めるか」
「待ってください、その前に、勝敗のつけ方を決めときませんか?」
「そんなん、動けんようになったモンが負けやろ」
「いや、それじゃ困ります、動けんようになったら、明日の営業に差し支えます」
「勝てる気かいな、まったく……ならどうする」
「どちらかが、負けを認めたとき、というんでどうですか?」
 どうやら吟は本当に勝つ気でいるらしい。ユキが動けなくなったら困ると言いたいようだ。ずいぶん見くびられたモノだなと思いながらもその意見に同意した。別にどちらでもかまわない、吟には悪いが自分も負ける気はしない。
「わかった、それでええわ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん、始めるで」
「はい」
 勝負を決めるため、ユキは仕事着を景気よく脱ぎ捨てる。その途端吟はムッとした顔で一歩下がった。
「ユキさん、あれほど言ったんに、またノーブラですね」
「あ? 別にええやろ、うっさい奴やな、(上着を)着とけばわからんやんか」
「そういう問題やないですよ! だいたい着とったって触ればわかります!」
「は? 誰が触るんや、お前か?」
「ちゃいますよ! 誰だって……っ」
 たぶん吟は最初から気づいていたのだろう、だから余計苛々と心配していたに違いない。だが面倒臭いので改心はしない。吟もユキが聞く耳をもたないと察したのだろう、ムッとした表情のまま、黙り込み、身構える。かなり本気のようだ。
 ユキも誰かと本気で組み合うのは久しぶりだった。吟にどれほどの力があるのかわからないし、最初は相手の出方を見てやろうと考えた。つねに先攻方のユキとしては、待ちの態勢は得意ではないが、今回は待つ。確実に勝つために手段など選んではいられなかった。
 動かないユキ焦れたのか、吟が先に動き出す。とりあえず正面攻撃というのが潔いなと思いながら、繰り出される拳の行方を見ていた。
 だがその拳は、ユキに当たる寸前で軌道を変え、さらに平手に変わる。
吟は喉のすぐ下、鎖骨中心あたりに手を当て、突っ込んできた勢いのまま、ユキを押し倒そうとした。だがユキも押されたくらいで倒されはしない。突き出された右手を掴み、そのまま薙ぎ払う。床に投げ捨てられる形になった吟は、体を反転させ、すかさず足払いをかけてきた。まるで子どもの喧嘩だなと思いながら、その足を避け、半歩下がる。その間に立ち上がった吟は、最初と同じ型で突っ込んでくる。何度か同じことが繰り返され、ユキも少し焦れてきた。
「いい加減にせんかい! 本気で来いと言うたやろ、それがお前の本気か? そんなモンなんか!」
 だが怒鳴っても吟はやり方を変えない。あくまでも、ユキを殴る気はないらしい。何度でも同じように突っ込んでくる。頭にきたユキは、早々にこの馬鹿馬鹿しい試合を終わらせようと、突っ込んでくる吟に殴りかかった。
 その瞬間、ずっと同じだった吟の手の軌道が変わる。

