熱海温泉つくも神様のお宿で花嫁修業いたします

 

「彼が常世へ旅立って、もう五十年。随分長い月日のように感じるけれど……今も私は彼と過ごした尊い日々を、つい最近のことのように思い出すことができるのよ」

 窓の外ではしんしんと雨が降り続いている。
 花は今更になって、どうして八雲があのとき、傘姫の事情を知ることを止めたのか気がついた。
 傘姫と彼のことは、無思慮に知ろうとしていいことではなかったのだ。当然、好奇心などという理由で踏み込んでいいことでもなかった。
 あのとき花は、八雲の冷然たる物言いに腹を立てたが、八雲は単に傘姫の尊い想いを汲んだに過ぎなかったのだ。
 もう五十年も、たったひとりで──。亡き想い人に心を寄せる傘姫の心痛は、計り知れないものだろう。

「ごめんなさい、湿っぽい話を聞かせてしまって。でも、何故だか今、あなたに聞いてほしくなったの。だから、聞いてくれてありがとう」

 羽化したばかりの蝶が、羽を広げるように静かに微笑む傘姫は握っていた手をゆっくりと解いた。

「あなたと八雲さんは人同士だもの。大丈夫、きっと上手くいくわ」

 穏やかな声に、花は頷くことも返事をすることもできなかった。純粋な傘姫に嘘をついていることの後ろめたさもあり、彼女の顔を真っすぐに見ることもできない。

「あなたがおすすめしてくださったとおり、お夕食前に一度、温泉で温まらせていただきますね」

 傘姫が、そう言って姿勢を正す。花は結局気の利いたことのひとつも言えないまま、梅の間をあとにすることになった。

「……失礼いたします。それではまた、お夕食のときにお声をかけさせていただきます」

 襖を閉じ、息を吐く。踵を返してひと気のない廊下を歩きながら、花はたった今傘姫に聞かされた話を、ひとり静かに考えた。