「それで、〝用事〟って、また雪乃関係?」
「まあな。今朝、頼まれちまって」
頬を人差し指でかきながら、苦笑交じりに正解と告げる。
それで夏希はあきらめてくれたのか、「はいはい、ごちそうさま~」と投げやりに言いながら、手をひらひらと振った。どうでもいいけど、のろけ話でも聞いたかのような反応をするのはやめてほしい。
「雪乃ちゃんって、あれだろ? 大和の幼馴染み。本当にマメだよな、大和は。甲斐甲斐しいっつうか、なんつうか」
「こういうのは、単に尻に敷かれているって言うのよ。本当に、すっかり雪乃の忠犬ポジションが板についちゃって……。情けないったらありゃしない」
「いやいや夏希よ、そこはあれだろ。大和としては、上に乗られたその重みがまた気持ちいい的な? たとえ尻に敷かれようとも、頼りにされることに喜びを感じるんだって」
「それって、ただのドMじゃない。本気でそんなこと思っていたら、ちょっと引くわ」
「……さっきからお前ら、言いたい放題だな!」
黙って聞いていれば、好き勝手言ってくれやがって。
とくに夏希、誰が忠犬でドMだ! 俺は雪乃のペットじゃねぇ!
あと洋孝も、〝オレはわかってるぜ!〟的な理解者面でサムズアップしてくるな。その親指へし折るぞ!
さっきの「いろいろ助かるな~」ってやつ、取り消す。こいつらといると、余計なことを考えるヒマもないくらい疲れる!
「ともかく! そういうわけで、今日は無理! わかったか!」
「はいはい、わかりました。あなたは、心行くまで雪乃の尻に敷かれてきなさい。ミルキーウェイのスコーンは、私と洋孝のふたりでいただいてくるから」
「マジでか! よっしゃ!!」
夏希の仕方ないといった感じのセリフに、洋孝が人目も憚らずガッツポーズを決めた。つい数十秒前まで人をおもちゃにしていたことも忘れて、幸せ絶頂の喜色満面だな。本当にわかりやすいやつだ。
けどな洋孝、今のお前、夏希への好意がだだ漏れだぞ。ここまで露骨だと、さすがにバレるんじゃないか?
夏希の様子を、そっとうかがってみる。
「あら、意外ね。洋孝、そんなにスコーン好きだったんだ」
うん、普通に大丈夫そうだな、これ。洋孝が喜んでいる理由を、明後日の方向に勘違いしていた。心配して損した。
にしても、なんなんだろうな、この優等生。ヒロイン特性みたいものを兼ね揃えているくせに、鈍感さだけはラブコメの主人公並みだ。ここまで露骨にしても気づいてもらえんとか、逆に洋孝が不憫に思えてきたぞ。
と、そんな漫才じみたやり取りを見ている間に、本鈴のチャイムが鳴った。
チャイムが鳴り終わると同時に教室へ入ってきた担任が、「席に着け~」と言いながら、教壇に立つ。
ガヤガヤと騒いでいたクラスメイトたちも、そそくさと自分の席に着いていった。俺たちの雑談も、ここで打ち切りだな。
「じゃあね、大和。またあとで。洋孝も」
「おう。お互い頑張ろうぜ」
俺が応えると、夏希はトリップしたままの洋孝を放置して、軽く手を挙げながら足早に去っていった。
これからテストだというのに、余裕さえ感じられるな。
まあ、あいつの実力なら当然か。本当に、なんでこんな中途半端な進学校にいるのか、不思議でならない。
「――ああ、模試か……。なんでこの世には、模試やらテストやら余計なものがわんさかあるのかな……。神様は、そんなにも俺を補習漬けにしたいのか」
一方、いつの間にか現実に戻ってきたらしい洋孝は、力なく天を仰いでいた。担任が来たことにも気づいていないのか、自分の席に戻ろうとする気配さえない。
こいつの学力は、テストの度に赤点ラインのギリギリ上を低空飛行しているレベルだからな。期末と模試のダブルパンチで、相当こたえているのだろう。
ちなみに俺の学力は、どうにか平均点レベルを保っているので、まだ大丈夫!
「文句言うなよ。いいじゃないか。それが終われば、楽しい放課後が待っているんだからさ。それに、模試に赤点はないから補習もないぞ。――あと、席戻れよ」
「あ、そっか。補習ないじゃん! ラッキー!」
俺がフォローしてやると、洋孝はうれしそうに笑い始めた……その場で。席戻れって部分、聞いちゃいないな。
「んじゃ、サクッと片づけられて、放課後に備えるか!」
「いや、〝片づけられて〟ってお前……。そこは嘘でも〝片づけて〟って言えよ」
「おいおい大和~、あんまりオレを見くびるなよ。相手はこの間の期末テストよりも難しい模試だぜ? やつらの手にかかれば、オレなんて速攻で一捻りだ。抵抗するヒマもないくらい瞬殺だぜ!」
洋孝がとても男前な顔で、びっくりするほどへたれたことを言いやがった。
ある意味名言だな。すっかり自分の席に着いたクラスメイトたちが、尊敬の眼差しで洋孝を見ている。こいつ、将来かなりの大物になるかもしれない。
ちなみに洋孝の意中の人であるところの夏希だけは、呆れた様子で首を振っている。残念だったな、洋孝。
そんな妙に静まり返った空気の中、大きな咳払いが教壇の方から響いた。洋孝と揃って教室前方へ目を向ければ、担任が微妙な表情でこちらを見ていた。
「チャイムが聞こえなかったのか。くだらないことを言ってないで、お前もさっさと席に戻れ、碓氷。話が始められん」
「あれ? 先生、いつの間にそんなところに。気配殺して教室に入ってくるとか、先生もやりますね。全然気づかなかった!」
洋孝が無邪気な笑顔で、担任に「ナイスです!」とサムズアップしてみせる。さっきも俺に向かってやってきたが、これはこいつの癖のようなものだ。一日に最低でも五回くらいやっている。
一方、洋孝からお褒めの言葉をもらった担任は、少し後退気味の額に手を当てて、ため息をついていた。……ちょっとかわいそうに思えてきた。
「お前、そろそろおとなしく席に戻れ。その、なんというか……気の毒だ」
ちらりと先生にいたたまれない視線を送りながら、洋孝に促す。
「おう、そうだな! んじゃな、大和」
