社屋の屋上に上ったのは、別段、意図があってのことじゃない。ただ、毎日始発で家を出て、帰宅は決まって終電。
 もう何日太陽を見ていないだろうと思ったら、無性に太陽が恋しくなった。
「……あぁ。太陽って、こんなに眩しいんだっけ」
 数週間ぶりに見た太陽が、ひどく目に沁みた。
 途中参加で放り込まれた、炎上プロジェクト。俺には、最初から間に合うはずもない無理なスケジュールが切られてた。
 俺は、瞬間的に悟った。これでは、俺がどんなに力を尽くしたところで間に合わない。どうあがいても、このプロジェクトは成功しないと。
 このプロジェクトのリーダーは創業一族の名ばかり本部長、口と勢いだけの根性論者だ。そんな奴のチームに、わざわざ途中参加で俺が引き入れた理由は、容易に想像が出来た。
 俺は最初から、スケープゴートに選ばれたのだ。間に合わなかった時、プロジェクト失敗の責任は俺ひとりが負うのだろう……。
 本部長が「加藤君は、実に優秀だ! 加藤君が参加してくれたからにはもう、プロジェクトの成功は間違いなしだ!」と、社長以下、他幹部に大口を叩くたびに、噛みしめた奥歯が軋んだ。どんなに俺が優秀だろうが、切られた納期に対し、圧倒的にマンパワーが足りないのだと叫びたかった……。
 だけど、こんな不条理を押し付けられるのは俺だけじゃない。俺はこれまで、本部長によって若手エンジニアが何人も潰されてきたのを見ていた。
 見ていながら、自分だけは大丈夫だろうと、根拠なく慢心していたのだ。
 そうして放り込まれてしまった以上、俺には、万に一つの可能性に懸けて、我武者羅に取り組むしか選択肢はなかった。
「新卒から十年、真面目に尽くしてきたのに、所詮使い捨てか。創業者の一族企業なんて入るもんじゃない。……あぁ、眠いなぁ。俺、ここから落ちたら、ゆっくり眠れるのかな……」
 ふいに、こんなことを思ったのは、きっと太陽を見ていないのと同じ日数、まともに眠っていないからだ。
 ……それにしても、疲れたなぁ。
 俺はふらつく足で屋上の端まで進み、もうろうとしながら柵に上半身を預けた。
「いいや。ゆっくりは眠れんじゃろ」
 ……ん?
 あぁ、そうか。どうやら俺は、目を開いたまま眠っているらしい。
 夢の中のことと思えば、突如目の前にぷかぷかと浮かんで現れた、耳としっぽのついた少女にも驚かなかった。
 そうしてコテンと小首を傾げるつり目の少女は、ちょっと可愛いと思った。
「どうしてゆっくり眠れないんだ?」
「なんじゃ、知らんのかえ? 自殺者はあの世に行ったら、まず山登りからスタートじゃ。死出の山のロープウェイは、天寿をまっとうした者しか乗れんのじゃ。じゃから、ものすごーく険しく、ものすごーく暗い山を自力で歩いて登らねばならんのじゃ」
 ……自分の夢なのに、突っ込みどころに迷った。
「で、山登りが終われば、今度は遠泳のスタートじゃ。自殺者は船に乗れん。じゃから、ものすごーく距離があり、ものすごーく流れの速い三途の川を自力で泳いで渡らねばならんのじゃ。な? とても、うかうか眠ってなどおれんじゃろう?」
 ……またしても、突っ込みどころに迷った。
 だけど、なんだろう? 少女の声は、耳にひどく心地いい……。
「ねえ、君はだれ? その耳としっぽ、どう考えても人じゃないよね?」
「わらわかえ? わらわは、キツネのあやかしのツネ子じゃ! 白状すると、昔は稲荷神じゃったが、ちょいと禁忌を犯してしもうてな。それで降格されてしまったんじゃ。まったく世知辛い話じゃ」
「ははっ! 神様にも降格なんてあるんだ。なんだか会社みたいだ」
「会社というのはよくわからんが、ま、人の世と同じじゃよ」
 この、ツネ子という少女ともっと話がしたい。もっと、ツネ子の声を聞いていたい、そう思った。
「……もったいないなぁ」
「なにがもったいないんじゃ?」
「夢から覚めたら、君が消えちゃうことさ」
 俺の言葉に、ツネ子は目をぱちぱちと瞬かせた。
「奇異なことを言うの……ぉお! もしやそなた、わらわのことを夢まぼろしとでも思うておるな!?」
