蒼衣の言葉に、信子は今まで見えていなかったものが見えたような気がした。
 友だちになって初めての夏休み、毎日のようにみなみを連れまわしたことを思い出した――しかも、自分の行きたい場所ばかりに。なにかしらのアクシデント(たとえば、行きたかったお店がやっていなかったり、いやなことが起きたとき)で予定が思い通りに行かず、不機嫌になると、それを素直にぶつけていた。
 気の合う友だちなら、少しのわがままは聞いてくれるだろうという甘えがあったのだ。
 すると、みなみは一生懸命慰めてくれたり、気分を変えようとしてくれていた。それがうれしくて、止めようとも思わなかった。むしろ、友だちなのだから当然とまで思っていた。
 でもきっとそれは、みなみにとってとても疲れることだったのだ。もう、一緒にいたくないと思うくらいに。小さなわがままだって積み重なれば、それは傲慢でしかない。
「説教みたいになってごめんね。でも、もし僕と似たような悩みだったら、もしかしたらヒントになるかもしれないって思えて。鈴木さん、とてもつらそうだったから」
 申し訳なさそうに蒼衣は言う。しかし今の信子には、素直に受け入れられる言葉ばかりだった。
 信子は落ち着いた面持ちで蒼衣を見て、首を横に振った。
「いえ、いいんです。私、友だちを不機嫌でコントロールしてたかもしれません。友だちの優しさに、甘えてたんです」
「友だちの優しさって、まるで甘いものみたいに、つぎつぎ欲しくなるよね。そして足りないと、心が飢えるみたいに苦しい。……僕はね、自分が魔物になったみたいだった。嫉妬と不機嫌っていう魔物にね。今でもね、たまに顔を出すんだよ」
 そう語る蒼衣は、先ほどまでの「柔和で優しいお兄さん」の顔ではなかった。少しだけ眉をひそめて、辛そうにしているその顔は、きれいなだけに、どこか危なげで壊れそうな感じがした。
 自分の中にも、嫉妬という名前の魔物がいる。今までみなみにぶつけていた怒りは、全てその魔物の形をしていた。みなみは、その魔物に襲われた被害者のようなものだ。
(なんていやな奴なんだろう。私の嫉妬……ううん、私自身が)
 魔物を飼っている自分が、この上なく醜く思えた。
「消し去ることは、やっぱりできないんですか。その……魔法、みたいに」
 信子は魔法菓子を見た。あんなにすごいことが起きるのなら、人の気持ちも変えられるかもしれないと。
 しかし蒼衣は悲しそうな顔をした。
「魔法菓子の魔力はね、ひとの心を根本的に変えることはできないんだ。よしんばできたとしても、それは永遠じゃない」 蒼衣の声は硬い。しかしすぐに信子を見ると、思い出したかのようにほほえみを浮かべた。
「でも……面白い、楽しいっていうプラスの感情は、魔法よりもはるかに強い力で、ひとの心を動かすことはできるんだ。それこそ、魔法菓子を食べたさっきの鈴木さんみたいにね。それがしたくて、僕はこの職業を選んだんだ」
「あ……」
 魔法菓子を食べたときを思い出す。美しさに心が躍った、不思議な体験に驚き、感動した。それは、怒りと嫉妬にまみれた気分をも上回る、素敵な時間だった。
「ああ、お茶がなくなったね。僕はこれで仕事に戻るけど、鈴木さんはまだ食べる?」
 コック帽をかぶった蒼衣は尋ねた。
「え、ええと……」
 目の前の魔法菓子は、冷静に考えれば信子一人で食べるには多すぎる。お菓子たちがまるで自分を慰めようと必死になっているようだ。甘くておいしいものを必要以上に欲しがっていたことに気づいて、心が痛んだ。
 信子は一瞬悩んだが、蒼衣の前では嘘をつきたくなかった。
「ごめんなさい、全部食べることはできなさそうです。でも、注文した分すべてのお金は払います。本当にごめんなさい。足りなかったら、家から持ってきます、必ず」
 ここまでしてもらって、食べた分だけ支払って帰るのはあまりに行儀が悪い。信子は財布を出し、入っているお金というお金を確認しはじめた。
 しかし、それを止める手があった。細いのに大きく、ところどころにあかぎれのある職人の手――蒼衣だった。
