熱海温泉つくも神様のお宿で花嫁修業いたします

 


「大丈夫じゃ。とって食おうなどとは思うとらん。お前さんの名前を知りたいだけじゃ」

 その穏やかな声は、不思議と花の心の警戒を解いた。
 まるで真綿に包まれたかのような安心感を与えられ、次にはそうすることが当然のごとく花は口を開いていた。

「た……丹沢花と申します」

「そうか、花か。ええ名じゃなぁ」

 うんうん、と頷くたぬきは、またニンマリと笑ってみせる。
 なんというか、堂々たるたぬきだ。たぬき側は人である花に対して、特別驚く素振りも見せない。
 考えてみたらサンビーチで会ったときからそうだった。まるで自分と人が会話ができるのは当然で、日常のことであるかのようだ。

「今日は一段と冷え込んでいたから、花も寒かったろう。真冬の、おまけに夜更けにサンビーチで黄昏れていたら尚の事じゃ」

「は、はぁ……」

 自然と花の肩からは力が抜けていた。
 たぬきの横に立つ男……八雲よりも余程人らしいたぬきである。

「あ、あの……いくつか、質問してもいいですか?」

「なんじゃ?」

「色々ツッコミどころはあるんですけど、あの、その……あなたは、たぬきですよね? 間違っていたら申し訳ないんですけど、サンビーチで私の愚痴を聞いてくれた信楽焼のたぬきの置物ですよね?」

 花が思い切った質問をすると、たぬきはキョトンと目を丸くしてから「そうかそうか」と何かを思い出したかのように頷いた。

「すまん、お前さんが急に逃げ出してしまったから、まだなーんも説明しとらんかったな」

「す、すみません、ビックリして逃げ出しちゃって……」

「いやいや、わしも悪かった。うーん、しかしどこから説明したらええかのぅ。とりあえず、花の質問の答えからかの。如何にも、お前さんが今言ったとおり、わしは信楽焼たぬきの"ぽん太"じゃ」

「ぽん太……?」

 なんて可愛らしい名前だろう。
 けれど、モフモフの身体と尻尾、そしてぽてっと前に出たお腹という見てくれに、よく合った名前である。

「花がサンビーチに来る前にな、わしもあそこで"ある問題"について頭を悩ませ黄昏れておったんじゃ。そしたらお前さんが来て、わしの隣で愚痴りだしたというわけじゃ。お前さんに話しかけることができたのは、わしの神術(しんじゅつ)と……何より、お前さんが"こちらの世界のもの"を連れていたのが大きな理由じゃ」

「こちらの、世界のもの……?」

 ぽん太の言っている言葉の意味がわからず、花は思わず首を傾げた。

「わしは、現世で数百年を生きる信楽焼のたぬきの付喪神なんじゃ」

「つくも、がみ……?」

「ああ。そしてここ、【熱海温泉♨極楽湯屋つくも】は、現世(うつしよ)常世(とこよ)の狭間にある付喪神(つくもがみ)専用の宿なんじゃ」

「付喪神、専用の宿……?」

「通常、人がここ【つくも】に足を踏み入れることはない。余程そちらの世界に精通していれば別だが……。花は、わしと同じ付喪神を連れていたから、ここに辿り着けたんじゃよ」

 もう何がなんだか、花の頭の中は混乱で揺れていた。
 ぽん太の言うことを要約すればこうだ。
 まず、ぽん太はやはり信楽焼のたぬきの置物だった。けれどただの置物ではなく、数百年を生きている付喪神で……。
 そしてここ、つくもはぽん太のような付喪神が泊まりに来る温泉宿であるということ。
 現世と常世の狭間にある温泉宿。普通なら、人が来られる場所ではない。
 だけど花が今日ここに辿り着いたのは、花がぽん太と同じ【付喪神】を連れていたからということだが……。

「わ……っ、私、付喪神様なんて連れてません!!」

 花は慌てて否定した。寧ろ、これまでの状況から疫病神は連れているかもしれないが、付喪神など寝耳に水だ。

「いんや、連れておるぞ。そもそも付喪神というのはの、長い年月を経た道具などに魂や精霊などが宿ったもののことをいうんじゃ。"九十九(つくも)"とは、百に一足りない数のことだが、それほどまで長く使われた道具が妖怪化すると、"付喪神"になると考えられておる」

 「まぁ、諸説あるがな」と付け加えたぽん太は、目を糸のように細めて微笑んだ。

「要は、今で言う"もったいないオバケ"みたいなもんじゃ。付喪神の中にはオバケや妖怪と揶揄されることを嫌がるものもおるがの。長い間、大切にされていたものには魂が宿る。それが付喪神となるんじゃ」

 ぽん!と右手でお腹を叩いて鳴らしたぽん太は、パッと信楽焼のたぬきの置物に変化した。
 思わず花が「あっ」と声を漏らすと、またすぐにモフモフたぬきの姿に戻ってみせる。

「どうじゃ、これで信じたら? そして……花が連れている付喪神については、花もよく知っていることじゃろう」

 ──付喪神とは、長い間大切にされてきた"もの"に魂が宿った存在のこと。

(長い間、大切にされてきたもの……)

そこまで考えた花が辿り着いたのは、鞄の中に入っている"あるもの"の存在だった。