僕は悪夢を食べる(ばく)で、僕がいたのは灰色の混沌(こんとん)とした空間だったはずだ。
 ――なのに、これはどういうことだ? 眩しい! 目を開けていられない。
「どうしてこんな所にいるのだろう?」
 僕の目の前には光溢れるカラフルな世界が広がっていた。


「ここは……人間界だ」
 それに気付いたのはすぐだった。
 人の夢には様々な世界が登場する。同じ人間界であっても、過去、現在、未来では全く様子が違った。それから察すると、今、僕がいるのは現在の人間界みたいだ。
 何がきっかけでこうなったのだろう?
 考えたが分からない。分からないが、これが夢ではないことだけは確かだった。


 ふと、目の端にショーウインドウが映る。
 えっ? そこにいたのは……二足で立つ、まだ歳若そうな青年だった。
 もしかしたら、これが僕なのだろうか?
 確かめるように、短髪の黒髪、神経質そうだが堅実そうな顔、それほど広くない肩、と順に触り、ついでに両手を上げ下げして、両足で地面を踏み鳴らしてみた。
 するとショーウインドウの彼も同じ動きをする。


「僕だ……人間になってしまった」


 唖然としながらも、不幸中の幸いということだろうか? 少しダサいが、一応、洋服も靴も身に付けていたうえに、ポケットには、財布と共に身分証明書となるマイナンバーカードが入っていた。
 それによると、僕は〝(ばく)〟という人物で、住むところもあるらしい。


 急いで記載されている住所に行ってみると、そこはいかにも単身用と思えるワンルームマンションだった。
 僕は(いざな)われるようにその中の一室の前に立ち、電子錠の暗証番号をなぜか迷うことなく押した。


 ピピッ――開錠音が耳に届く。
「おや?」
 部屋に入った僕は鼻をクンクンさせた。()ぎ慣れた匂いがしたからだ。
 その匂いで漠然とだが、僕の部屋だ。そう確信した――が、感慨は湧かなかった。とにかく僕が誰か? それを知らなければと思ったのだ。だからすぐに調査を開始した。


 結果、僕は二十二歳で、今春、文系の大学を卒業した商社マンらしい。
 かなり筆まめのようで、それらのことが日記に詳しく綴られていた。
『仕事は大変だけど、リストラされないように頑張ろう!』
 ちなみに、昨日のページであろう最後のページの最後の行に、そう書かれていて、少し頬が緩んだ。


「なるほどねぇ」
 僕は教えられもしないのに棚からコーヒー豆を取り出すと、お湯が沸くのを待ちながら、シンク横の台にあったミルで豆をガリガリ挽き始めた。
 芳醇(ほうじゅん)なコーヒーの香りが辺りに漂い始める。
「流石は高い豆だけあって、いい香りだ」
 そう独り言ちると――苦笑いが浮かぶ。


 どうして豆の値段なんか知っているのだろう?
 やれやれ、と自分に呆れながら(かぶり)を振ると、フッと息を吹きかけチャフを取り除き、ハンドドリップでコーヒーを淹れる。そして、白い湯気を上げるそれを大きなマグカップになみなみと注ぎ入れ、味わいながら日記を読み進めていった。


 それにしても……獏だった記憶を残したまま人間になるとはどういうことだろう?
 疑問ばかり浮かんでは消え、消えては浮かぶ。でも、さっぱり解答らしきものは浮かばなかった。