これも試練と言えるか分からないが、人間になって、まず感じたのは空腹だった。
空腹を埋めるには食べ物が必要だ。だが、食べ物を手にするには対価が必要だった。それを得るには働かなければいけない。だから、僕は否も応もなく会社に通い仕事をした。
そこは、数十社受けてようやく受かった会社だと日記に書いてあった。ということは、是が非でもここで働きたかったわけではなかったようだ。おそらく流されるように働き出したのだろう。
それでも根が真面目な僕は、採用してもらった、という恩に報いるために、理不尽と思われるようなことを言われても……されても、賢明に働いた。
しかし、僕の取った〝真面目な行動〟が、知らず知らずのうちに上司の出世を阻んでいたらしい。彼の怒りを買ってしまったのだろう、パワハラめいた苛めを受けるようになった。
人間の大人は実に勝手で、『イジメはいけないことだ!』と子供には教えるのに、当の本人は自分の行為を苛めだと思っていない場合が多い。
それで相手が死んでしまっても、『自分に責任はない』『勝手に死んだんだろ』『弱かったからだ』で済ましてしまう。
それに比べて野生の肉食獣は、弱きものを追いかけ、いたぶり、肉を食らうが、己や家族が食べる分しか狩らない。それ以外の殺生は絶対しないそうだ。ようするに、生きるための殺ししかしないということだ。
もしかしたら、人間よりも命の尊さを知っているのかもしれない。
だが、上司は猛獣のようだが明らかに人間だった。
己の欲望のまま〝教育〟という便宜な大義名分で、欲望の赴くまま苛めを行った。
回避したくても、直属の上司なので逃げることもできず……かといって、ペーペーの僕に味方してくれる人は誰もいなかった。
『会社なんて辞めてしまえばいい』
そう思う自分もいたが、『なぜ自分が辞めなければいけないのだ?』と思う自分もいた。
悶々とする中、ひとりの助けもない閉塞感溢れる部署で、僕はあっぷあっぷと溺れるような息苦しさを感じ、夜ごと悪夢を見るようになった。
それが原因で寝不足になり、ミスが増え、さらに目を付けられ……と負のスパイラルに陥った僕は、あまりのしんどさから、とうとうクリニックのドアを叩いた。
「――眠れないのです。眠っても恐ろしい夢を見て飛び起きてしまうのです」
「眠れない……それはお辛いですね」
ああ、そのとおりだ。睡眠不足がこんなに辛いとは……獏だった僕も夢にも思っていなかった。
「睡眠は人生の三分の一を占めます」
診察の結果、ストレスによる睡眠障害だと診断された。先生は図入りの資料を見せながら僕の現状を丁寧に説明してくれた。ある意味、僕以上に僕を理解していた。
「だからこそ、良質な眠りが必要なのです。睡眠不足を甘くみてはいけません。人間の身体はとても正直なので、不足し続けるとたちまち心身に変調をきたします」
それを改善するために、きっと睡眠薬を処方されるだろう。そう思ったのだが、なぜか先生は薬を出さずに通院を勧めた。カウンセリングというものをするらしい。その方が僕に合っているからだそうだ。
「薬に頼ることは悪いことではありません。ですが、獏さんの場合、頼らなくても改善します。私が力になります。だから、何でも話して下さい」
熱の籠もった真剣な瞳に見つめられ、僕は先生を信じようと思った。
空腹を埋めるには食べ物が必要だ。だが、食べ物を手にするには対価が必要だった。それを得るには働かなければいけない。だから、僕は否も応もなく会社に通い仕事をした。
そこは、数十社受けてようやく受かった会社だと日記に書いてあった。ということは、是が非でもここで働きたかったわけではなかったようだ。おそらく流されるように働き出したのだろう。
それでも根が真面目な僕は、採用してもらった、という恩に報いるために、理不尽と思われるようなことを言われても……されても、賢明に働いた。
しかし、僕の取った〝真面目な行動〟が、知らず知らずのうちに上司の出世を阻んでいたらしい。彼の怒りを買ってしまったのだろう、パワハラめいた苛めを受けるようになった。
人間の大人は実に勝手で、『イジメはいけないことだ!』と子供には教えるのに、当の本人は自分の行為を苛めだと思っていない場合が多い。
それで相手が死んでしまっても、『自分に責任はない』『勝手に死んだんだろ』『弱かったからだ』で済ましてしまう。
それに比べて野生の肉食獣は、弱きものを追いかけ、いたぶり、肉を食らうが、己や家族が食べる分しか狩らない。それ以外の殺生は絶対しないそうだ。ようするに、生きるための殺ししかしないということだ。
もしかしたら、人間よりも命の尊さを知っているのかもしれない。
だが、上司は猛獣のようだが明らかに人間だった。
己の欲望のまま〝教育〟という便宜な大義名分で、欲望の赴くまま苛めを行った。
回避したくても、直属の上司なので逃げることもできず……かといって、ペーペーの僕に味方してくれる人は誰もいなかった。
『会社なんて辞めてしまえばいい』
そう思う自分もいたが、『なぜ自分が辞めなければいけないのだ?』と思う自分もいた。
悶々とする中、ひとりの助けもない閉塞感溢れる部署で、僕はあっぷあっぷと溺れるような息苦しさを感じ、夜ごと悪夢を見るようになった。
それが原因で寝不足になり、ミスが増え、さらに目を付けられ……と負のスパイラルに陥った僕は、あまりのしんどさから、とうとうクリニックのドアを叩いた。
「――眠れないのです。眠っても恐ろしい夢を見て飛び起きてしまうのです」
「眠れない……それはお辛いですね」
ああ、そのとおりだ。睡眠不足がこんなに辛いとは……獏だった僕も夢にも思っていなかった。
「睡眠は人生の三分の一を占めます」
診察の結果、ストレスによる睡眠障害だと診断された。先生は図入りの資料を見せながら僕の現状を丁寧に説明してくれた。ある意味、僕以上に僕を理解していた。
「だからこそ、良質な眠りが必要なのです。睡眠不足を甘くみてはいけません。人間の身体はとても正直なので、不足し続けるとたちまち心身に変調をきたします」
それを改善するために、きっと睡眠薬を処方されるだろう。そう思ったのだが、なぜか先生は薬を出さずに通院を勧めた。カウンセリングというものをするらしい。その方が僕に合っているからだそうだ。
「薬に頼ることは悪いことではありません。ですが、獏さんの場合、頼らなくても改善します。私が力になります。だから、何でも話して下さい」
熱の籠もった真剣な瞳に見つめられ、僕は先生を信じようと思った。