俺の言葉の意図を読み取ったわけではないだろうが、洋孝はさわやかな笑顔を残して去っていった。自分は空気読めないくせに、周囲には「仕方ないな」と思わせる空気を作ってしまえるところが、あいつらしい。
ともあれ、洋孝が席に戻る間に、担任も心を切り替えることができたようだ。よどみなく、模試の時間割や注意事項を伝えてくる。
それを聞きながら、俺は手早くテストを受ける準備をした。
窓から見える太陽は、まだ高いながらも南から西の空に傾いてきている。
時刻は午後三時十五分。最後の教科である国語の終了まで、残り十分だ。試験中のため声はないが、誰もができる問題を大体解き終え、どこかふわっとした空気が流れている。担任も六日連続勤務の疲れが出ているのか、眠そうな顔であくびをしながら試験の監督をしていた。
学生になってから何度となく経験してきた、妙に気がゆるむ間だ。俺も大多数のクラスメイトたちと同じく肩の力を抜きながら、窓の外を眺め――。
「――ッ! ……くそ」
唐突に襲ってきためまいと不快感に口もとを押さえて、誰にも聞こえないほどの声でうめきを漏らした。
朝もそうだったが、最近患った発作だ。
赤黒く染まった月。薄闇に染まる空。――の疲れ切った笑顔。見えない時計。風にあおられて宙に広がる長い髪。血の海に沈む……変わり果てた――。
いくつかのイメージが俺の頭の中を揺さぶり、三半規管をマヒさせる。手足の先が冷え、椅子に座ったまま平衡感覚を失い、車酔いでもしたみたいに猛烈な吐き気に襲われる。そして、激しい動悸の苦しさで、全身に嫌な脂汗が浮かんだ。
……完全に油断していた。
発作と言っても、俺のそれは体の不調じゃない。もっと精神的なもの――嫌な記憶のフラッシュバックだ。情けないことこの上ない話だが、ぼんやりして思考停止状態になったりすると、無意識にとある記憶を思い出してしまうのだ。寝ているときに夢に出てくることもあるから、たまったものではない。
とりあえず気を強く持つことでフラッシュバック自体は打ち消せたけど、頭に残る嫌な感じは消えない。
こういうときは、なんでもいいから別のことを考えていた方がいいだろう。ひとまずは目の前の模試のことでいいか。
大きく深呼吸し、机の上に置かれた問題冊子と裏返した解答用紙へ目を落としながら、今日一日のテストを振り返る。
模試の出来は、どの教科もぼちぼちだった。前回のときに本腰を入れて復習していなかったことで、今回も似たり寄ったりの出来になったと思う。
気がかりがあるとすれば、英語のリスニングがいまいちだったことか。なんだかリスニングについては、前よりも少し悪くなった気がする。英語の聞き取りはどうにも苦手だ。このままだと受験本番で足を引っ張りそうだし、ちょっと本腰を入れて鍛えた方がいいかもしれない。
……よし、いい感じだ。だいぶ持ち直してきたぞ。
この勢いのまま、前方――洋孝の方へ目を向ける。俺の三列前に座る洋孝は、開始一時間も経たないころから頬杖をついて居眠りを始めていた。大胆なことだ。あいつのことだから、おそらくわからない問題はすべてスッパリあきらめたのだろう。「部分点なんぞ要らん!」と言わんばかりの思い切りのよさは、ある意味尊敬する。
一方、俺の右斜め前方、廊下側最前列に座る夏希は、解答の見直しをしているみたいだ。横顔を見るに手応えありって感じだから、今回はかなりの好成績を叩き出すかもしれないな。
「……よし。こんなところか……」
小さなつぶやきを漏らしながら、ほっと一息つく。
矢継ぎ早にいろいろ考えたおかげで、気分の悪さはほとんど消えた。平常運転だ。あまりうれしくないことだけど、発作への対応もこの一週間でだいぶ慣れてきた。
同時に時計が三時二十五分を差し、教室に試験終了のチャイムが鳴り響いた。
「そんじゃあな、大和。お勤め、頑張れよ~」
「雪乃によろしく言っといてね、忠犬ヤマ公」
「お勤めじゃねぇよ。それと忠犬でもねぇっての! いい加減怒るぞ、夏希!」
別れの挨拶代わりに俺をイジりながら去っていく洋孝と夏希を、文句交じりに見送る。あいつら、顔を合わせる度に俺をからかわんと気が済まんのかな。おそろしく迷惑な話だ。
もっとも、このふたりは俺からの文句なんてどこ吹く風だ。軽く聞き流して、さっさと教室から出ていきやがった。……覚えてろよ。
「にしても洋孝のやつ、顔面ゆるみまくりだったな。浮かれすぎて、下手なボロを出さないといいが……」
スクールバッグに筆記用具を放り込みながら、さっきの洋孝の顔を思い出して笑う。夏希とふたりで喫茶店へ行くだけだというのに、この世の春というか、呆れてしまうくらい幸せそうな笑顔だった。あれ、絶対にいくつかやらかすぞ。その上で、夏希に無自覚スルーされる姿が目に浮かぶ。
「――っと、やばい。俺もそろそろ行かねぇと」
洋孝たちのコントじみたやり取りを想像して、気色悪い笑顔を浮かべている場合ではない。教室の掛け時計に目をやり、急いでスクールバッグをつかむ。
今日の雪乃の用事は、ちょっとした肉体労働だ。道具も必要だから、一度家に帰って準備しないといけない。夏で日没が遅くなっているとはいえ、それなりに急いだ方がよさそうだ。
人がまばらな校舎を早足に通り抜け、駐輪場に向かう。
自転車にまたがった俺は、まだ西日が厳しい通学路を進んでいく。少し急ごうと思って立ち漕ぎをしていると、西日にあぶられた体から、あっという間に汗が噴き出してきた。制服が体に張りつく。軽く息が上がるころ、ようやく家が見えてきた。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、口をついて言葉が出てくる。誰もいないとわかっているのに、なんでいつも言ってしまうかな。不思議だ。
くだらないことを考えながら、Tシャツとジーンズというラフな格好に着替える。
