「綺麗ね」
 目を細めていた。この寺はこうしてお参りをした数年後には取り壊されてしまった。
 いや、正しくは建て直しとなったのだ。随分年季が入っていたから。寺の存在を後世まで維持するにはそのほうが良かったのだ。
 そうだとしても寂しいものであったけれど。
「そうだな。春はやはり桜がなければ」
 彼は言ったけれど、不意に小桜を見た。まっすぐに見据えてくる。
「しかし、俺にとってはこうして傍にいてくれる『さくら』のほうがよっぽど綺麗さ」
 小桜を見て言われた言葉。随分甘く、だいぶくすぐったい言葉であったが、優しい彼はそういう言葉もためらわない……ためらわなかった。
 彼のうつくしい『さくら』でいられたことを嬉しく、誇らしく思う。
 私は最期までこのひとの『さくら』でいられただろうか。
 小桜が今、思ったことは、おそらく本来の……七十を過ぎた、歳を取った小桜だったろう。
 でも、今は。
 小桜は笑った。
 自分が今、どんな顔立ちをしているのかはわからない。娘だった頃と同じだろうが、鏡などは見ていないから確信はなかった。
 けれど別のことは確信できる。
 彼の好きでいてくれた、当時の『小桜』。そのままなのだろうと。
 それは中身が七十過ぎの小桜であったって、本質は変わらないのだから。
「それは私だって同じよ」
 だからためらわなかった。すっと、小桜は一歩踏み出した。
 彼も悟ってくれたらしい。小桜の肩に手を伸ばしてくれる。
 その腕に、当たり前のように小桜はおさまった。ふわっと、彼の香りが鼻孔をくすぐった。
 心地良い体温も、うっすらと。
 あたたかかった。今、ここに確かに存在してくれるひと。
 その胸に頭を預けて、小桜はしばし目を閉じた。
 寺の花祭り。このひとつきほどあとに、彼は小桜の元を去った。
 大学の入学試験を受け、見事合格したのだ。それで東京へ行ってしまった。この田舎町には大学なんて上等な学校はなかったから。
 出立の前に、「必ず戻ってくるよ」と約束してくれて。
 それで実際戻ってきてくれた。二年が経ち、知識を増やし、もっと確かに大人になって、そして立派な教師となって。
 そのあともうひとつした約束。それも叶えてくれた。
 彼と無事に結ばれた。名実ともに隣にいる存在、伴侶。夫婦となったのだ。
 しかしそのあと、もっともっと、何十年も先に待っていたのは、このいっときの別れのようではない。
 永遠の別れ。今、彼が小桜の居る世界にいない、理由。
 おかげで今は寂しい。独りになってしまったから。
 でも、その寂しさがあったとしても、このひとに逢えてしあわせだった。
 このひとの傍で生きることができたのだから。
 小桜は顔を上げた。
 なつかしい、彼の顔。このあとの一生をずっとずっと見ていた顔だ。愛しさが胸に溢れた。
 もう一度、逢えた。独りになっていた小桜の寂しさ。
 意識はしなくとも心の隅にずっとあったさみしさ。
 それを愛しさで塗り替えてくれるような邂逅だった。
「私も貴方の傍で咲いていられて幸せだったわ」
 小桜の言葉に彼は笑う。ほろりと花の零れるような笑み。
「待っていておくれ」
 彼の言った言葉。それはこの世界のものだっただろうか。
 もしかすると、何年、何十年あとの彼と交わすようなことだったかもしれない。
「また別の世界で逢える、その日まで」
 ふわっと、そのときなにかが舞ってきた。
 ああ、桜が散る。
 小桜は悟った。
 『さよなら』のときだ。この桜に連れられて自分は帰るのだろう。
「ああ、待っているよ」
 口から出た言葉も、もう違っていた。彼にとってもなつかしいのかもしれない。どの小桜も。
 ごーん、と鐘の鳴る音が聞こえてきた。先程よりもはっきりと。
 五つ、鳴るのだろう。夕暮れ、陽が沈んで『帰る』時間。
 身を包む桜の花びらがどんどん多くなっていく。
 やがて視界のすべてが薄桃色の桜の花びらで覆い尽くされた。