「……私も、ここから見える景色が好きです」
ぽつりと言った花の言葉に、薙光がゆっくりと振り返る。
「私、元々は静岡県中部の出身なんですけど、ここに来る以前の数年間は都内に住んでいて……。もうずっと、こんなふうに綺麗な景色に見惚れるなんてことも忘れていました」
苦笑いを零した花は、つくもに来る以前の同じことの繰り返しだった日々を思い返した。
朝起きて、満員電車に揺られて学校や仕事に向かって、クタクタに疲れてまた満員電車に乗って、誰もいない家に帰ってくる。
毎日、ひたすらその繰り返しだ。
疲れきった身体では食事を作ることすら面倒で、適当に出来合いのものを買ってきて済ませたり、酷いときにはインスタント食品ばかりで数日を過ごしたこともあった。
化粧を落とすことも忘れて、泥のように寝たこともある。
ふと夜更けに目が覚めると言いようのない虚無感に襲われて……ああ、こんな日が一体いつまで続くんだろうと、閉め切られたカーテンの隙間から見える、くすんだ夜空を見上げていた。
「でも、ここ……熱海に来て、改めて気がついたんです。美しい景色は、見るものの心を豊かにしてくれる。美味しい食事は、笑顔と生きる力をくれる……って」
言葉にすると、ごく当たり前のことのように思える。
それでもそれは、花がここを訪れるまで忘れていたことだった。
「美しい景色を見て美味しいご飯を食べて……それで、生きる力を取り戻したら、また歩き出せるんです。でも、それだけじゃない。心が充実すると、嫌なことや辛いことは段々と薄れていくんだと気が付きました」
東京でひとりでいたときにはずっと、嫌なことや辛いことを思い出して気持ちが沈んで、視線も下に落ちていた。
「私はここ、熱海とつくもに救われたんです。だから私も……ここが好きです。大好きです」
──お前はここを、つくもをどう思う?
八雲に問われた質問に花が出した答えはこれだった。
つくもが好きだ。大好きなのだ。
花にとってこの場所は、とても大切な場所になっていた。
「すみません、急にこんなこと。でも、薙光様にも、ここから見える景色が好きだと言ってもらえたことが嬉しくて……」
そこまで言った花は照れ笑いを浮かべてから、慌てて視線を下へと落とした。
仮にも今、客である薙光に対して話すようなことではなかった。
けれど今、薙光の言葉を聞いたら自然と想いが口から溢れ出してしまったのだ。
「本当に……申し訳ありません」
花はもう一度、謝罪の言葉を口にする。
すると薙光は「そうか……」と小さく相槌を打ったあとで、改めて静かに口を開いた。