そうしたら玄関まで戻り、折り畳み式ののこぎりと軍手、虫よけスプレーを紙袋に詰めた。
これら三点セットを持って向かうのは、家のすぐ近くにある寺だ。敷地に入ると、ちょうど住職さんが掃き掃除をしていたので、挨拶がてら声をかけた。
「こんにちは!」
「ん? ああ、連城さんとこの……。はい、こんにちは」
俺が頭を下げると、人のいい住職さんは柔和な笑みを浮かべて挨拶を返してくれた。
両親の代わりに参加する町内会の奉仕活動なんかで会う機会も多いから、この住職さんとはすっかり顔馴染みだ。おかげで今回のお願いも頼みやすかった。ご近所づき合い、すごく大事。
「今朝、お願いしていた件で来たんですけど」
「ああ、裏の竹だよね。十本でも二十本でも、好きに取っていっていいよ」
「いや、細いやつ一本で十分ですから。それじゃあ、ちょっと失礼します」
住職さんへもう一度頭を下げて、寺の裏手に回る。寺の裏にはお墓があり、その奥には小さな竹林があった。今日の目的地だ。
もはや言うまでもないかもしれないが、ここに来た目的は単純明快、七夕飾り用の笹の入手だ。今朝、雪乃が渡してきたメモに【今夜、七夕やる。笹一本用意して】と書いてあったので、学校へ行く前にちょっと回り道をして、住職さんに一本くださいと頼んでおいたのだ。
家から持ってきた虫よけスプレーを全身に吹きかけて、竹林の中に入る。たぶん二階のベランダに飾るんだろうから、立派な竹ではなく小さな笹で十分だろう。長さが二メートルもないくらいで、太さは一~二センチくらいがベストかな。
「お! これなんか、いいんじゃねぇか?」
もともとそんなに広くない竹林だ。ものの数分で見て回ることができ、条件にぴったりの笹も見つかった。
軍手をはめて、のこぎりでギコギコと笹を切る。親指程度の太さしかない笹は、俺でもすぐに切り落とすことができた。
「さてと! そんじゃあ行くか」
無事に目的の笹を手に入れた俺は、意気揚々と竹林をあとにした。
住職さんにもう一度お礼を言って寺を出た俺は、ひとまず軍手やらのこぎりやらをうちの玄関にしまい、そのまま隣の家の門扉をくぐった。
玄関に笹を立てかけた俺は、奥に向かって「雪乃!」と呼びかける。玄関先でしばらく待っていると、二階から雪乃が眠たそうに目をこすりながら降りてきた。
「なんだ、お前。昼間から寝てたのか?」
「うっさいな……。さっきまで勉強してたけど、あんたがなかなか来ないから、待ちくたびれて眠たくなっちゃったんじゃない」
雪乃がぶすっとした表情で、俺をにらみつけてくる。半分以上寝ていた朝と違って意識がはっきりしているから、俺に対する内弁慶っぷりも平常運転だ。
一緒に育ってきたせいか、この幼馴染み、俺に対しては言動から何から容赦がないんだよ。今朝みたいに、いきなり変な要求してくることもあるし。そのくせ、昔から外ではいつも俺の陰に隠れる人見知りっぷり。なんというか、なかなかなつかない生意気な家猫のようなやつなんだ。
まあ、根は素直ないいやつなんだけどな。ただ、とことん不器用で恥ずかしがり屋で、感情をうまく表現できないってだけで……。そんで、周囲につっけんどんな態度を取ってしまうだけで……。でなければ、俺も幼馴染みという理由だけで、ここまで世話を焼いたりしない。
それに雪乃が引きこもりなのも、ある意味では仕方がないことだったりする。
こいつ、今でこそダメ人間だけど、中学時代までは学業において神童と呼ばれたほどの才女だったんだ。その学力たるや、あの夏希をも上回っていたほどだから、相当なもんだろう。
そもそも夏希が俺たちとつるむようになったのだって、小六のときにテストで雪乃に挑んで返り討ちにされたことがきっかけだしな。以来、雪乃と夏希は何度もテストで勝負を繰り返したが、両者満点の引き分けを除いて、すべて雪乃の勝ちだった。
ちなみに余談だけど、この才女、引きこもった今も勉強だけはしっかり続けていて、すでに有名国立大に入れるレベルの学力は有している。夜更かし上等な根っからの勉強フリークなんだ。趣味が勉強なんてやつ、俺はこの幼馴染み以外に知らない。夏希は微妙なレベルだが。
そして何を隠そう、こいつは俺の家庭教師でもあったりする。家事を引き受ける報酬代わりに、勉強の面倒を見てもらっているんだ。俺が高校で平均レベルの成績を維持できているのも、こいつの指導あってこそだ。
とまあ、そんなふうに雪乃は勉学最強だったんだけど、その才能がこいつに与えたのは、恩恵だけじゃなかったんだ。いや、雪乃からしたら、この才能はただ自分を苦しめるだけの厄介者でしかなかったのかもしれない。
その兆しが現れたのは、小学六年の二学期になったころからだった。中学受験をするやつを中心として、雪乃を妬む連中が少しずつ出始めたんだ。
それまで普通に接してくれていた友人が、雪乃の才能を理由に離れていく。それどころか、ときには嫌がらせさえしてくる。
結局、最後までこいつから離れなかったのは、俺と夏希だけだった。
俺や夏希ができる限りフォローをしていたけど、もともと引っ込み思案な性格だ。雪乃が一握りの人間を除いて心を閉ざすまでに、そう時間はかからなかった。中二になるころには学校を休みがちになり、そこへ追い打ちをかけるような事件を経て、中三の夏から完全な不登校かつ引きこもりとなってしまった。
こんな感じで、こいつもこいつなりに、つらい経験をしているのである。必要以上の才能に苦しむ、かわいそうな少女なのだ。
「……何? 今度は人の顔見ながら、妙に優しい笑顔なんかして。すごくキモいんだけど。キモすぎて軽く鳥肌まで立ってきたんだけど」
「お前はほんと、俺の心をえぐるようなことを平気で言うな」
しかも、変質者でも見るような視線つきで……。てか、自分の体を抱きながら、俺から距離を取っていくな! いくら俺がお前の言動に耐性あるっていっても、さすがにちょっと泣きそうだぞ!