「……っ?」

 吟の腕はユキの喉元でなく、喉そのものへと伸ばされる。ハッとしたが一瞬遅く、スリーパーホールド状態で締め上げられた。
 なかなかコツを知っている。気管を潰さずに、頚動脈だけに力が加えられ、目の前が暗くなった。
「くっ……」
 一度決められると振り解き難くなるのがホールドチョーク型攻撃の特徴で、この状態から力だけで腕を振り解くのは、よほどの力差がない限り無理だ。足元はフックされていないが、上背が違い過ぎる。ユキもそこから足掻くのはやめにして、他に脱出経路はないかと考えた。
 だが技の決め方が上手い。息苦しくはないが、頚動脈圧迫で血流が途絶え、急激に血圧が低下していく。視界と意識がぼやけてくるのは、失神する前兆だ。
 不味いなと気づいたときには殆ど遅く、意識を失うのは時間の問題、それもほんの数秒だろう。そう覚悟を決め、ユキは抵抗をやめた。
 一瞬全身が硬直し、そのあとすぐに弛緩する、そしてそのまま動かなくなった。
 ユキの体から力が抜けると、吟は途端にハッとして、慌てて腕を外す。そして倒れこむユキに手を差し伸べ、抱きかかえるようにして床面へと横たえた。
「……ユキさん」
 無防備に横たわるユキを見つめ、動揺した呟きが聞えてくる。吟はユキが完全に落ちたと思っているのだろう。舐められたものだ。胸の内で息をついたユキは、こちらが気を失っていると信じて油断している吟の左脇腹に膝蹴りを入れた。
「もう勝った気か? 甘いで」
「グッ……ッ」
 一発で決められるように、身体に捻りを入れ、思い切り勢いをつけた蹴りだった。その衝撃に、吟も顔を顰め、床に倒れこむ。それを見下ろしながら、ユキはゆっくり立ち上がった。
「勝負はどちらかが負けを認めるまで、やったな? どうする、まだやるか?」
 出来ればここで諦めて欲しい、そう思いながら聞いたが、吟はそれを見越したように睨み返してきた。
「やりますよ、当然……ユキさんこそ、ギブアップしなくていいんですか?」
「いらん心配せんでええわ」
 その返事に落胆しながら、表面は無表情を装って答える。吟はユキの顔を見つめ、ゆっくり立ち上がった。
「なら行きます、今度は抜きませんよ、覚悟しとってください」
 半睨みで呟いた吟は、ユキの返事を待たず、ダッシュして来た。その速度はさっきより早い。
 またホールドを決められるとヤバイ、今度は吟も油断しないだろう。ユキは走り込んでくる吟の手先を見ながら背後へ下がった。
 だが下がろうが逃げようが吟は追ってくる、意外にしつこい。だいいち逃げの戦法では勝てない。ユキは自身の中で気合を入れなおし、逃げようとする体にストップをかけた。
 女性化してから、まともに誰かとやり合ったことはない。毎日鍛えてはいたが、実戦でモノになるのかは、わからない。イメージとしては出来ると思うし、筋力も少し劣ったとはいえ、それなりにつけた。しかしそんなモノ、所詮付け焼刃、変わってしまった身体が、本当にイメージどおり、昔のように動くのかは、疑問だ。
 できるか出来ないか、こうなったら試してみるしかない。もし出来なければ、飛田との約束を破ることになり、高山を助けることも出来なくなる。それならそれで、なにか策を考えなくてはならなくなるし、なにより、自分が我慢出来ない。
 やれないでは済まされない。
 足を止めたユキは、自分の中で呼吸を整え、今出せる全力でやると決めた。

「え……?」

 ユキの細いシルエットが、ゆらりと揺れ、あたりに霞がかかったように滲む。一瞬の内にその姿を見失った吟が驚いてあたりを見回す。
 どこへ消えた?
 吟が動転した次の瞬間、その真横、すぐ近くに、ユキはふいに姿を見せた。そして渾身の右ストレートが繰り出される。
 ユキの拳は真っ直ぐに吟の頬に入り、意表を突かれ、バランスを崩した吟はそのまま倒れかける。だがユキは倒れかけていた吟の襟を掴んで引き起こし、さらに拳を入れた。今度は少し捻りを入れたので、それだけ拳も重くなり、その衝撃は吟の脳天まで届くはずだ。そして後頭部を揺るがし、平衡感覚を奪う。本来ならそこでもう立てない。しかしユキは手を緩めなかった。ここで決着を付けなければ自分がもたない。それがわかるだけに、手は抜けなかった。
 自分を殴り続けるユキを、吟はぼんやりと見ている。彼がなにを考えているのか、一瞬気が削がれ、その途端、身体が重くなった。
 もう、腕が上がらない。
 これ以上は無理だ。
 そう感じたユキは、自分でも少し早いなと思いながら、止めの頭突きを入れた。
 そのまま倒れろ……その願いのまま、吟は床に沈む。だが、まだ意識は落としていない。動きはしないが、まだ完全には沈んでない。
 やはり、このままの自分ではダメなのだ……それを察しながら、ユキはあえてその結論を先延ばしにした。

