「あ、ありがとうございました……。それと、着物……濡らしてしまって、すみません」
八雲の着ている着物には、しっかりと花の涙が染み込んでしまったことだろう。
「着物のクリーニング代、払いますので……」
「必要ない。こちらでいくらでも処理できるから、余計なことはしてくれるな」
余計なこととは、一言多いと花は思う。
けれど散々甘えたあとでは、文句を言うわけにもいかなかった。
「え……」
そのときふと、花はある違和感に気がついた。
慌ててパッと座卓の向かいへ目を向けたが、やはり、鏡子の姿が見当たらない。
「え……あれ……? 鏡子さんは……」
もしかして、花が泣き止むまで待ちきれなくてお風呂にでも行ったのだろうか。
すると徐に立ち上がった八雲が、先程まで鏡子の座っていた場所の前に立ち、そこにある"何か"を拾い上げた。
「それ……」
八雲が拾い上げたのは、鏡子の姿になる前の手鏡を入れた金襴袋だった。
けれど、くたりとしなだれるそれは手に取らなくとも、中身がないことを想像させる。
「鏡子は先程、成仏した」
「成、仏……?」
「ああ、付喪神が常世へ旅立つ方法はいくつかあるが……。基本的には付喪神の器となる"もの"が壊れるか、供養されて常世へ行くか。はたまた、本懐を遂げて常世へ自ら旅立つかの三つに一つだ」
花は、八雲の言っていることの意味をよく理解することができなかった。
(成仏って……それは、幽霊とかに当て嵌まるもので、付喪神はその名前の通り、神様だから関係のないことなんじゃないの?)
花の考えていることは、また顔に出ていたのだろう。八雲は花を一瞥したあと、金襴袋を花に向かって差し出した。
「人も幽霊もあやかしも神も、基本は同じだ。最後はみな常世へ旅立つ。鏡子はここへ来る前に既に器となる"もの"が壊れ、ほとんど付喪神としての力は残っていなかった」
八雲に言われて花が思い出すのは、熱海サンビーチで不注意で手鏡を落として、割ってしまったことだった。
「だから俺もぽん太に言われるまで、お前が鏡子を連れていたことに気づけなかった。それほどまでに鏡子は弱りきっていたんだ。そして鏡子は最後の力を振り絞って、お前をここに連れてきた。そんな彼女に後生だと言われたら、お前を追い返すわけにもいかない」
八雲の言葉を聞いた花の脳裏を過ぎったのは、鏡子の縋るような言葉の数々だった。
『今の私には、彼女を守ることはできません。だから八雲さん、どうか今日は彼女とふたりでここに泊まらせてください』
『これは私の──最後の願いです』
あのときは、鏡子は母のような優しさを持っているのだと思ったが、違っていたのだ。
いや……違っていたわけではないが、鏡子は自分が花と一緒に現世には戻れないことをわかっていたのだ。
花が現世に戻るまでの間に自分の力が尽きてしまえば、花は死ぬまで現世と常世の狭間を彷徨い続けることになる。
だからあのとき、鏡子は八雲に必死に頼み込んだ。
すべては花を守るために──鏡子は最後の最後まで、付喪神としての力を振り絞ったのだ。



