「今日、この瞬間まで、あなたはよく頑張った。私はそれを、ずっとそばで見てきたわ。だからもう泣いていい。もう、これ以上、我慢する必要はないのよ」
穏やかな口調でそう言った鏡子は、母が娘を見るような眼差しを花に向けている。
鏡子は──母の形見として、花が七つのときに母から譲り受けたものだった。
『辛いときこそ、辛い顔を見せるな』
母の葬式で母を求めて泣く花に、花の父は力強い声でそう言った。
周りはまだ小さい子に厳しいことを言うなと父を責めたが、幼い花は当時の父の真意に気がついていた。
『母さん……っ。これからは俺が花を守るからな……っ』
そう言った父もまた涙を堪え、拳を震わせていたのだ。
母を亡くして辛い思いをしているのは、自分だけではない。父は父なりに、母の代わりに花を立派に育て上げなければと自分を叱咤していたのだ。
そのとき、幼い花は父を見て思った。いつまでもメソメソと泣いていたら、父まで悲しみの渦から抜け出せなくなってしまう。
結果、花はそれから涙を流すことをやめたのだ。
その代わり、挫けそうになるとき、泣きそうになるとき、何かに負けそうになるときには必ず、母から譲り受けた手鏡の前で弱い自分を鼓舞し続けた。
「杉下さんのことだって……本当は、すごく辛かったでしょう? 私はずっと、あの人に恋するあなたを見ていた。あの人に会う前に私を見ながらお化粧をするあなたは、本当にとても可愛い女の子だったわ」
今となっては花は認めたくないことだが、杉下は花が初めて甘えることのできる異性だったのだ。
子供の頃から『しっかりしなきゃ』と自分自身に言い聞かせ続けていた花は、他人に甘えることが苦手だった。
『困ったことがあれば、いつでも俺を頼ってほしい。どんなことでも出来る限り力になるし、俺は君の味方だよ』
実際杉下は、本社出向で慣れない仕事に悪戦苦闘する花を、実に丁寧かつ優しくフォローしてくれた。
結果、花はコロリと杉下に騙されたのだが、嘘に気づくまで花は杉下のことを、心から尊敬もしていた。
杉下にしてみれば下心があって花に優しくしていたのだろうが、色恋沙汰に免疫のない花はその杉下の思惑に、気がつくことはできなかった。
『アンタは必ず地獄に落ちるわよ! いいえ、今すぐあの世に送ってやるから覚悟しな!!』
あの日、奥さんに張り倒され糾弾されている花を、杉下は助けるどころか、庇うことすらしなかった。
挙げ句の果てには後日の話し合いで、『彼女に言い寄られて断れなくて……』と、花にすべての責任を押し付けようとしたのだ。
幸いメッセージの履歴が残っていたから助かったが、あのとき花は初めて杉下という男の本性を見た。
別に……騙されていたことは、百歩どころか五百歩くらい譲って、許してもいい。恋に浮かれた自分がバカだったのだと、杉下を選んだ自分にも否があるだろう。
ただせめて……真実を述べた上で一言でもいいから、フォローをしてほしかった。
『彼女を巻き込んでしまったのは自分だ。全部自分が悪かった。彼女は俺の被害者だ』
杉下がそう言ってくれたなら、不実の恋ではあったが若さゆえに起きた恋の失敗談として、昇華することができたのだ。