「どうや、まだやるか?」

「……すみません、俺の負けです」

 納得などしないだろうなと思いつつ聞いた問いに、吟は力なくそう呟いた。俯く吟の様子を見つめ、ユキも小さく息を吐く。
 実質的には自分の負けだ。しかし勝敗はどちらかが負けを認めたときと決めた。考えていた展開とはだいぶ違ってしまったが、とにかくこちらの勝ちだ。
 内心で安堵と傷心の溜息をつきながら、ユキは項垂れたままの吟の隣に胡坐座で座り込んだ。
「ならこれで仕舞いやな、やれやれや……お前もそこ、座れ」
「はい……」
 吟は言われるまま、おずおずと座り込む。ユキはズボンのポケットから煙草を取り出し、口に咥えた。だが相変わらず火がない。
 近くには吟しかいないので、しかたなく、吟へ火をよこせと目配せをした。だが煙草を吸わない吟は、ライターなど持っていない。どうしたらいいのかわからずにうろたえる。ユキは、その生真面目さに苦笑しながら、道場の端にある棚を指して、そこにあると教えた。彼は慌てて取りに走り、駆け戻って火を点す。その火を受け、深呼吸するように煙を吸い込んでは、吐き出した。
 そして黙ったまま、静かに煙草を吹かし、一本目の煙草が燃え尽きる頃、ようやくゆっくり口を開く。

「しばらくオッサンとこに行ってくるわ」
「本気ですか……?」
「ああ」
 いつもなら冗談ではないと断っているところだ。それがどうしたことだと吟も驚く。まあ当然の反応だなと納得しながら、今回は特別だと答えた。
「向こうも本気で困っとるらしい、しゃーないやろ、少しかかるで、その間、お前は休んどけ」
「や、それは……けど、危なくないんですか」
「そんなたいした仕事やない、二、三日で片付く」
 これは嘘ではない、本当に大した仕事ではないだろう。
 だが問題は、その大したことのない仕事すら、今の自分では手に余るかもしれないということだ。そこはなんとかしなければならないが、それを言うわけにはいかない。
 言えば反対されるだろうし、それでもやると通せば、吟はまた身体を張ってでも止めようとするだろう。それは困る。
「軽い仕事やで、遊びみたいなもんや」
 わざと気軽そうに話すその言葉を、信じたのか信じようとしてくれたのか、吟はそれ以上反対しなかった。
「わかりました、けど今は女性なんですから、くれぐれも、気をつけてくださいよ」
「ああ」
本当は止めるべきだと思っているのだろうに、自分の思いを酌み、納得したふりをしてくれる。吟の情けを小癪な奴と感謝しながら、ユキも静かに頷いた。とにかく今は、いかにしてこれを切り抜けて戻るか……それだけを考えなければならない。


 **


「は、まいったな……」
 自室に戻ると全身の力が抜け、呆然と座り込んだ。
 結局、最後まで吟は、本気で打ち込んでは来なかった。自分は手加減され、勝ちを譲られたのだ。完全に自分の考えが甘かった。どんなに努力しても付け焼刃、このボディでは以前と同じには動けない。スピードは追いついても力自体が決定的に弱い。そこらのモヤシ野郎になら勝てても、それなりの力を持つ者には敵わない。
 癪だが認めるしかない。今の自分では何かあったとき、防ぎきれない。少しでも追いつくためには、鍛錬するしかないが、それもどこまで通用するか……。

