「消えたい……」

 父にはまさか不倫未遂事件に遭ったとは言えず、職場で起きたトラブルの責任を取るために自主退職することになったと報告をした。
 花が次の職が見つかるまで実家のお世話になってもいいか尋ねたところ、父は快く受け入れてくれたが、声のトーンが大分下がっていたことに娘の花が気づかないはずもない。

(お父さん、あんなに喜んでくれてたのに……)

 父を、ガッカリさせてしまった。それもこれもすべて、ゲスの極み杉下のせいだと恨まずにはいられない。

「本当に、どうしてあんな奴に引っかかっちゃったんだろう……」

 しかし、花の不幸はこれだけに留まらなかった。
 一月の夜の海は、身が凍りつきそうなほど寒い。コートの襟に口元を埋めてズズッと鼻を啜った花は本来、日の出ている時間にこの地を訪れる予定だった。
 今日は社員寮の引き上げ日。本来ならば昼過ぎに東京を出て、せめてもの自分への労いのために明るいうちに熱海観光をしてから実家に帰るつもりだったのだ。
 それなのに引越し業者が約束の時間から大幅に遅れ、部屋の引き渡し作業にも手こずり、人身事故で電車が遅延した結果、熱海に着いた頃には二十時半を廻っていた。
 バスに乗ってようやく着いたお目当ての海鮮料理屋は、まさかのお休み。
 仕方なく近くの熱海サンビーチまで歩いてきたのだが、ムードたっぷりなライトアップは今の花には眩しすぎた。

「風邪を引く前に帰ろう……」

 独りごちて、花は静かに立ち上がった。ここまで不幸が重なると、いっそ清々しい。
 そうして花は、隣でずっと愚痴を聞いてくれた信楽焼のたぬきへと目を向けた。
 どうして熱海サンビーチに信楽焼のたぬきの置物があるのかは謎だが、今は理由を探すことすら億劫だった。