「ああもう、悪かったよ。ただ、お前がどんだけダメ人間として落ちぶれても、俺は見捨てねぇって、決意を新たにしてただけだ。気にしないでくれ」
「……あんた、全然人のこと言えないからね。というか、一発ぶん殴っていい?」
「そんなことより、お前に頼まれてた笹、もらってきたぞ」
怒り顔の雪乃をスルーして、靴箱に立てかけておいた笹を指差す。
歳のわりに小さな拳を握りしめていた雪乃も、頼んできただけあってこれは気になっていたらしい。俺への怒りを保留にし、つっかけで三和土に下りてきた。
同じ高さの場所に立つと、こいつの頭の天辺が俺の鼻の頭くらいにくる。髪はぼさぼさだけど、それでも女の子らしい香りがして、少しドキリとした。
そんな俺の動揺になど気づくこともなく、雪乃が笹の葉に手を触れる。その顔には、満足げなほほ笑みが宿っていた。思わずこちらまで笑顔になってしまう。
「どうだ? お気に召したか?」
「まあまあじゃない? ベランダに置くにはちょうどいいかも」
「そうかそうか。じゃあ、お礼の言葉のひとつでももらいたいもんだね。これでも俺、夏希たちの誘いを断って、こいつを取りにいってきたんだぞ」
わざとらしく得意げに胸を張って、雪乃を見下ろす。
べつに、本気で礼を言ってほしいわけではない。うれしそうなこいつを見ていたら、ちょっとからかいたくなったってだけだ。
案の定、雪乃はとたんに仏頂面に戻り、半眼で俺を見上げてきた。もっとも、それも束の間のことで、すぐに明後日の方を向いてしまった。
意外だ。てっきり「うっさい!」とか言い返してくるかと思ったのだが……。
俺が拍子抜けしていると、雪乃はくちびるをもごもごと動かし、やがて小さく口を開いた。
「その……あ、ありが……とう……」
真っ赤な顔でくちびるをとがらせながら、か細い声でお礼の言葉を口にする雪乃。
一方、俺はびっくり仰天。
「おおう! まさか、本当に言うとは思わなかった。明日は雪でも降るのか? 夏だぞ、今」
「……あんた、本当に一発殴られたいわけ?」
再び拳を握りしめた雪乃が、プルプルと震え出した。
いかんな、そろそろマジ怒りだ。さすがに、からかいすぎたか。このままだと本当に殴りかかってきそうなので、ここは素直に謝っとこう。
「すまん、すまん。なんか珍しくしおらしかったんで、ついな。喜んでもらえたなら、何よりだ。暑い中、せっせと運んできた甲斐があったってもんだ」
「あっそ! どうりで汗臭いと思った!」
すっかりへそを曲げてしまったらしい雪乃が、地味に傷つく言葉を残し、家の奥に引っ込んでいく。そんなに汗臭いかな、俺……。こっそりとTシャツの袖のにおいを嗅いでみる。
「大和、お腹空いた! 早く晩ごはん作って!」
奥から雪乃の不機嫌そうな大声が響いてくる。
体が小さいせいか、俺の何倍も頭いいのに妙にガキっぽいんだよな。あと、虫の居所が悪いからか、声量がいつもの二割増しだ。
俺は思わず笑ってしまいながら、靴を脱いで家に上がった。
「雪乃、今日の晩飯は何食いたい?」
「……オムライス」
「はいよ、了解」
手のかかる幼馴染みの要望を聞き、俺は早速キッチンで料理に取りかかった。
いつも通りふたりで晩飯を食い終わるころには、すっかり日が暮れていた。
夜空には雲ひとつなく、天の川がきれいに輝いている。絶好の七夕日和だ。
取ってきた笹を二階のベランダへ運び、雪乃が用意していた飾りを吊るしていく。シンプルだった笹は、あっという間に七夕仕様のデコ笹へと変身を遂げた。
飾りつけが終わったら、次は七夕の醍醐味だ。俺と雪乃はベランダで腰を下ろし、雪乃が用意していた筆ペンで短冊に願い事を書く。
「ねえ、大和。短冊にどんな願い書くつもり?」
「どんなって、普通だけど。〝家族や友達が、みんな元気でいられますように〟って感じのやつ」
「いい子ぶっちゃって、つまんない。もっと他にないわけ? 〝海賊王になれますように!〟とか」
「ほほう、それは漫画の主人公をも恐れない、大それた願い事だな。――で、俺がその願いを書いていたとしたら、お前の反応は?」
「略奪行為を企てている輩がいるって通報したあと、病院を探してあげる」
「うん、そんなところだと思ってた。ちなみに、それやるとお前を世話する人間がいなくなるわけだが、そこんところどうお考えで?」
「ああ、それは考えてなかった。確かにそれは困るかも。じゃあ、間を取って〝立派なハウスキーパーになれますように〟とかはどう?」
「お前、一生俺に身の回りの世話させる気か! 本気でプロになって、きっちり金取るぞ!」
以上、短冊を書きながら交わされた会話である。隙あらば人の将来を誘導しようとするところとか、本当に抜け目ない。意志を強く持って、この無駄に頭がいい幼馴染みの罠にかからないようにせねば……。
なお、人の願いを「つまんない」で切り捨てた当人が何を書いたかというと、〝新しいパソコンが欲しい〟だった。人の願いをどうこう言うつもりはないが、「お前にだけは『つまんない』とか言われたくねぇわ、物欲ヒッキー」と叫びたくなった。
ともあれ、おもしろくなかろうが、物欲にまみれていようが、願い事は願い事だ。ふたつ揃って、笹に括りつける。ピンクと黄色、ふたつの短冊が夜風に吹かれてクルクルと踊った。
笹を飾りつけて、願い事も書いた。七夕としてやることは、これくらいだ。
ただ、これで「はい、終わり!」というのも味気ない。せっかくなので、冷蔵庫から昨日買い置きしておいたわらび餅を取り出してきて、ゆっくり夜空を眺めることにした。