 せめてもう少し上背と体重があれば、なんとかやりようもあるのにと、ユキは改めて鏡を見た。小さく細い華奢な身体をした、生意気そうな娘が映っている。そのアンバランスな姿を眺めてると幼い頃を思い出す。
 母の愛人に殺されかけ、家出を決意した小学生の頃、今と同じように母の鏡台に映る自分を見た。みすぼらしく小さな子どもが、目だけをギラギラと光らせて立っていた。あの時の失望は忘れない。
 なんで自分はもう少し大きく生まれなかったんだと泣きたくなった。
 何をしてもなにを話しても、お笑いにしかならないくらい小さな自分に、一人で生きていく力があるのかと、怒鳴りたくなった。
 気分はそのころと同じだ。違うのは、あのときの自分には、そこから育ち、大きくなれる可能性があったということだ。
 今の自分にそれはない。できるのは、鍛錬して体力と筋力を上げることくらいだ。
「クソッ……」
 忌々しく舌打ちをし、鏡を睨んだ。だがそれで事態が変わるわけではない。飛田にもやると返事をしてしまっている。いまさら無理でしたとは言えないし、言いたくもない。とにかく少しでも有利になるよう、自分を鍛え上げなければ……。

 翌朝ユキは吟に暇を出し、店は休みにして自室に篭った。もちろん身体は鍛えるつもりだが、それはすぐに成果がでるような物ではないし、今回の仕事には間に合わない。なにか仕込みが必要だ。自分はもう極道でも喧嘩屋でもないので、こんな話はそうそうないとは思うが、またなにかあったとき、後悔したくない。とにかく、なるべく無傷で勝ちを得る。そのために出来ることはなんでもしておく。
 殴り合いになった場合を考えると、落ちた力を補うためのなにかが必要だ。メリケン代わりに、ごつい指輪で間に合わそうかなと考えたが、手持ちのものはどれもシンプルに出来ていて役にはたたない。元々、アクセサリーをゴチャゴチャつけるタイプではなかったので、それは仕方がない。それに、考えてみたらサイズが合わない。
 ユキは仕方なく、別の仕掛けを考えた。

 そこであらためて鏡を見つめ、自分の容姿を観察する。
 自分的にはあまり好みのタイプではないが、一般的に考えてみれば、見栄えは悪くはない。というか、おそらくいいほうに入るのだろう。なにしろ、若い頃の母親にそっくりだ。

 母親は、子どもの自分が言うのもなんだが、とても美しい人だった。
 白い肌に整った顔立ち、憂いを帯びた瞳と、媚を含んだ赤い唇が印象的な、儚く脆く、ただ綺麗な女だ。その容姿のおかげで男の影は切れなかったが、あまり男運がなかったらしく、いつも泣いていた。
 今のユキの顔つきは、その頃の母とよく似ている。
 違うのは目だ。
 母の目は弱々しくどこか怯えを含み、見る者の加虐心をそそった。だがユキの瞳は生意気そうできつい光を放ち、母より品がなく見える。体つきも、母親には女らしく丸みがあったが、ユキにはあまりがない。というか、ちょっと細過ぎだ。お前は電柱かと言いたくなる。
 その分、言い寄ってくる馬鹿は少ないはずだが、物好きもいるかもしれない。昨晩の体たらくを考えれば、なにか対策がいる。
 腕力が当てに出来ないとなると、使えるのは極道時代に使っていた武器《えもの》、「針」しかないが、そうなるといつもどこかに針を持っていなければならない。昔対戦したことのあるやつの中には、服の襟元につける飾りピンを武器の代用にしたモノもいたが、自分はそういうものをつけるような服装はしたことがない。となるとあとは髪飾りくらいしかない。
 ユキはなんとか不自然でなく、針をしのばせる方法はないかと思案し、それを考案するのに一日を費やした。
 そしてそのさらに翌日、飛田から連絡が入る。
 高山が拉致されたらしい。よほど不味い状態なのか、その声は上擦っていた。

