熱海温泉つくも神様のお宿で花嫁修業いたします

 


(ちょっと待ってよ……)

 そんな八雲を前に、花はプチンと自分の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。
 花がつくもに訪れたその日から、着実に溜まり続けた鬱憤が許容量を超えたのだ。

(だけど、それより何より今のは──)

「──ちょっと待ってください」

 凛とした花の声が、静寂に包まれた廊下に流れる時間を止める。
 思わず足を止めた八雲が振り向いたと同時に、ツカツカと距離を詰めた花は八雲の眼前で立ち止まると、自分よりも頭一つ半も背の高い男の顔を臆することなく睨み上げた。

「今のは聞き捨てなりません」

 キッパリと言い切る花の声に迷いはない。

「百歩譲ってこれまでのあなたの言動に関しては、聞き流したとしてあげます。だけど、仕事に悩んでいる従業員に対して、今の返答はないんじゃないですか⁉ あんまりです! 仮にもあなたは、この宿の主人を務める若旦那ですよね?」

 興奮しきった花は顎を上げ、ズイ、と八雲の顔を下から睨んだ。
 これまでになかった花の剣幕に、さすがの八雲も気圧される。

「虎之丞さんがどうこうのと言うよりも、あなたがそんなだから、前の仲居さんだった付喪神様は嫌になってここを辞めたのでは? 従業員を守れない主人など、主人失格だと私は思います」

「何……?」

「それに、仮にも私はあなたの嫁候補ですよね? 嫁になるかもしれない相手にそんな横暴な態度を取るなんて、ただただ最低の一言です!」

 こうなったらもう、花の口は止まらない。

「私でなくとも、あなたの妻になりたいなんて人は現れないわ。っていうか、あなたみたいにいけ好かない男の妻になんて、頼まれたって首を縦には振ろうとは思わない!」

 捲し立てるように言った花は腕を組み、「ふんっ!」と豪快に鼻を鳴らした。
 そんな花を前に、八雲は虚をつかれたように固まってしまい、言葉を返すことすらままならない。

「もういいです。一瞬でもあなたに頼ろうと思った私がバカでした。自分ひとりで考えます! そういうわけで、私は忙しいので失礼します!」

 そうして花は留めとばかりに捨て台詞を吐いてから、ひとりでその場をあとにした。
 カポーン!という、ししおどしの音が虚しく響く。
 嵐のように花が立ち去ったあと、八雲はしばらく固まったまま動くことができず、静寂の中にひとりぽつんと取り残された。


 ♨ ♨ ♨


「はぁ〜〜〜……どうしよう」

 重苦しい溜め息が、周囲の空気を湿らせる。
 朝一の仕事を終えた花は用意された朝食を食べると、ひとときの休憩時間を貰い自室へと戻ってきた。
 あのあと花は、ぽん太と黒桜に事の顛末も説明したものの、これといった解決策を見つけることはできなかった。
 ちょう助に関して言えば、ふたりは人嫌いであることを知っていたようで、不安が的中したといった様子でもあった。
 挙げ句の果てには、『とりあえず、焦らずじっくり考えよう』と言う始末だ。
 地獄行きがかかっている花には、そのふたりの言葉は他人事のようにしか聞こえず、余計に気を揉むばかりだった。