「お前の決心は、よくわかった。お前がそう決めたなら、俺は全力でお前を応援する」
「大和……」
 顔を上げた雪乃が、ふわりとほほ笑む。安心しきった子どものような表情だ。こいつのこんな顔を見るのは、いつ以来だろう。胸の真ん中が、ぼんやりとあたたかくなる。
 けど、俺はそこで、あえて「でもさ……」と言葉を継いだ。
「自立するのはいいけど、実際のところどうするつもりだよ。外に出るのはいいとして、家事のやり方、お前わかるのか?」
「そんなの、やろうと思えばなんとかなるでしょ。実際、あんただって普通にできるようになったじゃない」
 俺の素朴(そぼく)な疑問に、雪乃がさも当然のように答える。
 いやまあ、確かにやろうと思えば、そこそこなんとかなるんだけどね。それでも例えば掃除とか、この家や家具に合わせたやり方なんかもあったりするんだよ? これでも俺、家事についてそれなりに研鑽(けんさん)を積んできたんだよ?
 ――てなことを説いてやったら、雪乃はめんどくさいという感情がにじみ出た(ほう)(づら)になった。
 ダメだ、こりゃ。ほっといたら、ひどいことになる気がする。
「まあ、そこら辺は俺が教えてやるよ。その方が、一から自分で調べて覚えるより早いだろ?」
「は? いや、それはダメでしょ。大和に迷惑かけないように自立するのに、教えてもらってたら意味ないじゃん」
「いいんだよ。自立に向けての支援は、迷惑とは言わん!」
「けど、あんたに教わるとか、わたしのプライドが……」
「二年間散々だらしないところ見せといて、今さらプライドも何もあったもんじゃねぇだろうが。第一、こうでもしないと――ッ!」
 会話の流れで思わず出そうになった言葉を、あわてて飲み込む。
 危なかった。今の俺、とんでもなく恥ずかしいことを口走るところだった。
「こうでもしないと……何よ」
 しかし、残念ながらうちの幼馴染みは、そんな俺の隙を見逃してはくれなかった。「だらしない」と言ったことに対する仕返しのつもりか、〝吐け〟と端的(たんてき)目力(めぢから)で訴えかけてくる。
 こちらも最後の抵抗とばかりに頬をかきながら視線をそらしたが……あきらめずそらした先に回ってのぞき込んできやがった。()いついたら離さない。スッポンみたいなやつだ。
「男だったら言いかけたことくらい、はっきり言ったら? 中途半端に隠し事されるのって、すごいストレスなんだけど」
「いや、隠し事ってのはオーバーな……。べつに大したことじゃ……」
「言え」
 この幼馴染み、最後はこちらのセリフをさえぎりつつ、女の子にあるまじきドスを利かせた直球で来ました。こいつの目力、さっきから半端ないな。逃がす気ゼロだわ。これ以上の抵抗は、残念ながら無駄っぽい……。
「ええと、家事を教えるとかでもないと……」
「でもないと?」
「俺がこっちに来る理由がなくなってしまうというか、なんというか……」
 せめてもの抵抗でまた視線をそらしながら、ボソボソとさっき言いかけた言葉の続きを告げる。
 すると雪乃は即座に怪訝そうなお顔をされ、心底冷たい声で「……は?」と漏らした。なんだろう。雪乃の視線がチクチクと、いや、ザクザクと突き刺さってくる。正直、心が痛い。
「だって仕方ないだろう! なんだかんだ言って、最近はお前と晩飯食うのとかが習慣化しちまったし。今さらあのだだっ広い家でぽつんとひとり晩飯とか、なんか寂しいだろうが!」
 そのあまりのいたたまれなさのためだろうか。知らんうちに口をついて、言い訳が飛び出していた。
 俺の冷静な部分が、「余計なことを……」とつぶやきながら頭を抱えている。
 本当に何言ってんだろうね、俺。べつにこっちへ来るだけなら、今まで通り勉強教えてもらうためとか理由はいろいろあるだろうに、よりによって「寂しい」とか……。
 ほら、雪乃の表情が、だんだんゴミでも見るような感じになってきて……。
「うわ……。あんた、意外と女々しいこと考えてんのね。普通にキモいんだけど。さすがに引くわー……」
「わかってるっての! 自分でもちょっとやばいんじゃねぇかって思ってるよ! だから言いたくなかったんだ!」
 自分の体をかき抱いてこちらの心をえぐってくる雪乃に、勢い任せでがなり立てる。夜中に近所迷惑? 知るか、そんなもん!
