昨日のサッカーのお陰か、その後気持ちが幾分和らいでいた。必死になって不機嫌さを映見に見せたところで次上手く行く保障もない。苛々するよりも、一発逆転を念頭に余裕を持つ方がましだと思った。
常に正念場でドキドキして震えてしまう性質の僕には、正常心を保つ事が今の自分に必要なことなのではないだろうか。
サッカーで僕が最初に点数を稼いで、映見は悔しがるどころか、親指を立ててよくやったと褒め称えていた。映見には余裕があって、だから失敗なんてしそうにない。
今は何も考えず、心の落ち着きを保てるかが重要だった。自分との戦い。息を深く吸い、ゆっくりと吐きながら、僕は映見が指定した場所にやってきた。
ここはいろんな店が集まる商店街だ。通りに面した入り口は賑やかに見えたけど、屋根がある下を真っ直ぐ歩いているとシャッターが下りている店も所々にあった。
自転車がマナーなく好き放題に時々走っている。それを避けながらよたついていると揚げ物の匂いが鼻をかすめていった。
ふらふらとそこについ誘われれば、狐色に程よく上がったコロッケが料理用バットに並べられていた。ジュッと揚げたてのそれを見ると急にお腹がすいてきた。
一旦は通り過ぎたが、揚げたてを見てしまった後では無性に食べたくなってくる。いや、今はそんな暇はない。平常心平常心。ぶつぶついいながらも、お腹がグーと鳴り響いていた。
これでは余計に気が散りそうだ。ひとつ買って食べながら映見を待ってもいいかと思って振り返ったら、映見がそこでコロッケを買っていた。
「はいコロッケふたつお待ちどうさま。揚げたてで熱いから気をつけてね」
「美味しそう。ありがとう」
お金を払い、映見は白の四角い袋に入れられたコロッケをふたつもって僕のところにやってきた。
「はい、どうぞ」
僕にひとつ手渡すと、はふはふと自分の分をすぐに食べ出した。
「いつから居たんだよ」
「コロッケ屋の向かいの店にいたよ。ほら、そこ、かわいい小物が売ってるでしょ。そしたらさ、私の目の前をコロッケに気をとられながら素通りしていくからびっくりしちゃった。コロッケ食べたかったんでしょ」
にこっと微笑まれて言い返せなかった。
誤魔化すように手にしたコロッケをかじれば、さくっとした衣とホクホクしたポテトが美味しくて益々戸惑った。映見にはことごとくやられっぱなしだ。
だけどこのコロッケは美味しい。ばあちゃんが作るコロッケも美味しいけど、また何かが違う。
「このコロッケなんでこんなに美味しいんだ」
「これ、ラードで揚げてるからだよ」
「ラード?」
よくみればそこはお肉屋さんでもあった。
「この風味はラードで揚げるから衣に肉の香りが染み付いて口の中で甘みが広がるんだよね」
料理評論家のように映見は説明してくれるけど、そのコロッケの衣が口元についたままだ。
気づいてないその姿がおかしくて、僕はポケットからカメラを出し、無邪気にコロッケを頬張ろうとしている映見の写真を撮った。
「あっ、食べてるところ撮るなんて反則。そんな事にチャンスを使っていいの?」
僕は自分の口元に手をあて、パン粉がついている事を知らせる。
「えっ、ついてるの?」
映見は恥ずかしそうに口を慌てて叩いていた。
「幸せいっぱいの顔をして暢気に食べてたからだぞ」
「だって幸せなんだもん」
開き直ってまた大きな口を開けてかぶりついていた。
その時、映見がいつもと違うように見えた。何か違和感があるのに、それがはっきりわからない。気のせいかもしれないと僕は深く考えようともせず残りのコロッケを口に頬張った。
今日もまた賭けの一枚が撮れないまま、カメラのフィルムは残り九枚となった。
でもそんなに悔しくなかった。寧ろ、映見の恥ずかしい写真を撮ったみたいに優越感だった。まずは余裕が肝心。捨て駒みたいなもんだ。
「今日は落ち着いているね」
「まあね」
僕は残りのコロッケを全部口にいれ、ゆっくりと舌で味わった。
「そういえば、私が植えた種、どうなってる?」
映見もコロッケを食べ終わり、口元を軽くはたいていた。
「種? さあ、知らないけど」
「そろそろ芽がでるころだと思うんだけど、ちゃんと水あげてる?」
「そんなに気になるんだったら見に行けばいいじゃないか。ばあちゃんも映見がきたら喜ぶし」
「いつも押しかけちゃ悪いから遠慮しとく。その代わり、写真撮ってメールして」
「気が向いたらな」
僕のサービス精神のない態度に映見は不服そうだ。
「とにかくコロッケの恩も含めて忘れないでよ」
コロッケは確かにおいしかった。そういえばお礼を言うのを忘れていた。でもすっかり言うタイミングを逃して言えないまま別れてしまった。それが心残りで落ち着かない。スマホを取り出し、帰りの電車の中でメールを打った。
――コロッケ本当に美味しかった。ありがとう。
送って数秒もしないのに、返事はすぐに返ってきた。
――どういたしまして。
パン粉を口の端にひっつけた映見の顔が浮かび、僕はインスタントカメラを手にして暫くそれを見つめていた。