「あたりまえだ。君みたいな耳としっぽを生やした子なんて、いやしないよ。夢か、あるいは、俺が心をおかしくしてしまったかのどっちかだろう」
「……そなた、なにやら可哀想じゃのう」
 ツネ子は、まるで哀れな子でも見るような目で俺を見た。
「なんだよ、俺に同情してくれるのか?」
「同情? ……いや、そうではない。同情よりもっと、心が熱くなるような、締め付けられるような……おお! そうじゃ、きっとこれが恋情というやつじゃ! わらわは、そなたが好きじゃ!」
 突拍子もないツネ子の物言いに、俺は目を丸くした。
「なんだよそれ、随分軽いなぁ」
 苦笑いで告げる俺に、ツネ子はぷぅっと不満げに頬を膨らませた。
「わらわの心を疑っておるな!? わらわは好いた男のためならば、どんな願いも聞いてやるぞえ。試しにそなたの望みを申してみよ。わらわが叶え、心を示してみせようぞ!」
 ツネ子は俺の鼻先にビシッと人差し指を突きつけて、声高に叫んだ。
「望み、か……」
 僅かな逡巡の後、口を開いた。
「ならさ、ここの会社の評価体系を一新させたい」
「評価体系?」
 俺の答えが余程に意外だったのか、ツネ子はコテンと首を傾げ、怪訝そうに繰り返した。
「いや、評価体系の変更は第一弾ってことになるか。最終的には、この会社の古い体質を一新させたい。そのために、まずは今の縦割り評価から、三百六十度評価に変更して、上司自身も部下や同僚から評価を受けさせる。並行して、業務目標を全て目に見える数値目標で管理して、能力成果主義に移行する。こうすれば無能は失脚するし、計画性のない納期で組まれるプロジェクトだって、そもそも発生しない。……きっとこれで、本部長に潰された奴らも、少しは浮かばれるよ」
 夢ならもっと、自分の幸福を追求するために望めばいい。……だけど、咄嗟に俺が口走ったのはこれだった。
 俺にとって、この十年はいつも仕事とともにあった。それだけ俺にとって、生活の中で仕事が占める割合は大きく、優先度の高いものだった。そんな十年間の献身を踏みにじられ、こんなに簡単に切り捨てられて、物分かりのいい振りをしていたって内心では悔しくて堪らなかったのだ。
「そなたの望み、しかと聞き入れた! それから、わらわが医務室にベッドを用意したゆえ、そなたはこの後、医務室に行って横になるんじゃぞ。では、そなたの望みが叶った時に、またな!」
「おい、医務室にベッドなんて……って、いない!?」
 医務室は、たしかにある。けれどそこは、国が義務化した産業医面談を行う場所の呼称に過ぎない。面談用のテーブルと椅子があるだけで、産業医の常駐は元より、ベッドも置かれてはいない。
 ツネ子に追及の声をあげるが、俺が最後まで言い終わるより前、ツネ子は文字通り煙に巻かれたように姿を消した。
 ……やっぱり俺は、相当に疲れている。そう結論付けて、俺はふらつく足取りで屋上からオフィスフロアに戻った。
 廊下の途中で、ふと、足が止まった。おもむろにルームプレートに目線をやれば、ちょうど医務室の扉の前だった。
 ……馬鹿らしい。今日は産業医面談の実施日じゃない。どうせ、鍵がかかっているさ。
 そんなふうに思いながらも、気づけばドアノブに手を掛けていた。
 ――キィイイ。
 ドアノブを回せば、予想に反して鍵は掛かっておらず、小気味いい音を立てて扉が開いた。
 ……うそだろう?
 疑心暗鬼で足を踏み入れた医務室には、目を疑う光景が広がっていた。
 部屋の中心に置かれていたはずの、面談用のテーブルと椅子がなくなり、代わりにキングサイズのベッドがドーンと置かれていた。
 しかも何故か、ベッドの枕もとには大きな葉っぱが一枚のっかっていた。
「は、ははっ。……ついに俺、いかれちゃったか。……だけど、気持ち良さそうだなぁ」
 俺は吸い寄せられるみたいに、フラフラとベッドに向かい、ボフンッとダイブした。その衝撃で葉っぱが舞い、俺の頬をサラリと掠めた。何故か葉っぱからは、ツネ子と同じ温もりと香りを感じた。
 そうして沈み込んだベッドは、これまで体感したことがないくらいに柔らかで、夢のように温かかった。瞬く間に全ての思考が遠ざかり、俺は優しい眠りの世界へと旅立った――。