観光客は増え、シャッターの降りていた店は新しく生まれ変わり、カフェや老舗店は幅広い客層で賑わっている。
 カメラ片手に市内の観光スポットを巡る若者も多く、SNS映えする場所を求めて訪れていた。
 たくさんの人の情熱(ちから)により、熱海は苦境を乗り越え、再び人気観光地に返り咲いたのだ。
 その要因のひとつとも言える熱海サンビーチの夜は、今日もライトアップにより幻想的な美しさに包まれていた。

「ハァ〜〜……」

 ただし、そこに立つ"(はな)"の心は夜の海よりも相当に暗い。
 つい数ヶ月前までは天にも登る気持ちでいた花は今、地べたをほふく前進で張っているような心持ちだった。

「もうほんと……なんであんなことになったんだろう」

 独りごちた花は、散歩道に飾られた置物であろう【信楽焼(しがらきやき)のたぬき】の隣に、ズルズルと脱力しながら座り込んだ。
 花が落ち込んでいる原因は、あまりにありがちな失恋だった。
 けれどただの失恋ではない。
 泥沼の、それはそれは地獄のような失恋を、花は(よわい)二十五にして味わったのだ。


 ──ことの始まりは、こうだ。
 四年制の公立大学を卒業した後、都内で名の知れた大手不動産会社に就職した花は、仕事に追われながらも順風満帆な日々を送っていた。
 新人の頃はただガムシャラに仕事をこなし、休日返上も当たり前。靴のヒールが三ヶ月でボロボロになるほど、花は営業に勤しんだ。
 すると三年が経った頃に功績が買われて、本社に二年間の出向を言い渡されるまでになった。
 夢にまで見た出世コース。
 人生は頑張ったら頑張っただけ報われるのだと、このとき花は確信した。

(ようやく、実家で一人暮らしをしているお父さんを安心させてあげられる……)

 幼い頃に母を亡くした花にとって、父は唯一の肉親だ。
 静岡市内で小さな電気屋を営む父との暮らしは、決して裕福とは言えないどころか絵に描いたような貧乏生活であったが、親子二人三脚で今日までなんとか生き延びたのだ。
 だからこそ、上司に出向を言い渡されたときには天にも登るような気持ちだった。
 父に電話で報告したときにも、父は電話口で娘の花が引くほどの男泣きをしていた。

『私、がんばるから! それでいつか、お父さんを日本一周旅行に連れて行くからね!』

 日本全国を行脚(あんぎゃ)したいというのは、昔からの父の夢だ。
 花は近い未来で必ず、父の夢を叶えてあげたいと思いながら本社の敷居をまたいだ。
 ……ところがどっこい。
 これがとんでもない地獄への入口へ繋がっていたとは、このときの花はまさか知る由もなかった。