熱海温泉つくも神様のお宿で花嫁修業いたします

 

「ぽん太さんは、知ってる?」

「もちろん知っとるとも。初代の頃から通いつめているが、あの店のビーフシチューは、それはもう絶品じゃよ」

 モフモフの尻尾を揺らしながら言うぽん太を前に、花は頬に手を当て絶品ビーフシチューの姿を想像した。
 熱海通のぽん太が唸るのだ。やはり相当、格別な一品に違いない。
 文豪たちに愛された味が銀色に光るスプーンに乗る姿を思い浮かべた花は、思わず鼻をスンと鳴らした。

「うん……よしっ。そしたら傘姫には、熱海ならではの素材を使った、絶品ビーフシチューをお出しするよ!」

 ひと通りの話を聞いたちょう助が、覚悟を決めたように開いていたノートを閉じた。
 確かにビーフシチューであれば、一品料理としてお出ししても違和感はないだろう。とろとろのお肉と洗練されたデミグラスソースを作るのには、大変な手間ひまもかかるに違いない。

「あ、味見なら、いくらでも協力するからいつでも言ってね……‼」

 すぐさま手を挙げた花は、やはり花より団子である。キラキラと目を輝かせた花を前に、ちょう助は「よろしく」と言ってハイタッチした。

「ああ……でも、ちょう助くんのビーフシチューも楽しみだけど、いつかその老舗洋食屋さんの絶品ビーフシチューも食べてみたいなぁ」

 文豪たちを唸らせた味。是非体験したいと思うのは、花ならずとも右に同じだろう。

「うん、俺も今度食べてみたいなぁ。あ、でも花はさ、一年後につくもを出たらいくらでも食べに行けるじゃん」

「え……」

「それに、それまで我慢できなければ、この間みたいにぽん太さんに連れて行ってもらえばいいわけだしさ?」

 さらりと言ったちょう助はニコリと微笑んでみせたが、花は時を忘れたように固まってしまい、咄嗟に返事をすることができなかった。
 確かにちょう助の言うとおり、人である花は一年後につくもを出たら、お目当ての老舗洋食屋に足を運んでビーフシチューを食べることもできるだろう。
 頭ではわかっているのに、何故か今、咄嗟に返事に迷ってしまったのはどうしてだろう──と、花は自分の胸に手を当てて考えた。

「まぁでも、せっかく仲良くなれたのに、花がここからいなくなるのはちょっと寂しいけど」

「ちょう助くん……」

 そんな花を前に、ちょう助はそう言うと苦笑した。頬はほんのりと赤く染まり、恥ずかしそうに俯く姿は可愛らしく、母性本能をくすぐられずにはいられない。

「でも、花にも帰る場所があるんだから仕方ないよな。寂しいけど、我慢するよ」

「もう……っ、たまらん……っ!」

「わ……っ!?」

 叫びながら、花は衝動的にちょう助の小さな身体を抱き締めた。

「は、花……!?」

「もう可愛い……っ! 今、お姉さん、めちゃくちゃ萌えたっ! ごちそうさまですっ」

「ご、ごちそうさまって何……!」

 ちょう助は花の腕の中で真っ赤になって狼狽えているが、それもまた可愛くてたまらないと花の心臓は鷲掴みにされている。

(ハァ……。八雲さんにも、ちょう助くんくらいの可愛げがあればなぁ)

 そうすれば、ひょっとしたら、このまま本当に八雲の嫁になることも有り得なくもないのに──と考えたところで、花はハッとして顔を上げ、煩悩を振り払うように頭を振った。