「夜分遅くに、すみません! 熱海駅までの近道を教えていただきたいんですけど、どなたかいらっしゃいませんか?」
明かりがついているということは、営業中で間違いない。
それなのになぜか人の気配は感じられず、花はキョロキョロと周囲を見渡してから首を傾げた。
彫刻欄間と暖色の明かりに包まれた空間は、日本家屋特有の品格を感じさせる。
玄関は家の顔とはよく言うが、隅々まで掃除の手が行き届いているようだった。
(……接客中で、手の空いている従業員さんがいないのかな)
けれど時刻はそろそろ二十三時をまわろうという頃だ。忙しい時間帯は遠に過ぎているだろう。
(逆に、経費削減で夜勤の人が少ないとか?)
だとしたら、いつまでもここにいるのは危険だ。従業員が出てくるのを待っているうちに終電時刻を過ぎてしまうかもしれないし、なにより花は先程の怪異ともなる置物たぬきが、またいつ現れるかと思うと気が気ではなかった。
(あれは本当に、なんだったんだろう……)
夢か、現実か……。いや、度重なる不幸に見舞われた自分の心があまりに不安定になっていて、ありもしない幻覚を見たのだと、花は今、自分自身を納得させるしかない。
(だって、あんな……。まさか、たぬきの置物が、モフモフのぬいぐるみみたいな仕様になって喋りだすなんて……)
おまけに二本足で立って動いていた。あれが現実だなどと、にわかに信じられるはずがない。
「あの……っ、やっぱりいいです! お邪魔しまし──」
けれど、花がそう言って極楽湯屋つくもを出ようとしたとき、視界の端に人影が写った。
反射的に言葉を止めて、バッ!と弾かれたように振り向くと、つい先程までは誰もいなかった上がり框に人が立っていた。
「え……あ……、」
「……なぜここにいる」
花の耳を掠めたのは低音が心地良い、落ち着いた男の声だった。
男は濃紺の着物に金茶帯、その上に着物と同じ濃紺の羽織を羽織っている。
背筋の伸びたすらりとした体躯に、花よりも頭ひとつ半ほど高い背。
艶のある黒髪と、均整のとれた目元が印象的な、酷く整った顔立ちをした男だった。
(すごく綺麗な人……)
どこか浮世離れした男の容姿に、花は見惚れた。色っぽく流し目などされたら、女の子たちはイチコロだろう。
「……おい、なぜここにいるのかと聞いている」
けれど、形の良い唇が紡いだのは、実に温度のない言葉だった。
色っぽいどころか射るような視線を向けられ、我に返った花は慌ててここに来た目的を男に告げた。
「す、すみません。帰ろうとして、道に迷ってしまって……。あの……熱海駅への行き方を教えていただこうと思って立ち寄ったのですが、近道など知っていたら教えていただけませんでしょうか?」
「……チッ」
花の伺いに、男は舌を打った。
面食らった花は目を瞬かせると言葉を失くし、固まってしまう。
(な、何か失礼なことを言ったかな……?)
というよりも、男はここの従業員なのだろうか。百歩譲って宿の客であれば仕方がないが、仮に従業員だとすれば、男の態度はあまりに横暴かつ失礼極まりない。