部屋の電気を消し、再びベランダで並んで座り、夜空を見上げる。
車通りが多くない住宅街は、夜になるととても静かだ。それに田舎で光源もそれほど多くないからか、星が意外なほどよく見える。
「あ、てんびん座とさそり座」
雪乃が指で空に線を描きながら言った。
雪乃の両親が天文学者だったこともあって、俺たちは小さいころから星についていろいろと教えてもらってきた。星座を見つけるなんて、お茶の子さいさいだ。雪乃をまねて、俺も指で星々をつなげていく。
「そこがへびつかい座とへび座だな」
「で、あれがはくちょう座とわし座とこと座。デネブ、ベガ、アルタイルで夏の大三角」
わらび餅を食べながら、順番に星座を言っていく。
たまにはこうやってのんびり星空を見上げるのも、悪くないな。心が洗われるとまでは言わないが、少なくとも気が休まる。雪乃の〝七夕やる〟宣言に乗っておいて正解だった。
時計を見ていないから、どれだけ時間が経っているのかも、よくわからない。十分か二十分か、それとも一時間以上経っているのか。
星座もあらかた見つけ終わり、気がつけば俺たちはただ黙って星空を見上げていた。
俺も雪乃も口を開かないが、この沈黙がどこか心地いい。雪乃と一緒に、こうして星を見ていられる。そんな小さなことが、今の俺にはたまらなく幸せに感じられた。
「そういやさ……」
ふと天に向けていた視線を下げる。そこには、あどけなさが残る表情で空を見上げる雪乃の顔があった。
俺の発した言葉に、雪乃は「ん?」と星空に心を奪われたまま応じる。一応耳には届いているようなので、俺も構わずに続けた。
「なんで急に『七夕やる』なんて言い出したんだ? お前、この二年間は誕生日だろうがクリスマスだろうが正月だろうが、まったく気にしなかったじゃん」
雪乃が引きこもり出してからの日々を、ふと思い出す。
こいつ、家から出ないせいで月日や曜日の感覚が抜け落ちたのか、基本的にこの手の記念日的イベントにはまったく反応しないんだ。
一度誕生日にサプライズパーティを仕掛けたときなんて、なぜか「なんか学校でつらいことでもあったの? 家でゆっくり休みなさい」とガチで心配されてしまった。あれは……うん、サプライズを仕掛けるつもりが、逆にサプライズかまされた気分だった。ショックのあまり、ちょっと本気で泣きたくなったよ。
「なのに、今回はお前からのリクエストだったから、驚いたっていうか……。まあ、個人的にはいいことだと思うんだけどな!」
なんか暗に「お前には似合わない」って言っているみたいになってしまったので、あわてて最後にちょっとおどけた感じの言葉を加えておいた。
そうしたら、雪乃はくすりと笑いながら空を見上げるのをやめた。俺と同じく視線を下げた雪乃は、そのまま筆ペンと予備の短冊を手に取り、何かを書き記し始めた。
「本当は、もうちょっとしたらこっちから切り出すつもりだったのに……。あんたには、いつも都合やら予定やらを狂わされてばっかよ」
「いや、『都合やら予定やらを狂わされて』って、どの口がそれをほざくかよ。今の俺の人生、わりとお前を中心に回ってますよ?」
「うっさい! 知ってるわよ、そんなこと。独り言にツッコミ入れてくんな。どんだけ野暮なのよ」
笑顔を引っ込めて言い返してきた雪乃に、「へいへい。悪うござんしたね~」と誠意のかけらもない謝罪を入れる。
筆ペンをサラサラとよどみなく動かしつつ、こちらのツッコミにもきっちり噛みついてくるとは、相変わらず器用なものだ。
それと、俺をこき使っていることを自覚している点は、ひとまず水に流しておいてやろう。感謝しろよ、雪乃。
「それで、『切り出す』って、何をだよ。明日の晩飯のリクエストか?」
「んなわけないでしょうが! なんで短冊書きながら、晩ごはんの希望出さなきゃいけないのよ。いいからちょっと黙ってなさい!」
もともとつり目気味の目をさらにつり上げて、雪乃がキレた。言われた通り、おとなしく雪乃が短冊を書き終えるのを待つことにする。
かなりたくさんのことを書き込んでいるようで、雪乃の手はなかなか止まらない。筆ペンを巧みに操るその表情は、真剣そのものだ。
そんな雪乃の横顔を眺めていると、不意に筆ペンを持つ手が止まった。どうやら願い事を書き終えたらしい。
筆ペンを置いた雪乃は、短冊を大事そうに持って立ち上がる。そして精一杯背伸びして、短冊を笹の一等高い場所に括りつけた。
笹の一番高いところに吊るされた短冊は、他の飾りと同じく夜風にはためく。
「どうして七夕をやりたいなんて言ったか、だけどさ……」
くるりとこちらに振り返った雪乃が、やや張り詰めた表情で座ったままの俺のことを見下ろした。澄んだ黒い瞳が、俺を映しているのがわかる。
ボサボサ頭とダボダボのスウェットは変わらないのに、星空を背負ったその姿はどこか幻想的だ。七夕チックに言えば、まるで織姫みたい……というのはさすがに盛りすぎかもしれないが、少なくともきれいだとは思う。雪乃相手に認めるのは悔しいんだけど、一瞬胸が高鳴ってしまった。
「正直なところ、七夕自体はどうでもよかった。笹に願い事吊るすだけのイベントに、大した思い入れなんてないしね」
「それじゃあ、なんで……」
「固めた決心を明かすには、ちょうどいい感じのイベントだったから、かな……。せっかくなんで使わせてもらった」
「……決心?」
「そう。心を決めると書いて、決心」
