熱海温泉つくも神様のお宿で花嫁修業いたします

 


「もしかして……あなたは、私の手鏡ですか?」

「……はい。はじめまして、鏡子といいます」

「鏡子さん……」

 手鏡は、名を鏡子というらしい。
 鏡子はそっとまつ毛を伏せると、花に対して頭を下げた。

「あなたを巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」

「巻き込んだのは、この女のほうだろう」

(しゃべった……‼)

 瞬時に花がそう思ったのは、今の今まで置物のように黙り込んでいた八雲が口を開いたからだ。

「わ、私が巻き込んだってどういうことですか⁉」

 鏡子と八雲の間に立ったまま、花が八雲へと目を向ければ、八雲はまた鬱陶しそうに目を細めてから自身の着ている着物の袖の中に手を入れた。

「付喪神は百年という長い年月を生きたものだ。現世ではそういった百年以上も経つものは貴重品として扱われ、大切に保管されていることが多い」

「つまり、気軽に鞄に入れて持ち歩く人は、あまりいないということです。なので付喪神を連れた人がここを訪れるというのは、滅多にないことなのですよ」

 八雲の言葉に、黒桜がやんわりと補足した。
 確かにふたりの言うとおり、百年以上の年月を経た大切なものを、携帯電話や財布と一緒に鞄に入れて持ち歩く人はいないだろう。
 けれどそれは、花も同じだった。
 今日は引っ越しのために、たまたま鞄の中に形見の手鏡を入れて持ち歩いていただけだ。
 現に普段は家の化粧スペースの引き出しに、大切にしまいこんでいる。
 朝出掛ける前に身だしなみの最終チェックと、母への「いってきます」という声掛けのために取り出すのが、花の日課だった。
 つまり、今日は悪い偶然が重なったということだ。つくもに辿り着いたことを悪い偶然と言っていいのかわからないが、花にとってはとんでもないところに来てしまったという事実に変わりなかった。

「まぁ幸い女性同士じゃし、泊まる部屋が増えたり変わるわけではないのなら、人ひとり増えたくらいでは屁でもないら」

「はい、ぽん太殿の仰るとおりで。これまでも急な人数変更などはどうとでも対応してきましたので、今日は安心して"おふたり"でつくもにご宿泊ください」

「ちょ、ちょっと待ってください……!」

 さも当然のごとく話しを進めるぽん太と黒桜を前に、花は慌てて止めに入った。

「わ、私は今日ここに泊まるなんて一言も言ってません……! ここにはただ、熱海駅への近道を聞きに来ただけなんです! だから私は、ここに泊まるつもりはさらさらありませんので帰らせていただきます‼」

 花が断言すると、何故かぽん太と黒桜があからさまに落胆したような顔をした。

「そうだ。この女の言うとおり、こいつはここに道を聞きに来ただけで、泊まる予定などなかった。だったらさっさと来た道を辿って、現世にひとりで帰らせるべきだ」

 はじめて八雲と意見が合致した、と花は思った。
 けれどそんな八雲に対して、ぽん太と黒桜は焦った様子で反論する。

「だがしかしな、八雲……! 花はここへ来るときには付喪神を連れていたから迷わず来れたが、鏡子を連れていなければただの丸腰の人なんじゃ。現世に帰る途中で道に迷う可能性もある!」

「え……」

 花は、ぽん太の言葉を聞いて目を丸くした。
 細道を歩いてここまでは一本道だったので、どう考えても元の道に戻るのに迷う道理はないと考えていたが、そうではないらしい。

「そうです、人がこの世界で道に迷えば一生、現世と常世の狭間を彷徨い続けることになるかもしれません……! 現世で言う、神隠しですよ!」

「え、ちょっと待って、そうなの……?」

 黒桜の言葉を聞いたら、途端に花の胸に不安の波が押し寄せた。

(ひとりで来た道を戻ったら現世には戻れないかもしれないって……さすがにそれは、嘘だよね?)

 半信半疑で八雲を見ると、八雲は顔色ひとつ変えずに堂々と言い放つ。

「そんなことは俺の知ったことではない」

 つまり、ぽん太と黒桜が今言ったことはすべて、真実だということだ。花の心は、焦りと不安で埋もれてしまう。

(っていうかこの人……全部知ってた上で、今、私をひとりで帰そうとしてたの? だとしたら、性格悪すぎるでしょ……)

 真っ青になった花は、もう何も言えなくなってしまった。
 ここに泊まるのは嫌だが、かといって神隠しに遭うのも嫌だ。
 ではどうすればいいのか──と、考える。
 そして花は、ある答えに辿り着いた。

(……そうだ)

 ぽん太の言うとおりであれば、鏡子を連れていれば花は迷わずに来た道を帰ることができるかもしれない。

「あ、あのっ、鏡子さん──!」

 手鏡に戻って、私と一緒に私達が住む世界に帰りませんか?
 けれど、花がそう尋ねようとしたとき、鏡子が八雲に詰め寄った。

「お願いします、八雲さん……! 私と花さんを、今日はここに泊めていただけないでしょうか……!」

「え……あ、あの、鏡子さん……?」

 鏡子の言葉に、花は言いかけた言葉を飲み込んだ。
 突然何を言い出すのかと思ったが、鏡子の必死な様子を見たら口を挟むことはできなくなってしまったのだ。

「花さんが乗るはずだった最終の電車の時刻は、もうとっくに過ぎてしまっています! 今からホテルを探すにしても、外はとても寒いですし、それでなくとも今日は既に、花さんは身も心も疲れ果てているのです……」

 そう言うと鏡子は、グッと唇を噛み締めた。
 その姿を見ていた花は、鼻の奥がツンと痛んで……今度こそ、言葉を失くして押し黙った。