万年筆を手渡されたので、凡そ半年ぶりにそれを手に握った。金色のペン先が紙の上を滑らかに滑る。自分の名前──遠野(とおの)梨花(りか)と記入する。やっぱり、この万年筆はとても書きごごちがいい。

「遠野梨花さんね」

 カウンターの男の人は、自分の後ろポケットから財布を取り出すと、中から一万円札を二枚取り出し、「あ、足りね」と言った。あまり几帳面な性格ではないのか、紙幣に混じってレシートが財布から飛び出ている。

「え?」

 私は拍子抜けしてその人を見つめた。お金って自分の財布から出すの? てっきりレジから出すものだと思っていたのに、予想外。

「ちょっと待ってて」

 暫くすると、男の人は片手に五枚の紙幣を持って現れた。

「はい、これ」

 目の前に紙幣が差し出される。
 
 私は呆気にとられて、男の人を見返した。
 お金を借りるのだから、もっとたくさんやることが──例えば、決まった書面に住所を書くとか、学生証をコピーされるとか──そんなことを想像していたのに、これでおしまい?
 あまりに簡単すぎて、逆に驚いてしまった。

「……もうおしまい?」
「そうだけど?」
「もっと、何か書いたりしなくていいんですか?」
「書きたいわけ?」
「……いえ」

 小さく首を振って、差し出されたお札を受け取る。これはあの万年筆と引き換えに得たお金なのだと思うと、ずっしりと重く感じる。シロは相変わらず、「ニャー、ニャー」としきりに何かを訴えかけるように鳴いていた。

「そうだな……。俺、飯田(いいだ)真斗(まなと)」 
「は?」
「だから、俺の名前。飯田真斗。金貸してくれた人の名前くらい憶えておけ」

 呆れたようにそう言い放つと、男の人、もとい、飯田真斗さんはすらすらと自分の名前をメモに書き、私に手渡す。そして、仕事は終えたとばかりにカウンターの奥の奥へと行ってしまった。
 座卓の上には箱が積み重なって置いてあるのが見えた。あれも質入れされた品物なのだろうか。その横には、以前も見た緑色のインコが気持ちよさそうに昼寝している。

「あの、ありがとうございました……」

 引き戸を閉めようとすると、カウンターの下に座り込んだシロがこちらを見上げて「ニャー」と鳴く。飯田さんは小さく嘆息すると、立ち上がった。

「あんた、もっと自分の大事なものをちゃんと見た方がいいよ。一度手放したら、もう戻ってこない」

 じっとこちらを見つめるその瞳に、何もかも見透かされている気がした。
 いたたまれない気持ちになった私は、逃げるようにその場を後にする。
 門を潜り抜けたとき、またシロが「ニャー」と鳴く声が聞こえたような気がした。