……ん? 眩しいな。
 ブラインドの隙間から差し込む朝日の眩しさで、俺は薄く瞼を開いた。
 ……え、ブラインド?
 目を開き、飛び込んだブラインドに首を捻る。俺の自宅マンションの寝室はカーテンだ。もっというと、俺の寝床は間違ったって、こんなに柔らかなベッドではなく、年季の入ったせんべい布団だ。
 寝起きの混乱はしかし、何度か瞬きを繰り返している内に落ち着いてくる。意識がはっきりしてくれば、昨日のツネ子とのやり取りから、寝落ちまで、全てが思い出された。
 ……そうだよ、俺、医務室で寝ちゃったんだよ!
 おもむろに、壁掛けのデジタル時計に視線を巡らせた。目にした瞬間、こめかみにタラリと汗が伝う。
 ギュッと瞼を瞑り、もう一度開く。やはり時刻は【AM8:20】を示していた。
 っ! 始業開始まで、後十分。俺は取るものも取りあえず医務室を飛び出して、オフィスフロアにダッシュした。
 しかし、辿り着いたオフィスで、俺の駆け込み出勤に目くじらを立てる本部長はいなかった――。

 俺は人だかりの一番後ろで社内掲示を見上げ、愕然と立ち竦んだ。
 社内掲示には、昨夜、監査が入ったこと。それにより、幹部の幾人かに重大な法律違反が発覚したこと等々が記されていた。
 本部長以下、数人の名前の続きには、『懲戒解雇』の文字が続いていた。
 さらに目線を落としていけば、新社長の欄に、先の人事で部長職に昇格したばかりの有森さんの名前があった。
 ……有森さんが、新社長に――!
 有森さんは、現場経験も営業経験もあるが、元々は俺と同じシステム部門の出身だ。そうして新入社員だった俺の教育担当でもあった。
 有森さんは当時から、会社のありように疑問を抱いており、俺にもよく持論を語ってきかせていた。最近でも、顔を会わせれば、会社の現状について互いに意見を述べあっていたのだ。
 先の『三百六十度評価』や『能力成果主義への移行』は、俺と有森さんとの共通認識と言ってよかった。ちなみに、有森さんとの会話は「いつか俺が社長、お前が副社長になって、一緒に会社を変えてやろう」と、決まってこんな冗談めかした台詞で締めくくられていた。
 有森さんが新社長になれば、もう大丈夫だ――!
 ……あれ?
 興奮冷めやらぬ中で、ふいに、思い至った。ところで、この展開は全てツネ子の仕業なんだよな……?
「あら?」
 その時、社内掲示のほど近くに立っていた同僚女性が床に屈み込んだと思ったら、手になにかを摘まみ上げて呟いた。
「これって、葛の葉かしら?」 
 あれは――!
「それ、僕のです!」
 気付いた時には、思わず声をあげていた。
「加藤君のだったのね。葛の葉なんて珍しいわね、はい、どうぞ」
「ありがとうございます。……あの、葛って、葛菓子とか葛餅のあの葛のことですか?」
「やだ、知らないで持っていたの? そうよ、葛の根から取ったでんぷんが葛菓子や葛餅になるのよ」
「そうだったんですね……」
 ツネ子の葉っぱを受け取りながら、俺の胸には、驚きや安堵、ツネ子に対する憧憬や畏怖まで、ありとあらゆる感情が忙しなく巡っていた。
 そのうちのひとつは、「もしかしてツネ子は、葛が好きなんだろうか?」だった。


 あれからひとつ、年が巡った。
 有森新社長の指揮の下、会社の評価体系は変わり、古い体質も刷新がされた。ちなみに例のプロジェクトは失脚した本部長に代わり、俺がチームリーダーとなって、仕切り直した。俺は参加するエンジニアの人数、能力、プロジェクトに要する項数を再計算し、スケジュールを組みなおした。始動こそ六カ月後ろ倒しとなったが、綿密に計算されたスケジュールが功を奏し、プロジェクトは順調な滑り出しを切った。
 俺は午前中、有森社長から呼び出され、このプロジェクト成功が役員会で高く評価されていること、俺の幹部昇進が内定したことを告げられた。一年前の俺だったら、しっぽを振って飛びついたに違いないが……。
「俺はもう、この場所に未練はない――」
 同じ屋上から、一年前と同じ空をあおぎながら呟く。よく晴れた眩しいくらいの空は、あの日とよく似ていた。だけど空を見上げる俺の心が、あの日とはまるで違う。
 一年前からは想像もつかない穏やかな心で、俺は今日の午前中の談話室での一幕に思いを馳せた――。

