熱海温泉つくも神様のお宿で花嫁修業いたします

 

「はっ、はい! 頑張らせていただきます!」

 そうしてすかさず虎之丞から鞄を受け取った花は、予定通りに虎之丞を客室まで案内することとなった。


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「ふぅーむ、とりあえず部屋の掃除はよくできておるようだな」

 虎之丞は部屋につくなり、まず掃除が行き届いているのかを隅々までチェックした。
 入口で控えていた花は、「ありがとうございます」と遠慮がちな笑顔を浮かべてそれに答えたが、内心では鼻を天狗のように延ばしたい気分だった。
 虎之丞が重箱の隅をつつくような男であることは、黒桜から聞いていたのだ。
 だから花は昨日一日かけて、本日虎之丞が泊まる予定のこの部屋を徹底的に掃除した。
 備え付けられているゴミ箱の裏まで汚れていないかを確認し、ピカピカに磨き上げる徹底ぶりだ。
 お客様が気持ちよく泊まれるように部屋の掃除を徹底するのは当然といえば当然のことなのだが、これだけ神経をとがらせて掃除したことは人生でも初めてと言っていい経験だった。

「前回来たときには窓に手跡がついておってなぁ。どうやら今回はそれもなさそうだし、とりあえず合格としてやろう」

「あ、ありがとうございます」

 花が再度小さく頭を下げると、虎之丞はどっかりと部屋の真ん中に腰を下ろした。
 虎之丞を案内した客室は、三部屋ある客室の中でも、ちょうど真ん中に位置する松の間と呼ばれる部屋だった。
 虎之丞はこの松の間がお気に入りで、理由は朝日がとても美しく見えるからということらしい。
 そのため前回訪れたときは、朝日を臨むための窓についていた僅かな汚れが気に食わず、散々仲居を怒鳴り散らしたというわけだ。
 実際、窓の汚れは小指の爪先ほどの曇りが窓の隅についていただけで、景観を損なうようなものとは言えなかった……というのは、あとで確認した黒桜の見解である。
 それでも当時の仲居はその窓の汚れを皮切りに虎之丞に散々いびられ、自ら辞職を申し出るまでに追い詰められたというのだから恐ろしい。

(でもなんだか、どこかで聞いたことのあるような話で……)

 かくいう花も、不可抗力で不倫女というレッテルを貼られて社内で身の置きどころがなくなり、自主退職をした身だ。
 前任の仲居の気持ちを思えば虎之丞に腹が立ちもするが、今は花が仲居で虎之丞は客という立場である以上、噛み付くわけにもいかなかった。

「ご、ご夕食は一時間後を予定しておりますので、先に、つくも自慢の温泉をお楽しみください」

 常連客の虎之丞であれば、花が提案などせずとも宿での楽しみ方は重々承知しているだろう。
 それでも前日までにぽん太が用意した接客マニュアルを参考にしていた花は、マニュアルに書かれたとおりに虎之丞に温泉を勧めた。

「熱海温泉は非常に効能も素晴らしく──」

「温泉だぁ〜〜〜?」

 しかし、どうやらそれは虎之丞の地雷のひとつだったらしい。

「娘っ。貴様はわしに、飯の前に風呂に入れと言っとるのか!?」

(え……っ)

 突然凄んだ虎之丞は、ドンッ!と座卓を拳で叩くと鋭い眼光で花のことを睨みつけた。