熱海温泉つくも神様のお宿で花嫁修業いたします

 


「……失礼いたします。お食事をお持ちしました」

 声の主は間違いなく八雲だった。
 不満を滲ませた抑揚のない声は、冷たい印象を聞いた相手に植え付ける。

(なんとタイミングの悪い……。っていうか今更だけど、なんで八雲さんはあんなに怒ってたんだろう……)

 花は首をひねったが、原因はひとつしか思い当たらない。
 人である花が、この場所にいることだ。
 だけど花はその理由だけでは腑に落ちず、八雲はもっと何か別の理由で、花自身を拒絶しているような気がしてならなかった。

「はい、どうぞ」

 花が悩んでいるうちに、鏡子が落ち着いた声で返事をした。
 するとサッと扉が開かれ、美しい所作で一礼した八雲が膳を持って入ってきた。

「失礼いたします。先程の非礼のお詫びをさせていただきたく、現在つくもの主人を勤めさせていただいております(わたくし)、八雲が夕餉(ゆうげ)をお持ちいたしました」

 八雲のその言葉と目は完全に、鏡子のみに向けられていた。

(私のことは完全無視ですか……⁉)

 あからさまな態度に花はムッとしかけたが、今は素晴らしい温泉と部屋からの眺望に癒やされたあとなので、些細な差別程度は受け流せる心の余裕を持っている。

「さぁ、花さん。座って一緒に戴きましょう」

「あ……は、はい! ありがとうございます!」

 鏡子に促された花は、用意されていた席へと腰を下ろした。
 そしてそれを待っていたかのように、八雲が持ってきた膳の脚を畳んで、木目が美しい座卓の上へと静かに置いた。

「本日の夕餉には、熱海の郷土料理である"まご茶漬け"をご用意させていただきました」

「まご……茶漬け?」

 花の鼻先を掠めたのは、上品なお出汁の香りだ。
 目の前にはひとり用のお(ひつ)と、注ぎ口のついた湯桶(ゆとう)がひとつ。
 膳の奥には平らな皿に乗った(あじ)の干物、薬味が三種に、丸い小皿には茄子の浅漬が乗っている。
 そして何も入っていないお茶碗がひとつ、膳の端に置かれていた。

(これは……鯵のお刺身?)

 スーパーの刺し身コーナーでよく見るやつだ。花は思わず、小さなお櫃の中身を見つめて考えた。

(お刺身というか……こういうの、鯵のタタキって言うんだっけ?)

 丸い桶の形をしたお櫃の中には、温かい白いご飯の上に彩りを添える三つ葉と、胡麻のかかった鯵の切り身が贅沢なほど乗っている。