清潔で静かな廊下は消毒液の匂いが微かに漂っていた。冷たく無機質で緊張感が漂う。

 僕はしばらく映見の部屋の前で佇む。

 深く深呼吸をしてから、大きなスライドのドアをノックした。返答がなかったので、取っ手に手をかけそっと引いた。

 機械音が耳に入ってくるのと同時に窓際にあるベッドが見えた。足を踏み入れ恐る恐る近づけば、機械の装置に繋がれた女の子が横たわっていた。

 これが映見だ。

 それは僕が記憶を失っていても、そのいたたまれなさに胸が酷く痛んだ。ベッドに横たわる姿は、僕にとって衝撃的な光景だった。

 僕は震えながら近づき、そっと顔を覗き込むと、映見は目を見開いていた。

 僕がびっくりして息を喘いでいると、側で声がした。

「植物状態は自分で息をしたり、目を開けたりするんだ」

 僕が驚いて振り返れば、そこに神野が立っていた。

「神野、いつここへ入ってきたんだ。僕の後をつけていたのか?」

「先回りして待っていたって言ったらびっくりするか?」

 僕よりも早くここへ来た? そんな馬鹿な。だったらなぜ僕の後ろにいるんだ。

「透、覚悟はできてるか?」

「覚悟?」

「そうだ、全てを思いだす覚悟だ」

「なんで神野がそんなこと言い出すんだよ」

 僕が混乱しているのに、神野は不敵に笑みを浮かべていた。

「だって、俺がお前の記憶を消したからだ」

「なんだって。そんな事できるはずが……」

「できるんだよ。だって俺は死神だから」

 僕の息が激しく喘ぐ。驚いている僕とは対照的に神野は冷静に僕を見ていた。それは冷酷さを帯びたように僕を鋭く捕らえた目だった。

「死神は僕なんじゃないのか?」

「透は死神なんかじゃない、たまたま死を迎えている人の傍にいただけだ。そしてそう仕向けたのが俺だ」

 僕はまだこの状況が理解できてない。

「お前は小さい頃から俺に会っていた。幼稚園で和香ちゃんと俺が一緒に話をしていたのを見た事があるだろう。郁海ちゃんの家の前で宅配便の配達をしていた俺とすれ違った事があるだろう。中学一年のとき教育実習でやってきた俺と話をしただろう」

「あれは全てお前だったのか」

 思い出せばなんとなく神野の顔のような気もしないではない。そういわれてもどうしてもピンとこなかった。

「死神の姿を見ても普通の人だと印象には残らないんだ。だからある程度の時間が経つと記憶がリセットされて、何度会っても別人として認識してしまう」

「なんで僕の側にいつも現れたんだ」

「透はわれわれ死神からしたら選ばれた特別な存在だからさ。そういう存在を俺たちは敬意を込めて『おくり人』と呼んでいるんだが、そんなこと急に言われても唐突すぎるよな」

「『おくり人』?」

 僕は繰り返す。

「そうだ、死を迎えた人間が最後を幸せに暮らす手伝いをする役割を担う存在のことだ。みんな透を好きになって、幸せの中で生涯を終える。俺たち死神は人生最後のはなむけに恋を贈ってやるんだが、それを『贈り恋』と俺たちは呼んでいる。その『贈り恋』を与えるためには、相手がどうしても必要になってくる。それが『おくり人』として透のような偏見を持たない優しい奴が選ばれるんだ。ちなみに『おくり人』というのは送信する意味の『送る』と与える意味の『贈る』のダブルミーニングさ」

「勝手にそんなこと言われても」

「だから、何度も言っただろ、透は死神じゃないって」

 神野はようやく話が通じたと軽く口角を上げた。

「それで僕をずっと利用してたのか」

「その言い方は聞こえが悪いけど、事実だから仕方ない。だけど、透は死神にとっても救世主の役割をはたしているんだ。特に小さい子や若い女性の生涯を閉じさせるのは偲びない。でも最後に幸せを与えたと思えば我々だって割り切って仕事ができるんだ。透はまさに色んな意味でみんなを助けてくれた」

「そんなの勝手すぎるよ」

 そのせいで僕はいつも悩んで苦しんで、いじめられた。急におくり人と呼ばれて、人や死神を助けたといわれても全然嬉しくない。

「だから俺が傍にいて力になろうとしたじゃないか。教育実習生として近づいてお前を庇った。友達になったのもそうだ。俺が言った言葉は全て本心だ。透には感謝して、お前の事を心から親友だと思っていた。今回だって、俺はできる限りの事をしてお前を助けようとしたんだ。ただ必ずしも透の思うように助けられるとは限らなかっただけさ」

 その時「あー」と声が聞こえた。僕は映見に振り返り、そして電気が体に走ったようにはっとした。

 映見が着ていた黄色いパジャマが意味をなして僕の目に飛び込んだ。買い物に一緒に行ったときの映像がフラッシュバックする。あれは僕が選んだものだ。

 その時全ての記憶が鉄砲水のように戻って、僕はその衝撃にふらついた。