(ああ……そういえば、"業務の効率化"って、杉下さんの口癖だったな)
 
 板張りの廊下に漂う空気は、ひんやりと冷たい。
 ふとそんなことを思い出した花は、ぼんやりと(ちゅう)を見つめた。
 花の元上司である杉下は、ゲス不倫男であったが仕事はできる男だった。だからこそ花も杉下に心惹かれたのだが、今となってはすべてが幻だったようにも思える。
 必死に就職活動をして得た就職先も、僅かな気の緩みが原因でものの見事に失った。
 人生とは実に不思議なもので、昨日は当たり前にあったものが今日も当たり前にあるとは限らないのだ。

(色々落ち着いたら、次の就職先のことも考えないと……)
 
 心の中で独りごちた花は、遠くを見ながら息を吐いた。
 この先、一年間はつくもで働くにしても、その後の見通しは不透明のままだ。実家に帰って職を探したとして、都合よく就職先が見つかるとも限らない。
 そもそも改めて考えると、自分は何がしたいのか……花は前職を辞めることになってから、自問自答を繰り返していた。
 前職は実家の父を安心させたいという一心で、とにかく【生涯安泰】と言える企業を選んだのだ。結果として、安泰どころか僅か数年で自主退職を選ぶ羽目になったのだが……やはり、人生は何が起こるかわからない。

「ハァ……」

 再び、花の口から溜め息が漏れた。
 今、この場で先のことばかりを考えても仕方がない。まずは目の前にあることから、ひとつずつこなしていく以外に、花にできることは何もないのだ。

(……よしっ)

 なんとか気持ちを切り替えた花は顔を上げると、真っすぐに伸びた廊下を見つめた。
 静寂に包まれた廊下は、朝の暖かな日差しが降り注いでいて美しい。
 花は一度だけ大きく深呼吸をしてから、足を前へと踏み出した。ふいに吹いた風は冷たく足元を冷やしたが、気づかぬふりでやり過ごした。



「おはようございます! 今日からよろしくお願いします!」

「おおー、時間通りじゃのぅ。感心感心」

 花がまず訪れたのは、昨日ぽん太に指定されていた玄関ホールだった。
 神術らしき何かでロボット掃除機のように雑巾を動かしているぽん太は呑気に、上がり框に座りながらお茶をすする余裕っぷりだ。

「私も、ここを掃除すればいいですか?」

「うんにゃ、花は窓拭きからやってもらおうかの。しかしまぁ、無事に花の父上にも納得してもらえたことじゃし、今日から安心してここで働けるというもんじゃ」

 ほっほっと恵比須様のように笑うぽん太は、今日もよくしゃべるたぬきだった。
 そのぽん太の言葉の通り、つくもに住み込みで働くことが決まってすぐ、花は実家の父に、『都内で住み込みの働き口が見つかったから実家には帰らない』という旨の連絡を入れていた。
 引っ越しの荷物を送った直後だったので、父は花が自暴自棄になったのではないかと心配していたが、「衣食住つきだから大丈夫!」という娘の元気な返事に渋々納得した様子だった。

「父上にまさか、地獄行きを回避するために付喪神専用の宿で働くことになったとは言えんしのぅ」

「それ、ぽん太さんが言います?」

 思わず花がツッコミを入れると、ぽん太はご機嫌な様子で、ぽんっ!と威勢よく腹太鼓を叩いてみせた。

「ほっほっほっ。しかし、現世と常世の狭間で働くなど滅多にできん経験だぞ」

「確かにそれは、そうかもしれませんけど……」

 別に経験できなくても良かった、と花は口を尖らせる。

「つくもの歴史は古くての。もう数百年、この場所で宿を構えておる。そしてわしは、つくも一の古参で、黒桜はその次に古株じゃ。これまでも多くのお客様をお迎えしてきたが、誰もみな帰るときには大満足で現世へと戻っていくもんじゃ」

 その話は花が昨日、ぽん太から嫌というほど聞かされたものだった。
 つくもは歴史あるお宿で、全国津々浦々の付喪神様たちから愛されている場所なのだというのは、耳にタコである。

「それで、今週末はどんな付喪神様がいらっしゃるんですか?」

 なんとか話題を変えたいと思った花は服の袖を捲ると、用意されていた雑巾を絞りながら質問を投げた。
 花がつくもに来たのは日曜の夜だった。
 そして昨日の月曜日はつくもに関する説明を受け、いよいよ仲居としての仕事を始めた今日は火曜日だ。
 今週の平日は宿泊客の予約は入っておらず、次にお客様が来るのは土曜日だというところまで、昨日、宿帳の付喪神である黒桜から聞いていた。

「そうだ、そうじゃった。次の宿泊客は──ううん? 誰じゃっけ?」

「誰じゃっけって、ぽん太さん……」

「常連客である、掛軸の付喪神の"虎之丞(とらのじょう)"殿ですよ」

「え……っ、わぁ……っ!?」

 そのとき、花の眼前にドロン!という効果音でもつきそうなほど予告なく、宿帳の付喪神である黒桜が現れた。
 黒桜は今日も艶のある長い黒髪を後ろでひとつに結っていて、桜模様のあしらわれた黒い着流しをまとっている。

(ビ、ビックリした……!)

 黒桜の登場の仕方に腰を抜かしそうになった花は、バクバクと高鳴る胸に手を当てた。

「お、お願いだから普通に現れてください! 心臓に悪すぎます!」

「ああ、すみません。歩くより、こうして現れたほうが早いので、ついついドロンとしてしまいました」

 花の抗議など、なんのそのだ。加えて本人も一応、ドロンと登場した自覚はあるらしい。
 見た目は人の成りをしているのだから、せめて人らしい行動をとってほしいと思う花は多分、"人"としては間違っていないだろう。