長州藩《ちょうしゅうはん》と薩摩藩《さつまはん》を筆頭とした倒幕軍と、幕臣《ばくしん》及び徳川に味方する諸大名による幕府軍との戦い――、いわゆる戊辰戦争《ぼしんせんそう》は明治二年五月十八日、幕府軍の降伏により、蝦夷《えぞ》・箱館《はこだて》の地で終止符を打った。
 だが幕府軍にすれば敗北の痛みよりも、朝敵《ちょうてき》・逆賊の烙印《らくいん》を押された事の方が衝撃は大きいであろう。
 徳川の為に戦う事が何故、朝敵と誹られねばならないのか。
 戦ってきた相手は帝でも朝廷でもなく、徳川を倒さんと動いた長州をはじめとする倒幕派である。
 倒幕派は徳川打倒の大義名分を得るべく、朝廷を味方に付けた。錦の御旗《みはた》を翻し、晴れて官軍となったのである。
 戦いは鳥羽・伏見を皮切りに、甲府、宇都宮、会津へと続き、奥羽列藩同盟《おううれっぱんどうめい》の団結は空しく敗れ去り、戊辰戦争最後の戦いとなったのが蝦夷・箱館であった。
 しかしその箱館の地から、必死の思いで武州多摩の地を目指した少年がいた。
 その少年の名は、市村鉄之助という。
 新選組最年少の隊士で十六歳、隊士としては約二年だったが、副長・土方歳三の最も近くにいた少年である。
 横浜へ向かうという異国船に乗せてもらい、離れていく蝦夷を見つめる鉄之助の心は張り裂けんばかりの想いであった。
 最期まで共に戦う意思を残しながら、鉄之助は滲む涙を何度も袖で拭った。
 泣いてはいけない、泣いてたまるかと歯を食いしばり、鉄之助は海の上で誓った。
 託された想いは、必ず届けると。
 それから三ヶ月後――、新政府軍による旧幕府軍残党追討の目を掻い潜り、鉄之助は武州多摩《ぶしゅうたま》・日野の佐藤彦五郎邸《さとうひこごろうてい》に辿り着いた。

◆◆◆
 
 嘗て、甲州街道五番目の宿場と言われていた武州多摩・日野宿。
 邸の庭先で、市村鉄之助は鉛色に染まる空を見上げた。
 夏まで結っていた髷《まげ》を切り落とし、彼が新選組隊士だった事を知る者は、この邸の人間だけである。
 噂では、新政府軍が旧幕府軍の残党を現在《いま》も捜し歩いているという。
 彼がいるのは武州多摩・日野本陣、佐藤彦五郎邸。