俺が首をかしげると、雪乃は短冊を書いていたときと同じく真剣な面持ちで、こくりとうなずいた。
雪乃が、今この瞬間にも変わろうとしている。何か、自分の殻を破ろうとしている。普段より大人びたこいつの表情に、そんな予感を覚える。
「あんた、さっき言ってたでしょ。『今の俺の人生、わりとお前を中心に回ってますよ』って」
「ああ……。あ、もしかして気にしたのか? べつに俺が勝手にやっていることだから、お前が気にする必要はないぞ。代わりに勉強だって教えてもらってるから、俺の方こそ助かってるくらいだ」
正直なところ、さっきの発言はほとんど悪ノリで言ったものだ。それがもしも雪乃に罪悪感を抱かせてしまったなら、きちんと否定しておかなければいけない。
確かに俺の生活は学校と雪乃を中心に回っているけど、俺はそれを嫌だと思ってなどいない。
むしろ、今の生活の在り方を心地よくさえ思っている。両親が不在のことも多い俺にとって、雪乃と一緒に飯を食ったりしていると、疑似的にでも家族の団欒を感じることができるから。
俺にとって、雪乃との生活は拠り所なんだ。夏希や洋孝とは違う、俺が自分らしく安らげる、大切な場所と時間……。
「でも、わたしのせいであんたに時間がなくなっているのも事実よ。今日だって、わたしのワガママがなければ夏希たちと遊びにいけたんでしょ?」
まるで俺の思考を読んでいるかのように、雪乃が痛いところをついてくる。
いや、実際に俺の表情から思考を読んだのだろう。こいつ、頭がいい上に、よくも悪くも周囲の注目にさらされてきたから、人の顔色を読むのが得意なのだ。
というか、それ以前に余計なことを言うんじゃなかった。ほんと、俺のバカ! あのとき自分が取った態度を考えると、この状況で否定はできない。
俺が黙っていると、雪乃はどこか申し訳なさそうに話を続けた。
「お父さんとお母さんが死んでから二年間、わたしはずっと大和の厚意の上にあぐらをかいていた。家庭教師をやってるだけじゃ返し切れないくらい、ずっと大和に甘えてきた」
「いや、べつにそんなことは……ないとも言い切れないが……。確かにけっこう、あごで使われてきたが……」
勢い込んで割って入ってみたけど、結局何もかける言葉を見つけられない俺。超かっこ悪い。
雪乃からは、「無理しなくていい」と呆れ混じりの苦笑を向けられてしまった。
「だから今日、天の上のバカップルに短冊を叩きつけることで、決心を固めることにした。天国にいるお父さんとお母さんにこれ以上心配かけないよう、自分を変えることにした」
そう言い切った雪乃の瞳は、一切の揺らぎもなく澄み切っていて……。
雪乃は自身が固めた決心を、正しく宣誓するように、よどみなく俺に告げた。
「わたし、もう家に閉じこもるのは……やめにする。きちんと、外の世界とつながっていけるようになる。それに、家事もきちんと自分でやる。大和に迷惑をかけないように、自分のことは自分できちんとできるようになる」
雪乃の言葉が、俺の耳の奥にこだまする。
赤の他人がこれを聞いたら、「何をそんな当然のことを」と言うかもしれない。実際、それが正論なんだろうし。
けど、そんな当たり前の正論なんか、知ったことじゃない。もうひとりの当事者であり、今まで雪乃と一緒にいた俺だけは、この決心の重さを知っている。
雪乃は普段から、考えすぎなくらいに熟考を重ねるやつだ。今回の決心だって、心の折り合いをつけるために、自分自身と長く対話してきたに違いない。そして対話を続けた末に、こいつは殻から抜け出る恐怖に負けることなく、足を踏み出すことに決めたんだと思う。
だったら、俺がきちんと真正面から受け止めてやんなきゃダメだろう。
「大和、今まで迷惑をかけてごめん。それと、わたしのことをずっと助けてくれて、本当にありがとう」
雪乃は、俺に向かって深々と頭を下げた。
俺はその謝罪と感謝の言葉を、うれしいような、それでいて寂しいような、なんとも言えない感情のまま受け取った。
雪乃が前を向いて一歩を踏み出したことは、幼馴染みとして素直にうれしい。けれど同時に、雪乃が俺の助けを必要としなくなっていくことが、勝手なこととわかっていても寂しかった。
結局俺は、夏希が言う通り〝雪乃の忠犬〟だったようだ。なんてこった! ……いやまあ、さっき〝拠り所〟とか言っちゃった時点で、「なんてこった!」も何もないんだけど。
それでも、ここで俺が言うべきことはひとつしかない。雪乃は、意思を示した。なら、俺も幼馴染みらしく、こいつの背中を押してやろう。
「お前の決心は、よくわかった。お前がそう決めたなら、俺は全力でお前を応援する」
「大和……」
顔を上げた雪乃が、ふわりとほほ笑む。安心しきった子どものような表情だ。こいつのこんな顔を見るのは、いつ以来だろう。胸の真ん中が、ぼんやりとあたたかくなる。
けど、俺はそこで、あえて「でもさ……」と言葉を継いだ。
「自立するのはいいけど、実際のところどうするつもりだよ。外に出るのはいいとして、家事のやり方、お前わかるのか?」
「そんなの、やろうと思えばなんとかなるでしょ。実際、あんただって普通にできるようになったじゃない」
俺の素朴な疑問に、雪乃がさも当然のように答える。
いやまあ、確かにやろうと思えば、そこそこなんとかなるんだけどね。それでも例えば掃除とか、この家や家具に合わせたやり方なんかもあったりするんだよ? これでも俺、家事についてそれなりに研鑽を積んできたんだよ?