「本来なら、食べ物なので返品は不可なんだけど、今日は食べた分だけでいいよ。でも、鈴木さん個人へのサービスだから、ほかのお客様には、内緒にしてね」
 蒼衣は人差し指を口元にあてて「内緒」のジェスチャーをした。優しいお兄さん、のお手本のような姿があまりにもスマートで格好がよく、信子の頬が赤くなる。
(うわっ、きれいなのに、カッコイイとか、反則だよ)
「えっ、えっ、でも」
「鈴木さんはとても真面目な人なんだね。そうだなあ、申し訳なく思ってくれるなら、今度はここに、友だちをたくさん連れてきてほしいな。写真、SNSに上げてもらって大丈夫だし」
 蒼衣はそう言いながら席を立った。なんとなく「SNS」という言いかたがぎこちなく感じる。
 そういえば、一番初めに声をかけられたのも、SNSのことについてのことだったと思い出した信子は、ぷっと吹き出す。
 信子は残ったお茶を飲み干して、席を立った。
「蒼衣さん、このお店ってSNSやってないんですか?」
 蒼衣はカウンターの中にいて、信子を待っていた。レジに表示された良心的な値段に内心ほっとしながら、お金を出した。
「あ、その辺は全部オーナーに任せてあるんだ。僕、実は機械音痴でネットとかよくわかんないんだよね。SNS? ってのも最近覚えた呪文みたいな感じだし。なんか店の中で写真撮ってる人がいたらそう言っとけって、オーナーが。あははは、鈴木さんくらい若い人から見たら、おかしいよねえ」
「えっ、蒼衣さんだって、若いじゃないですか」
「僕ね、今、三十歳なんだよ。なんでネット使えないの? ってよく不思議がられるんだ」
「さん、じゅう……!?」
 蒼衣の年齢を知った信子は絶句した。周りに花でも飛ばすかのように笑う姿は、とても三十代《アラサー》とは思えない。
(うそでしょ!?)
 ショックで固まっていた信子だったが、レシートとおつりを渡され、はっと我に帰った。
「じゃ、じゃあ……私、たくさん写真をSNSに上げます。そして、今度来るときには、友だちと一緒に……できれば」
 できれば、の言葉は少し自信がなかったが、それでも蒼衣はうなずいてくれた。
「お待ちしていますよ。そうそう、よかったら試作品のカップケーキをもらってくれないかな。ハロウィン用に売り出す予定の『変装カップケーキ』。食べると、ゾンビや吸血鬼とかのハロウィンメークが顔に施されるんだ。ハロウィンパレードやパーティの需要を見込んでるんだけど、お客さん受けがどうなのか、知りたいんだって」
 レシートと一緒に手渡されたのは、小さな紙袋だった。ケーキの返品のことや、話まで聞いてもらったことを思い出し、一回は辞退した。しかし、蒼衣の「オーナーから試食はどんどん渡しとけ、って言われてるんだ。だから、気にしないで」という言葉に抵抗できず、信子は紙袋をおずおずと受け取った。
「お嬢さん、お帰りはこちらです」
 芝居がかった様子の蒼衣に出口まで見送られた信子は、深々と頭を下げた。
「蒼衣さん、ありがとうございます。ごちそうさまでした」
「こちらこそ、ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
 きれいな動作でお辞儀をした蒼衣は、微笑を浮かべていた。


 帰り道、信子は食べた魔法菓子のことを思い出しては、幸せなため息をついていた。しばらくして立ち止まった信子は、スマホを取り出す。メッセージアプリを起動させて、メッセージを打ち込み始め……途中でやめた。
(明日、顔を合わせたら直接声をかけてみよう。……謝りたい)
 どんな結果になっても、それを受け止める覚悟はできていた。もし、関係が元に戻らなくても、それでいいとも思っていた。誰のせいにもしないとも決めた。
 せめて、今度の友だちには、同じ間違いを犯さないように。今はそれでいいと思えた。
(私の中には魔物がいる。だから、魔物を飼いならそう。プラスの魔法で心を動かして)
 不安はあった。簡単に気持ちが変わるなんてことはないのも知っている。だけど、あの優しいパティシエのように、常に自分の心をわかっていれば、少しは辛さも和らぐかもしれない。
 手に握った紙袋が、今の信子にはとても頼もしく思えた。