「あの男を誘拐するとは、相手も難儀やったろうな」
『そんだけ切羽詰ってるってこった、状況は最悪だぞ』
「ほかになにかあったんか?」
『ああ、どうやら連中に紐がつきそうなんだ』
「なに?」
 元々フラッパーの密造は、チンピラの小遣い稼ぎとして始められた。だがチンピラが属する暴力団がその計画を知り、それをそのまま組の利益にしようと考えたらしい。そうなると、慌てたのはチンピラのほうだ。
 自分らだけでやるつもりだったのに、上に知られた。これからは上前を撥ねられる。そうなると、もう少し大掛かりにやらなければ甘い汁も吸えなくなる。
 だが手を広げるには不都合が一つあった。密造現場を高山に見られていることだ。
 これが知れ渡れば仕事が出来なくなる。それどころか、下手すると、自分らの落ち度として、上に睨まれる。最悪の場合、責任を取って殺されるかもしれない。
 それは困る。
 だからそうなる前に、目撃者の高山を殺しておこうという腹だろう。すぐに殺さなかったのは、高山がその話を誰にも漏らしていないか調べる為だ。
 連中は高山を拷問にかけ、他に秘密を知る者がいないか聞く気なのだ。そしてその後は遠慮なく殺す。たしかに時間はあまりなさそうだ。

「美幸が攫われてからどのくらい経った?」
『そろそろ二時間だ』
「アジトは? 聞いとるんやろうな?」
『いや、野郎、お前には関係ないとか言いやがって口を割らねえんだ』
「アホか! そこを言わすんがプロやろ!」
『しょうがねえだろ! あいつが黙ったら、レンジでも抉じ開けらんねえよ』
「ふん」
 高山の頑固さも無口さも筋金入りだ、加えてなぜか飛田は高山に甘い。いや、甘いというより、どこか遠慮している感じがある。かまうなと言われれば、なにも出来ないのだろう。ユキも、しかたないなと息をついた。
 とにかく、電話口で話していても埒が開かない。すぐに向かうから、それまでそっちもなにか考えておけと告げ、家を出る。


 ***


「おう、待たしたな、なにかわかったか?」

 部屋へ駆け込むなり訊ねると、飛田は神妙な顔でああと頷いた。高山の携帯のGPSから大まかな位置が知れたと言う。場所は八王子近くの小高い山だ。おそらくこのあたりだと示された地図には建物らしきものはなく、かなり寂れた場所のようだ。
 いつもなら神様のように、目的の場所を探し当てる高山はいない。そいつを探さなければならないのだから当たり前だ。自分らだけで、場所の特定は難しい。できなくはないが、時間がかかりすぎる。
 早くしなければそれだけ高山生存の確率が下がる。行くしかない。
 ユキと飛田は、考えられるだけの装備を持ち、GPSの示す山奥へと向かった。

 現場へつくと、地図上では何もないとされていた場所に、廃墟になったペンション跡があった。ペンションといっても結構大きい、コンクリート製で三階建てだ。
 ユキは建物の前に立ち、その構造を想像した。
 この規模ならおそらく地下がある、密造場所はそこだろう。だがそこに高山がいるとは限らない。すぐに殺すとはいえ、物と同じ場所に他人を置くのはリスクが高い。別の階にいると考えるべきだ。
 そこでユキは、飛田に地下へ行けと指示した。
「密造場所はおそらくそこや、お前はそいつを始末しろ、美幸は俺が何とかする」
「一人で行く気か? 向こうが何人なのかわかんねえんだぞ、無茶だ」
「二人しかおらんのや、手分けるんが早い、心配せんでも上手くやる、お前は物を始末して、退路確保に努めろ」
「しかし……」
 中身はともかく、今は女性だ、それもやたら細身で華奢に見える。ここまで来たはいいが、飛田も安心出来ないらしい。
 ユキ自身も、大船に乗ったつもりでいろとは言い難い。だが自信のない素振りを見せれば、この男は指示通り動かないだろう。それでは困る。
 実際、自分ひとりで手一杯なのだ、そこに今回は、高山を連れて逃げなければならない。そこに、飛田まで加わっては庇いきれない。飛田が足を引っ張るとは限らないが、リスクは避けたい。ついて来られることにより、動き難くなる可能性のほうが高いと思えば、別れたほうが無難だ。
「目的を履き違えんな、ええか? 高山の救出とフラッパーの始末が最優先や、それだけを考えろ」
「そいつはわかってる、だがお前だって……」
 自分のことはかまうなと睨むユキを、飛田は不安な思いで見つめた。高山が心配で、ここまで来てしまったが、冷静に考えれば、この状況はかなり危険だ。いかに中身が男だとはいえ、肉体は華奢な女性、そんな身体で普段の力が出せるのか、そこはかなり疑問だろう。それに、女性には男と違うリスクが伴う。

