精神的にも身体的にも疲れ果てていた。重い体を引きずり階段を上る。
 二階の共用廊下を静かに歩きながら、バッグを開け鍵を探す。
 やっと休めると、ホッとして気が緩んでいたのだろう。
 突然隣のドアが開いたことに驚愕し、手にしていた鍵を落としてしまった。

 開いたドアの影から三神さんが現れる。こんな時間に遭遇するとは思ってもいなかったから、咄嗟に言葉が出てこない。

「倉橋さん?」

 三神さんも驚き、私を見つめている。

「……こんばんは、こんな時間に会うとは思わなかったから驚いちゃいました」

 言いながら、腰を落として鍵を拾う。

「……倉橋さんは、飲みに行ってたのかな? 階段を上って来る音も聞こえなかったから驚いたよ」
「今日は送別会で……遅いから音が響かない様に上って来たんです」

 再び顔を上げた私は、三神さんのいつもとは違う雰囲気に眉をひそめた。
彼に強い違和感を持った。なぜ?

 冷静に観察すると直ぐに、違和感の原因に気が付いた。
 それは三神さんの服装だった。
 
 思えば私は彼の会社帰りにしか顔を合わせたことがない。その時の彼はライトグレーやベージュの柔らかな雰囲気のスーツを身に付けていた。
 だから私服もシンプルで落ち着いた雰囲気の、誰からも好感を持たれる様な服を好むのだろうと思っていた。
 
それなのに……今、三神さんは、夜の闇に紛れる様な黒一色の服を身に着けていた。
 実際には、全部が黒と言う訳では無いかもしれない。けれど暗い夜中のアパートの廊下では、微妙な色の判別は出来ない。私の目には、どこか鋭さを持った真の黒に映った。

「だから足音が聞こえなかったのか、倉橋さんは気遣いの人なんだね」

 考え込んでいた私は、上から降って来た声に顔を上げた。
 三神さんはいつもの感じの良い笑顔だったけれど、なぜかその笑顔すら別人の様に見えた。

「倉橋さんがそんなに周囲に気を配っているとは、思わなかったな」
「……私、何かご迷惑かけてましたか?」

 三神さんの言葉に含みが有る様な気がして、私は眉をひそめた。
 身に覚えは無いけれど、気付かない内に何かしていて、不快感を与えていたのだろうか。
 だから気が利かない人間だと思われてる? 分からないけれど、今日の三神さんは本当に違和感が有る。

怖い程の静寂に恐怖を覚える。緊張しながら立ち尽くしていると、三神さんはようやく返事をした。