「遠野さん、帰り送って行くからちょっと待っていて」
「え? いいんですか?」

 帰る準備をしようと鞄を整理していた私は、思わぬ申し出に驚いて顔を上げた。
 つくも質店がある無縁坂は閑静な住宅街にあり、更に片側が旧岩崎邸庭園になっているため、夜になるととても静かだ。人通りが殆どなく、正直言うと一人歩きはちょっぴり寂しいというのはある。

「うん。弁当屋に行こうと思って。今年からおせち料理を始めたらしくて、親に注文を頼まれたんだけど、実物サンプル見たいなって思ってさ」
「お弁当屋? もしかして、いつも頼んでいるところですか?」

 時々、親が不在のときなどにつくも質店でお弁当を一緒に食べることがあるのだが、いつも真斗さんが頼んでくれるご贔屓のお店のお弁当がとっても美味しいのだ。
 契約農家から取り寄せたお米を釜で炊き上げていると聞いたけれど、米は産地でこんなにも違うものなのかと驚くほど。

「うん、そう」

 真斗さんは座卓に積まれていた書類の中から、カラフルなチラシを一枚取り出した。カラーの両面刷りで、色鮮やかなおせち料理の写真が載っている。

「あそこのお弁当、美味しいですよね」
「ソウダロ? ウマイダロ?」

 真斗さんに話しかけたのだが、フィリップが代わりに答える。なぜかフィリップは、異様にあそこの弁当押しなのだ。

「あのお弁当屋さんって、湯島駅にあるんですか?」
「うん、そう。湯島天神のすぐ裏のあたりだよ」
「へえ。私も見てみようかな」

 湯島天神は湯島駅のすぐ近くにある天神様で、学業の神様である菅原道真公を祀っている。今の時期は受験を控えたお子さんを持つ親御さんが多いが、年間を通して資格試験を控えた受験生もよく訪れるという。

 我が家のおせち料理は毎年お母さんが作ってくれるけれど、湯島だったら上野公園にも近いのでなんかのときに使うこともあるかもしれない。お花見とかで利用できるかな。

「じゃあ、一緒に行こう」

 真斗さんは壁に掛けたダウンコートを羽織り、ポケットに財布とスマホを突っ込んだ。

   ◇ ◇ ◇

 真斗さんに連れられて向かったのは、ごく普通の小さなお弁当屋さんだった。
 入口は三メートルほどだろうか。『天神下 かすや』と書かれた木製の看板がかかっており、ガラス張りの明るい店内は商品置くためのカウンターが幅をとっており、よくある一般的なお弁当屋だと思う。
 カウンターの三分の一を占めるようにおせち料理のサンプル品が飾られていた。

「こんにちは」