事の発端は、二日前。一月一日の出来事だった。


(まい)も今年、受験生になるな。どこか行きたい大学とか、考えているのか?」

 そう私に聞いてきたのは、賢明で厳格な父だった。私は出されたお雑煮に入った餅を口に運び、話せないふりをする。

「さすがにそろそろ考えてるだろ? 公募制の推薦入試なら、もう一年もないじゃないか。どうなんだ?」

 年明け早々、気が重くなる話題だ。四月から高校三年生になる私は、これから一年間、受験という呪いのような行事に苦しめられるんだろうなと思うと、早くも絶望の淵に立たされたような気分になる。

「……まだだよ」

 餅をごくりと飲み込み、父と目を合わすことなくつぶやいた。途端に、わざとらしい深いため息が耳に入る。私はお雑煮の入ったお椀を手に持ち、グイっと汁を飲んだ。そうやって、視界から話題を振った人を消したかったんだ。


「いいか舞。そこらの底辺大学にでも行こうものなら、働いてもらうからな。学費は絶対に出さん。わかってるな?」

 視界には入らなくとも、聞こえてくる重苦しい声。

わかってる、お父さんの言いたい事。そうやって脅して、とりあえず勉強を頑張らせることが目的なんだって。

レベルの低い大学なら行かせないとか、学費を払わないっていうのも、全部本気じゃないことはわかってる。

でも、今そういうこと言われるのはしんどいよ……。

「まあまあ、私は舞が進みたい道に行ってくれればいいと思うわよ。そういえば、舞は何になりたいの?」

 横から母が仲裁に入る。でも意味がない。その質問は、私を追い詰める言葉でしかないのだから。

 私は、空っぽになったお椀とお箸を持ち、流し台へ運んだ。

「ないよ、なんにも。なりたいものなんてない」

 それだけ言って、リビングから出た。出る途中、「え、でも小さいころは何か言ってなかった?」という母の声がしたが、聞こえていないふりをした。

 そうだ、確かになりたいと思ったものはある。でも、それは『なりたい職業』という意味ではない。

 小さい頃、私の夢は『お父さんやお母さんみたいになること』だった。それは人柄的な意味で、今求められているものではない。それ以外、なりたいと思ったことや将来したいと思うことはなかった。

 小学生の時は、いつか考えればいいと思っていた。中学生の時は、高校生になれば見つけられるものなんじゃないかと思っていた。

だから何にでもなれるよう、普通科の高校に進学したのに。高校二年生になった今、私の目の前に道はなかった。


 将来の夢を決めるのが、こんなにも早いと思っていなかった。いつか、大人になったらって。
そう思っていたのに、決断は意外にも早く迫ってきて。

大学は、なりたいものの専門知識を学ぶような場所だろうに、肝心の『なりたいもの』が私にはない。自分が何をしたいのかもわからない。

 公募制の推薦入試だとか、大学共通テストだとか、一般入試とか。一体何の違いがあって、どの方法が適しているのかもさっぱりだ。


 初めて自分の現状が見えた気がして、逃げ出したくなった。

これがあと何ヶ月続くのか。下手すれば浪人してプラス一年、なんてことも考えられなくはない。

とりあえず大学に入ったとしても、そこで学ぶことが自分に合うかもわからない。

今後の人生において、学んだことを生かして、仕事に就いて、それを続けられるかもわからない。

誰か、私に夢をください。
私に進むべき道を教えてください。


 先の見えない不安が、私を襲った。逃げられない通過点。怒られるであろう日々。

 そんなことを考えてる暇が私にあるのか、何をしているんだ自分は、と自己嫌悪に陥るのも苦しかった。


 逃げ出したい。

誰もいない世界へ……どこか遠くへ行きたい。せめて、私のことを誰も知らない場所へ行きたい。自由になりたい。

 そんな思いで、私は家を飛び出した。