 ちくしょう。本当にちくしょうだよ……。プライド云々(うんぬん)を言うなら、確実に俺の方がズタズタだっての。なんだよ、この羞恥(しゅうち)プレイ。
 さすがに精神的ダメージが大きすぎて、その場で膝を抱えてしゃがみ込む。穴があったら静かに入りたい……。
 ただ、そんな俺の様子がおもしろかったのか、頭の上から雪乃のおかしそうな笑い声が聞こえてきた。
「お前、この場面で笑うとか、さすがに性格悪すぎないか?」
「ごめん、ごめん。でも、あんたの自爆と情けない顔がおかしくて」
「うん。この()に及んで追い打ちかけてくるとか、俺もびっくりだわ。お前、俺に対してだけは本当に容赦ないな!」
 こんなのの面倒を二年間も見てきたとか、俺、どんだけお人好しなんだろう。忠犬すぎるにもほどがあるだろう。
 恨みがましく雪乃を見上げるも、この性悪は大笑いを続けるのみだ。
 さっきまではシリアス気味のいい感じな場面だったはずなのに、一分足らずでなんだこの急展開。決意表明の場が一転して赤っ恥公開処刑(俺の)とか、普通ありえんだろ! 自業自得だけど、俺がかわいそうすぎる!
「はあ~、笑った……。でもまあ、そういうことなら仕方ないか。恩人の幼馴染みを寂しがらせるのもかわいそうだし」
「かわいそうな子扱いするな!」
 目もとの涙を指ですくう雪乃に、逆ギレ気味のツッコミを入れる俺。なんかもう、ダメダメでグダグダだ。
「あんたがそこまでわたしに会いたいっていうなら、わたしも恥を忍んであんたに家事を教わってあげることにしましょう。感謝しなさい」
 偉そうにふんぞり返るチビヒッキー。教わる側の態度じゃねぇだろ、それ。
「……さっきはああ言ったが、俺はそこまで豆腐メンタルじゃねぇ。あと、なんで俺が感謝せにゃならんのだ」
「照れない、照れない。だから、まあ、その……」
 雪乃が、不意にこちらから目をそらした。髪の毛の先をクルクルと指に巻きつけたりして、妙に挙動不審だ。つい今し方の俺っぽい。
 急にどうしたのかと思っていると、雪乃は親愛がこもった口調で、こう言った。
「……いつまでになるかわからないけど、これからもよろしく」
 俺に対しては傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な雪乃らしからぬ口調と言葉に、思わずその顔を見上げる。
 さっき俺は、満天の星空を背負ったこいつを、少なくともきれいだと思った。けれど、今のこいつは――天真爛漫(てんしんらんまん)にほほ笑んだこいつは、まぎれもなくきれいだと、心から素直にそう思えた。
 その笑顔に当てられたまま、足腰に力を入れて再び立ち上がる。
 今さらかっこつけようとしたって滑稽なだけだけど、それでも精一杯取り(つくろ)って、俺は雪乃にほほ笑み返した。
「まあ、これも幼馴染みの(よし)みだ。ここまで来たら、とことんつき合ってやるよ」
「はいはい、〝好み〟ね。そういうことにしといてあげるから、慣れないかっこつけなんかやめとけば? 寂しがり屋」
「うっせえよ、引きこもり」
 互いのことをけなし合いつつも、それ自体がおかしくて、どちらからともなく笑い合う。
 笑いながら見上げた星空は、さっきまでよりも少し輝いて見えた。