『お前さんが、夜にひとりで、ここを訪れるのはいつになるかのぅ』
あのときはそう言ってニヤニヤと笑ったぽん太をグーで殴ってやりたいと思ったものだが、まさかそれから約二ヶ月後に本当に夜、ここを訪れることになるとは思いもしない。
(ふぅ………………)
瞼を下ろして深く息を吐いた花は、ゆっくりと顔を上げると、すぅと息を吸い込んだ。
「──すみません、八雲さん、花です。お部屋の中にいらっしゃいますか? 少しご相談したいことがあって来ました」
静かな廊下に、花は凜とした声を響かせた。
けれど本当は、声が震えていることに、花自身は気がついていた。
「……入れ」
どきりと、花の胸の鼓動が大きく跳ねる。
扉の向こうから返ってきた声は間違いなく八雲のもので、花はゴクリと喉を鳴らしたあと「……失礼します」と挨拶をして、八雲の部屋の扉を開けた。
(え……)
けれど、中に入って一番に目に飛び込んできたのは、八雲の後ろ姿だった。
初めて入る八雲の部屋は二間続きになっており、隣の部屋へと続く扉は閉ざされている。
閑散とした和室には驚くほどものがなく、八雲は奥にある縁側に座っていた。
縁側は隣の部屋にも続いているのか、回廊になっているようだった。
「あの……」
花が声をかけると、八雲が徐に振り返った。
八雲は昼間見たときと同じ、紺色の着流しをまとっているが、夜のせいで碧が更に深く色付いているように見える。
月明かりを浴びた横顔と、黒曜石のような瞳に射抜かれた花の心臓は大袈裟な音を立て、花はまるで凍りついたようにその場に足の根を張った。
「何をしている、相談があるのだろう。こちらに来て座れ」
「……っ」
八雲の言葉に、花は思わず息を呑んだ。
胸の鼓動は早鐘を打つように高鳴っていて、相変わらず足は自分のものではなくなったように動かない。
(お、落ち着け、私の心臓──)
それでも花は、なんとか自分の心を奮い立たせた。
そもそもここには、仕事の話をしに来たのだ。
加えて、今朝、考えなしに八雲の父の話を尋ねてしまったことを謝ろうと思って来た。
だから別に、八雲を変に意識する必要など皆無なのだ。



