筆ペンを置いた雪乃は、短冊を大事そうに持って立ち上がる。そして精一杯背伸びして、短冊を笹の一等高い場所に括りつけた。
 笹の一番高いところに吊るされた短冊は、他の飾りと同じく夜風にはためく。
「どうして七夕をやりたいなんて言ったか、だけどさ……」
 くるりとこちらに振り返った雪乃が、やや張り詰めた表情で座ったままの俺のことを見下ろした。澄んだ黒い瞳が、俺を映しているのがわかる。
 ボサボサ頭とダボダボのスウェットは変わらないのに、星空を背負ったその姿はどこか幻想的だ。七夕チックに言えば、まるで織姫みたい……というのはさすがに盛りすぎかもしれないが、少なくともきれいだとは思う。雪乃相手に認めるのは悔しいんだけど、一瞬胸が高鳴ってしまった。
「正直なところ、七夕自体はどうでもよかった。笹に願い事吊るすだけのイベントに、大した思い入れなんてないしね」
「それじゃあ、なんで……」
「固めた決心を明かすには、ちょうどいい感じのイベントだったから、かな……。せっかくなんで使わせてもらった」
「……決心?」
「そう。心を決めると書いて、決心」
 俺が首をかしげると、雪乃は短冊を書いていたときと同じく真剣な面持ちで、こくりとうなずいた。
 雪乃が、今この瞬間にも変わろうとしている。何か、自分の殻を破ろうとしている。普段より大人びたこいつの表情に、そんな予感を覚える。
「あんた、さっき言ってたでしょ。『今の俺の人生、わりとお前を中心に回ってますよ』って」
「ああ……。あ、もしかして気にしたのか? べつに俺が勝手にやっていることだから、お前が気にする必要はないぞ。代わりに勉強だって教えてもらってるから、俺の方こそ助かってるくらいだ」
 正直なところ、さっきの発言はほとんど悪ノリで言ったものだ。それがもしも雪乃に罪悪感を抱かせてしまったなら、きちんと否定しておかなければいけない。
 確かに俺の生活は学校と雪乃を中心に回っているけど、俺はそれを嫌だと思ってなどいない。
 むしろ、今の生活の在り方を心地よくさえ思っている。両親が不在のことも多い俺にとって、雪乃と一緒に飯を食ったりしていると、疑似的(ぎじてき)にでも家族の団欒(だんらん)を感じることができるから。
 俺にとって、雪乃との生活は()り所なんだ。夏希や洋孝とは違う、俺が自分らしく安らげる、大切な場所と時間……。
「でも、わたしのせいであんたに時間がなくなっているのも事実よ。今日だって、わたしのワガママがなければ夏希たちと遊びにいけたんでしょ?」
 まるで俺の思考を読んでいるかのように、雪乃が痛いところをついてくる。
 いや、実際に俺の表情から思考を読んだのだろう。こいつ、頭がいい上に、よくも悪くも周囲の注目にさらされてきたから、人の顔色を読むのが得意なのだ。
 というか、それ以前に余計なことを言うんじゃなかった。ほんと、俺のバカ! あのとき自分が取った態度を考えると、この状況で否定はできない。
 俺が黙っていると、雪乃はどこか申し訳なさそうに話を続けた。
「お父さんとお母さんが死んでから二年間、わたしはずっと大和の厚意(こうい)の上にあぐらをかいていた。家庭教師をやってるだけじゃ返し切れないくらい、ずっと大和に甘えてきた」
「いや、べつにそんなことは……ないとも言い切れないが……。確かにけっこう、あごで使われてきたが……」
 勢い込んで割って入ってみたけど、結局何もかける言葉を見つけられない俺。超かっこ悪い。
 雪乃からは、「無理しなくていい」と呆れ混じりの苦笑を向けられてしまった。
「だから今日、天の上のバカップルに短冊を叩きつけることで、決心を固めることにした。天国にいるお父さんとお母さんにこれ以上心配かけないよう、自分を変えることにした」
 そう言い切った雪乃の瞳は、一切の揺らぎもなく澄み切っていて……。
 雪乃は自身が固めた決心を、正しく宣誓するように、よどみなく俺に告げた。
「わたし、もう家に閉じこもるのは……やめにする。きちんと、外の世界とつながっていけるようになる。それに、家事もきちんと自分でやる。大和に迷惑をかけないように、自分のことは自分できちんとできるようになる」
 雪乃の言葉が、俺の耳の奥にこだまする。
 赤の他人がこれを聞いたら、「何をそんな当然のことを」と言うかもしれない。実際、それが正論なんだろうし。
 けど、そんな当たり前の正論なんか、知ったことじゃない。もうひとりの当事者であり、今まで雪乃と一緒にいた俺だけは、この決心の重さを知っている。
 雪乃は普段から、考えすぎなくらいに熟考を重ねるやつだ。今回の決心だって、心の折り合いをつけるために、自分自身と長く対話してきたに違いない。そして対話を続けた末に、こいつは殻から抜け出る恐怖に負けることなく、足を踏み出すことに決めたんだと思う。
 だったら、俺がきちんと真正面から受け止めてやんなきゃダメだろう。
「大和、今まで迷惑をかけてごめん。それと、わたしのことをずっと助けてくれて、本当にありがとう」
 雪乃は、俺に向かって深々と頭を下げた。
 俺はその謝罪と感謝の言葉を、うれしいような、それでいて寂しいような、なんとも言えない感情のまま受け取った。
 雪乃が前を向いて一歩を踏み出したことは、幼馴染みとして素直にうれしい。けれど同時に、雪乃が俺の助けを必要としなくなっていくことが、勝手なこととわかっていても寂しかった。
 結局俺は、夏希が言う通り〝雪乃の忠犬〟だったようだ。なんてこった! ……いやまあ、さっき〝拠り所〟とか言っちゃった時点で、「なんてこった!」も何もないんだけど。
 それでも、ここで俺が言うべきことはひとつしかない。雪乃は、意思を示した。なら、俺も幼馴染みらしく、こいつの背中を押してやろう。