――てなことを説いてやったら、雪乃はめんどくさいという感情がにじみ出た呆け面になった。
ダメだ、こりゃ。ほっといたら、ひどいことになる気がする。
「まあ、そこら辺は俺が教えてやるよ。その方が、一から自分で調べて覚えるより早いだろ?」
「は? いや、それはダメでしょ。大和に迷惑かけないように自立するのに、教えてもらってたら意味ないじゃん」
「いいんだよ。自立に向けての支援は、迷惑とは言わん!」
「けど、あんたに教わるとか、わたしのプライドが……」
「二年間散々だらしないところ見せといて、今さらプライドも何もあったもんじゃねぇだろうが。第一、こうでもしないと――ッ!」
会話の流れで思わず出そうになった言葉を、あわてて飲み込む。
危なかった。今の俺、とんでもなく恥ずかしいことを口走るところだった。
「こうでもしないと……何よ」
しかし、残念ながらうちの幼馴染みは、そんな俺の隙を見逃してはくれなかった。「だらしない」と言ったことに対する仕返しのつもりか、〝吐け〟と端的に目力で訴えかけてくる。
こちらも最後の抵抗とばかりに頬をかきながら視線をそらしたが……あきらめずそらした先に回ってのぞき込んできやがった。喰いついたら離さない。スッポンみたいなやつだ。
「男だったら言いかけたことくらい、はっきり言ったら? 中途半端に隠し事されるのって、すごいストレスなんだけど」
「いや、隠し事ってのはオーバーな……。べつに大したことじゃ……」
「言え」
この幼馴染み、最後はこちらのセリフをさえぎりつつ、女の子にあるまじきドスを利かせた直球で来ました。こいつの目力、さっきから半端ないな。逃がす気ゼロだわ。これ以上の抵抗は、残念ながら無駄っぽい……。
「ええと、家事を教えるとかでもないと……」
「でもないと?」
「俺がこっちに来る理由がなくなってしまうというか、なんというか……」
せめてもの抵抗でまた視線をそらしながら、ボソボソとさっき言いかけた言葉の続きを告げる。
すると雪乃は即座に怪訝そうなお顔をされ、心底冷たい声で「……は?」と漏らした。なんだろう。雪乃の視線がチクチクと、いや、ザクザクと突き刺さってくる。正直、心が痛い。
「だって仕方ないだろう! なんだかんだ言って、最近はお前と晩飯食うのとかが習慣化しちまったし。今さらあのだだっ広い家でぽつんとひとり晩飯とか、なんか寂しいだろうが!」
そのあまりのいたたまれなさのためだろうか。知らんうちに口をついて、言い訳が飛び出していた。
俺の冷静な部分が、「余計なことを……」とつぶやきながら頭を抱えている。
本当に何言ってんだろうね、俺。べつにこっちへ来るだけなら、今まで通り勉強教えてもらうためとか理由はいろいろあるだろうに、よりによって「寂しい」とか……。
ほら、雪乃の表情が、だんだんゴミでも見るような感じになってきて……。
「うわ……。あんた、意外と女々しいこと考えてんのね。普通にキモいんだけど。さすがに引くわー……」
「わかってるっての! 自分でもちょっとやばいんじゃねぇかって思ってるよ! だから言いたくなかったんだ!」
自分の体をかき抱いてこちらの心をえぐってくる雪乃に、勢い任せでがなり立てる。夜中に近所迷惑? 知るか、そんなもん!
ちくしょう。本当にちくしょうだよ……。プライド云々を言うなら、確実に俺の方がズタズタだっての。なんだよ、この羞恥プレイ。
さすがに精神的ダメージが大きすぎて、その場で膝を抱えてしゃがみ込む。穴があったら静かに入りたい……。
ただ、そんな俺の様子がおもしろかったのか、頭の上から雪乃のおかしそうな笑い声が聞こえてきた。
「お前、この場面で笑うとか、さすがに性格悪すぎないか?」
「ごめん、ごめん。でも、あんたの自爆と情けない顔がおかしくて」
「うん。この期に及んで追い打ちかけてくるとか、俺もびっくりだわ。お前、俺に対してだけは本当に容赦ないな!」
こんなのの面倒を二年間も見てきたとか、俺、どんだけお人好しなんだろう。忠犬すぎるにもほどがあるだろう。
恨みがましく雪乃を見上げるも、この性悪は大笑いを続けるのみだ。
さっきまではシリアス気味のいい感じな場面だったはずなのに、一分足らずでなんだこの急展開。決意表明の場が一転して赤っ恥公開処刑(俺の)とか、普通ありえんだろ! 自業自得だけど、俺がかわいそうすぎる!