 相手は餓えた男たちだ。そこへこんな美人が飛び込んでくれば、どうなるか、狼の群れにウサギを放り込むようなものだ。おそらく、ただ捕らえるだけでは治まらなくなる。
 捕まれば確実にやられる、犯すだけ犯し、弄るだけ弄って最後は殺す。中にいるのは、そういうことが平気で出来る連中だ、一人では行かせられない。
「ダメだ、お前一人では行かせられん、まず先に高山を助ける、そのあとフラッパーの始末、それでいいだろ」
「アホか! そんなんしてたら、なるモンもならんくなるわ! ごちゃごちゃ言わんでさっさと行け、早よせんと全部無駄足になるで!」
 怒鳴り返しても、飛田は納得出来ないらしい、ダメだと言い張る。ユキも頭を抱えた。
 だが本当に、一緒にいられては困るのだ。ユキは仕方なく、小さく息を吐き、神妙な顔を作った。
「大丈夫や、無茶はせん、アカンかったらお前に知らせる、とにかく今は、俺のやりたいようにやらせてくれ」
 これくらいのミッションがこなせないようでは、この先のあり様も考えなければならなくなる。これは高山の為だけでなく、自分の為でもあるのだ。
 自分で自分を信じられなければお終いだ。この身体が元に戻らないとしても、それでも歩いていく為に、一人で行かせてくれと頭を下げた。

「……わかったよ」
 ユキの思いを察したのか、飛田もそこでようやく頷いた。まだ少し迷いのある顔で、気をつけろよと呟く。
「ああ、そっちもな、地下にも見張りくらいおるやろ、気つけや」
「ああ」
「退路確保やで、それが一番肝心なんや、頼りにしとるからな」
「わかったよ、じゃあお前も、高山を頼む」
「おう、任しとき」
 軽く瞳を見交わし、二人は別方向へと走り出した。

 あまり時間がないので、出来ればここにいて欲しいと願いながら、ユキは一階部分を探索した。その祈りが通じたかのごとく、そのフロアの中ほどの部屋から数人の声と物音がする。
 そっと扉を開けて中を覗くと、思った通り、高山がいる。両手を後ろ手に縛られたまま、折りたたみ式のパイプ椅子に座らされている。パイプ椅子の背もたれの後ろ側に両手を回す形になっているので、容易には抜け出せないだろう。
 高山は、数時間にわたり甚振られたらしく、あちこち血だらけで、ぐったりしている。力なく俯いたままの顔は腫れ上がり、着ている服も血塗れだ。まさか死んではいないだろうと思うが、意識があるのかないのか、近づいて見なければわからない。
「まいったな」
 今、自分の身長が160、体重は量っていないのでわからないが、五十もないだろう。対して高山の身長はおよそ180、体重は七十前後。これでもし、高山が自力で動けないとなると、困ったことになる。
 この体格差ではさすがに担いで逃げるというわけにはいかない。となれば、そこにいる全員をブチのめし、飛田の到着を待つしかない。だがそこにいた男の人数は、ユキの予想を遥かに超えていた。
 たかがチンピラのドラッグ密造、あまり大勢では分け前が減る。だから多くても五人とふんでいた。しかしそこにはざっと数えて十二人いる。これは簡単にブチのめせる人数ではない。闇夜に乗じるならともかく、こんな真っ昼間、正面突破となれば男だったときだって苦戦する。どうするかと暫し考えた。
 だが事態は待つ事を許さないようだ。連中は高山に見切りをつけ、殺すことにしたらしい。どうせなら作り上げたフラッパーの出来を見る意味でも、薬で死んでもらおうと言い出した。
 おそらく、時間を置いて何度も投与し、どの辺りがボーダーラインか試す気なのだ。それは不味い。
「しゃあないな……」
 連中の一人が、注射器片手に高山に近づいていくのを見つめ、ユキは決意した。
 行くしかない。

「待たんか!」