「……あれからもう五十年。何度あのときのことを後悔したかわからない。なぜあのとき嘘でもいいから、"わかりました、あとのことは任せてください"と言えなかったのか……。先に常世へ旅立つ源翁様を、安心して逝かせてあげることができなかったのか……ずっと、弱い自分を恨んでいたの」
「傘姫様……」
「だからね。たとえ本物の源翁様でなくとも、源翁様の前であのとき言えなかった言葉を言わせてもらえたことが、嬉しかった。その上、美味しいお食事も一緒に食べることができたのだもの。こんなに幸せな日が来るなんて……この五十年、想像したこともなかったわ」
そう言うと傘姫は、花を見て今までになく穏やかな笑みを浮かべた。
「素敵な一日を、どうもありがとう。あなたのおかげで昨日という日が、とても素敵な日になりました」
優しい声は、まるで新しい朝を告げる小鳥のように美しく、花の目には自然と涙が滲んでいた。
「わ、私は、何も……っ。傘姫様のためには、本当に何もできなくて……。力不足で、本当に申し訳ありませんでした……っ」
なんとか振り絞った声は濡れていた。
花は必死に瞬きを繰り返して涙が零れないように抗ったが、何をしたところで取り繕うことはできないだろう。
「すみません、私……っ。お客様の前で酷い顔を……」
「ふふっ、大丈夫ですよ。やっぱり、あなたはとても優しくて、素敵な方。これまで長く生きてきた甲斐がありました。今度はあなたに会いに……つくもに来ます」
小さく笑った傘姫は、そう言うとそっと花の手を取った。
「──大丈夫。八雲さんなら、あなたをきっと今以上に幸せにしてくれます。そしてあなたなら、きっとこの場所を温かく包み込む、陽の光のような素晴らしいお嫁様になるでしょう」
繊細な指は花の手を優しく撫でたあと、蝶が飛び立つように離された。
思いもよらない傘姫の言葉に花は目を見開いたが、傘姫は再び目を細めてから静かに笑った。
「ひとりでは決して乗り越えられないことも、この人となら乗り越えられるような気がする。結婚とは、そういうふうに想い合うふたりが、ひとつの傘を持つようなことだと私は思うの」
「ひとつの傘を……」
「ええ。ひとりが傘を持てないときは、もうひとりが傘を持てばいい。たとえ、ふたりともが傘を持てなくて濡れてしまっても、顔を見合わせたら笑い合える。そして八雲さんとあなたなら……きっと、それができるふたりになれるわ。だから安心して、ふたりで幸せになってくださいね。──八雲さんも、どうか花さんのことをお守りくださいませ」
凜とした声は、花の後ろに立つ八雲へと投げられた。
ハッとして花が振り返ると、数メートルほど離れた後方に八雲が立っていて、傘姫に向かって音もなく頭を下げた。
「それではみなさま、ご機嫌よう」
着物の裾が、ふわりと揺れる。
そのときだ。まるで、この瞬間を待っていたかのように、降り続いていた雨が止んだ。
「雨が──、」
つくもの外に出た傘姫は開こうとした和傘を持ち直すと、しばらく立ち止まったままで、青に染まる空を見上げた。
どこまでも続く青空の彼方には、薄っすらと虹の橋がかかっている。それを見て顔を綻ばせた傘姫は、手にした傘を閉じたまま真っすぐに、来た道を帰って行った。
「また──またのお越しを、心よりお待ちしております……っ!」
傘姫は、一度も振り返らなかった。
石畳の向こうに消えていった凜とした背中に向かって花は精一杯声を張り上げると、空に向かってあげた右手を、そっと強く握り締めた。