***

 直属の上司である部長からの呼び出しを受け、俺は談話室に向かっていた。わざわざ別室を指定しての面談に、これから告げられる内容におおよその予想はついた。
 ――コンコン。
 談話室の前に着くと、扉をノックする。
「入ってくれ」
「失礼します」
 引き開けた扉の向こうには、部長の他に、有森社長がいた。
「次の人事で、お前を役員待遇部長職に抜擢したい。お前の功績から見れば、順当な評価だ」
 開口一番、有森社長から告げられたのは、予想通りの言葉だった。
「そのように評価していただけたこと、本当に光栄です。ですが、その話はお受けできません」
 答えながら、俺は背広の内ポケットから白い封筒を取り出した。
「おい温人!? 一体どういうつもりだ」
 封筒を差し出すよりも前に、有森社長が声をあげた。
「有森さん、いえ、有森社長。ずいぶん世話になったのに、相談もなしに、すみません。だけど僕、この会社での自分の役目はもう、終わったように思うんです。なにより僕自身、会社のために、これ以上は走れる気がしません。有森さんが社長になってから、業績は順調に回復しています。社員の士気も高くて、業務効率もいい。引き継いだプロジェクトが軌道にのった時が辞め時だと、ずっと思っていました」
 俺の答えに有森さんは目を見開いて、少し乱暴にボリボリと頭を掻きながら答えた。
「……まったく、辞める方向に転んじまったか。将来はお前を俺の右腕にと、本気で目論んでいたんだがな」
「え?」
「俺が口癖のように言っていた『いつか俺が社長、お前が副社長になって、一緒に会社を変えてやろう』というのは、冗談だと思っていたか? 俺はいつだって、本気だったさ」
 有森社長から真っ直ぐに告げられたのは、苦しいくらいに嬉しい台詞だった。
「いいえ。本音を言えば、僕もこれまでは、いつか幹部になって会社を背負って立とうという思いで働いていました。……だけど、本部長の炎上プロジェクトで心身をすり減らして、考え方が変わりました。どんなに力を尽くしても、社員のままでは所詮使われる立場から脱却できない。今は、自分のなにかを持ちたいと、そう思うようになりました。もしかしたら、甘えだと呆れられてしまうかもしれません。だけど僕は、会社という組織からの卒業を決めました」
 俺は心の内を包み隠さずに伝えた。それが、誠実に向き合ってくれる有森社長に対する、最低限の誠意だと思った。
「お前らしいな。なにを起業するんだ?」
 俺の言葉に有森社長はフッと口もとを緩ませた。
「構想はいくつか持っていますが……どれにするかは、これからゆっくり考えます。これまで駆け足で走り抜けてきて、意識していなくても、きっと今も息があがっているはずなんです。こういう状況で大きな決断は、するべきじゃありません」
「ははっ! 冷静沈着なお前らしいあっ晴れな回答だ。経営者としては、ますますお前を手放すのが惜しいが、俺個人としてはお前の門出を応援したい。……うーん、よしわかった! その辞表を受け取ろう、頑張れよ温人!」
 青くなる部長をよそに、有森さんは豪快に笑って、俺の手から奪うように辞表を取り上げた。

***

 ――意識が今へと舞い戻る。
 その時、見上げた空の遠くに、ふいにツネ子のしっぽによく似たモフモフとした雲を見つけ、切なく両目を細くした。「望みが叶った時に、また」と、ツネ子は言った。
 会社は評価体系はもとより、経営の根幹から大きく変わった。俺の望みは叶ったと言っていい。
 ……なのにどうして、ツネ子はいまだ俺の前に姿を現さない?
「なぁツネ子、俺の望みは叶ったぞ?」
 俺が小さく呟いた次の瞬間――。
 っ!? 遠くの空に見つけたモフモフとした雲が、突如、弾丸のごとき勢いで俺に向かってきた。
 そうしてグワッと迫った雲は、俺の鼻先で、ふわんっと人型を取った。
「よっ、久しいのぉ!」
 パチパチと瞬きを繰り返す俺の前で、一年振りに姿を現したツネ子は暢気な声をあげた。
 パタパタと揺れる耳としっぽ、つり目を細くしてキュッと口角をあげる特徴的な笑顔。
 目にした瞬間、ジンと目頭が熱くなった。
「っ! 久しいじゃないだろう!? どうして、一年も姿を見せてくれなかったんだよ!!」
 俺の剣幕に、ツネ子は驚いたようにキョトンと目を見開いて、次いでニンマリと笑みを深めた。
「なんじゃ? もしやそなた、ずっとわらわを待っておったのかえ?」
「あぁ、待っていたさ」
「……え?」
 俺の言葉がよほど予想外だったのか、ツネ子は驚いたように目を見開いた。
 キョトンとしたその様子が、物凄く可愛いと思った。
 もうずっと長いこと、俺の心にはぽっかりと穴が開いたままになっていた。その穴が、ツネ子の顔を見た瞬間に塞がって、ぽかぽかと温かに満たされていく心地がした。理屈じゃなく、心がツネ子を求めていた――。
 真っ直ぐにツネ子を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「この一年、ずっと君を待っていた。ツネ子、うちに来いよ。それでもう、黙ってどこかに行ったりするな。ずっと、俺といろよ――」
 気づいた時には、考えるよりも先、体が勝手に動いていた。広げた両手で、小さなツネ子の体を掻き抱く。彼女の温もりとやわらかな感触に、胸いっぱいに幸福感が迸る。
 ツネ子の小さな手が、おずおずと背中に回れば、その手が触れたところから、圧倒的な充足感が広がっていく。
「……おるよ。わらわはもう、どこにもいかん。ずっと、そなたとおる!」
「ツネ子――!」
 ツネ子を胸にすっぽりと抱き締めながら、もう、俺の心に空虚はなかった――。