「はあ~、笑った……。でもまあ、そういうことなら仕方ないか。恩人の幼馴染みを寂しがらせるのもかわいそうだし」
「かわいそうな子扱いするな!」
目もとの涙を指ですくう雪乃に、逆ギレ気味のツッコミを入れる俺。なんかもう、ダメダメでグダグダだ。
「あんたがそこまでわたしに会いたいっていうなら、わたしも恥を忍んであんたに家事を教わってあげることにしましょう。感謝しなさい」
偉そうにふんぞり返るチビヒッキー。教わる側の態度じゃねぇだろ、それ。
「……さっきはああ言ったが、俺はそこまで豆腐メンタルじゃねぇ。あと、なんで俺が感謝せにゃならんのだ」
「照れない、照れない。だから、まあ、その……」
雪乃が、不意にこちらから目をそらした。髪の毛の先をクルクルと指に巻きつけたりして、妙に挙動不審だ。つい今し方の俺っぽい。
急にどうしたのかと思っていると、雪乃は親愛がこもった口調で、こう言った。
「……いつまでになるかわからないけど、これからもよろしく」
俺に対しては傍若無人な雪乃らしからぬ口調と言葉に、思わずその顔を見上げる。
さっき俺は、満天の星空を背負ったこいつを、少なくともきれいだと思った。けれど、今のこいつは――天真爛漫にほほ笑んだこいつは、まぎれもなくきれいだと、心から素直にそう思えた。
その笑顔に当てられたまま、足腰に力を入れて再び立ち上がる。
今さらかっこつけようとしたって滑稽なだけだけど、それでも精一杯取り繕って、俺は雪乃にほほ笑み返した。
「まあ、これも幼馴染みの好みだ。ここまで来たら、とことんつき合ってやるよ」
「はいはい、〝好み〟ね。そういうことにしといてあげるから、慣れないかっこつけなんかやめとけば? 寂しがり屋」
「うっせえよ、引きこもり」
互いのことをけなし合いつつも、それ自体がおかしくて、どちらからともなく笑い合う。
笑いながら見上げた星空は、さっきまでよりも少し輝いて見えた。
真上家を出るころには、夜の十時を回ってしまっていた。
自分の家に戻った俺は、玄関にほったらかしにしていたのこぎりや軍手を片づけ、さっさと風呂に入った。今からお湯を張るのも面倒なので、今日はシャワーで済ませてしまう。
風呂から上がって髪を乾かしたら、キッチンで麦茶を一杯飲んで、自室に戻る。
勢いのままベッドに倒れ込むと、そのあまりの心地よさで一気に睡魔が襲ってきた。
「……ああ、いけない。まだ、やることがあった」
眠気を払うように声を出し、ベッドから下りる。一度あくびをして眠気を払った俺は、机の上に置いたままのノートを開いた。
傍らのボールペンを手に取り、ノートに書かれたとある文章に完了を示す線を引いていく。
文章に線を引き終えた俺は、あらためてそこに書かれていた自分の字を目で追った。【七月七日、雪乃が引きこもり脱却を宣言する】という、その文章を……。
そう。俺は……今日、雪乃が自分を変えると宣言してくることを知っていた。
なぜなら俺はすでに一度、ほぼ同じことを経験済みだからだ。
無言のまま、視線を机の横へとずらす。そこには、壁掛けタイプのカレンダーがあり、二十八日に黒いマジックで丸が打ってあった。
その丸を目に焼きつけて、再びノートへと目を落とす。ノートには、これから二十八日までに起こる主な出来事を箇条書きで記してある。
そして……その最後の行には、こう書いてあった。
【七月二十八日、雪乃が天根市展望台で飛び降り自殺する】
自分で書いたその文章を、俺は拳を固く握りしめたままにらみつける。
七月二十八日――今日からちょうど三週間後のこの日に、雪乃は自殺したのだ。それも、俺が見ている目の前で……。
雪乃の自殺を意識した瞬間、頭を空っぽにしたわけでもないのに、例の発作が起こった。
赤黒く染まった月。薄闇に染まる空。雪乃の疲れ切った笑顔。見えない時計。風にあおられて宙に広がる長い髪。血の海に沈む……変わり果てた幼馴染みの亡骸。
激しい動悸と息切れを起こしてめまいがする中、その光景だけはすべて鮮明に思い出すことができる。
気がつけば、ノートに玉の汗が滴り落ちていた。震える手でノートに落ちた汗を拭い、机に手をついて息を整える。
そうだ。このままでは、あとたった三週間で、雪乃はこの世からいなくなってしまう。
それを阻止できるのは、この未来を経験した上で七月一日まで戻ってきた俺だけだ。
「この〝二度目〟の七月で俺がやるべきことはふたつ。〝歴史を極力変えずに二十八日まで過ごす〟と〝雪乃の自殺の原因を探り、自殺の実行を阻止する〟……」
この一週間考えてきたルールを、口に出して復唱する。
歴史を変えないようにするのは、その影響がどのように及ぶかわからないからだ。極端に言えば歴史が変わった結果、雪乃が二十八日より早く、もしくは俺の手の届かないところで自殺してしまう可能性がある。そうなったら目も当てられない。
もっとも、俺はそこまで記憶力がいいわけではないから、やり直し前の――〝一度目〟の七月とまったく同じ行動を繰り返すのは不可能だ。現に今日の雪乃との会話だって、〝一度目〟のときに交わしたものとは微妙に違っていた。というか、〝一度目〟の七夕のときは、あそこまで自爆しなかった。
だから最低限できることとして、この期間に俺と雪乃の周りで起こった主な出来事とその結果は変えないように行動していく。それだけでも、大きな歴史の変化は防げるはずだから。
その上で、なぜ雪乃が自殺したのかを探っていく。
幸い、これについてもひとつ大きな心当たりがある。だからそこを中心に探っていき、俺なりに自殺の原因を取り除く。ここに関わる部分だけは、歴史の改変もためらわない。もし原因を取り除くことがかなわないなら、ひとまず二十八日の自殺を阻止する。そのあとは、雪乃がバカな行動を起こさないよう、見張るなり説得するなりを重ねていけばいい。
「……お前にどんな事情があるのかは知らない。これが、俺の自己満足だってこともわかってる。――けど、俺の前でもう二度と死なせたりしないからな、雪乃」
ノートを閉じながら、誰に聞かせるでもない決意を口にする。
この事実を知っているのは、俺だけ。だから、他の誰にも頼ることはできない。俺ひとりの力でやり遂げるしかない。どれだけ難しくても、ひとりでやるしかないんだ。
短冊には書かなかったが、俺も雪乃と同じく、あいつをこの手で助けることを天にまたたく星たちに誓った。