翌朝、目が覚めると、私はどこかの和室で寝かされていた。世話をしにきた面布衆に状況を尋ねると、どうやら私は、あの後、気絶してしまったらしい。
「旦那様が、心配されておりました。今日からは、寝室は別で構わないと」
「そうですか……」
手触りからして、相当上等な品だとわかる着物に着替えて、戸惑いながらも、朝食が用意されているという部屋に向かう。
恐る恐る室内を覗くと、そこにはすでに朧の姿があった。
「……昨晩は怖がらせてしまったようだ。すまない」
「い、いいえ。こちらこそ、怖がってしまってごめんなさい……」
おずおずと、朧の正面に設えられたお膳の前に座る。ちらりと朧の表情を窺うと、昨晩見たのと同じ無表情。特に怒っている様子はない。
――あれ。
しかし、どこか違和感を覚えて、まじまじと彼の様子を観察した。
なんだろう、どこかしょんぼりしているような……?
でも、朧の表情にはなんの感情も浮かんでいない。不思議に思って、更にじっと朧を見つめる。
「なんだ」
すると、朧は片眉をピクリと動かすと、私を見返してきた。
「あ、いや。すみません……」
――うっかり見すぎてしまった。
誤魔化すように、慌てて箸を取る。
けれど、どうにも気になって、性懲りもなく朧を覗き見た。
……あ。もしかして。
結婚式の時は、しゃんと伸ばされていた彼の背中。それが、僅かに丸まっている。だから、落ち込んでいるように見えるのかも知れない。
『化け神さんは、とても優しいお方ですから』
ふと、面布衆の言葉が脳裏に蘇ってきて、胸が重くなる。
確かに、見た目は怖いかも知れないけれど、夫には、まだなにもされていない。無闇矢鱈に怖がって、朧を傷つけてしまったのかも知れない。思い返せば、昨晩は一方的に質問をするばかりで、彼の話を落ち着いて聞こうともしなかった。
――でも、怖いものは怖い。
後悔と、罪悪感に苛まれながら、用意された朝食を口にする。お膳に乗っているのは、まるで旅館で出てくるような上品なメニューだ。朝から手間暇かけて作ったのだろう。これを個人宅で食べられるなんて、と感心する。
おもむろに手に取った椀には、すまし汁が満たされている。柚子の香りが鼻をくすぐり、添えられた三つ葉の色がなんとも色鮮やか。これはきっと、鰹節の一番出汁だ。口に含んだ途端、ふくよかな香りが一斉に広がり、塩気もほどよく、目覚めたばかりの胃を優しく温めてくれる。いち食堂で働いていた私には、とてもではないが作れない味だ。
ふと、母の作る野菜たっぷりの味噌汁を思い出した。
根菜やら葉物やら、店で余った切れ端をたくさん入れた、具沢山の味噌汁。食べると、それだけでお腹がいっぱいになるくらいだった。子どもの頃は、切れ端なんてと思ったけれど、歳を取るごとに好きになっていった。
……ああ、また食べたいなあ。
その時だ。誰かの視線を感じて、顔を上げる。
すると、朧とバッチリ目が合ってしまった。
「……」
朧はなにも語らず、じっと私を見つめている。なんだか気まずくなって、視線をお膳に落とす。もしかしたら、落ち込んでいるのがバレてしまったのだろうか。相手は神様だ。人間の考えなんて、お見通しなのかもしれない。
私は、歯ごたえのいい沢庵を思い切り噛み締めると、気分を切り替えることにした。
ウジウジしているのは、性に合わない。前向きに、自分のできることを。
朧も一年でいいと言ってくれた。なら、この限られた時間を、精一杯有意義に過ごそう。そして、無事に家に帰ったら、食堂をまた再開するのだ。
とりあえずは、私になにができるのかの確認だ。この家は、どうにも普通とは違う。勝手なことをして、不興を買ったら堪ったものではない。
「あの、朧……さん」
「朧でいい」
「では、朧。私は、今日からなにをすればいいのでしょう。普通の奥さんのように、家事炊事洗濯をすればいいのですか?」
すると、朧は一瞬遠くを見ると、黙り込んでしまった。どう答えが返ってくるかと、ハラハラしていたのに、朧は数分経っても口を開こうとしない。
……どうしよう、なんだか不安になってきた。
その時だ、襖の向こうから声がかかった。
「失礼します。その件に関しては、僕たちにお任せください」
そう言って姿を現したのは、先日、わが家にやってきた、あの眼鏡の青年だ。あの時とは違い、藍色の作務衣を身につけている。見ると、その隣にはもう一人、橙色の着物を着た若い女の子の姿があった。
その女の子は私と目が合うと、タレ目がちの瞳を細めて、にっこりと微笑んだ。笑うと、口元から白い八重歯が覗く。なんとも愛嬌のある子だ。
「凛太郎と櫻子か。……任せてもいいのか?」
「もちろんですよ。奥様には、快適に過ごしていただきませんと。同時に、退屈は人を殺すとも言います。適度な仕事が人生に潤いを与える。そう思いませんか」
「……」
凛太郎の言葉に、朧は黙ったままだ。すると、それを肯定と受け取ったのか、凛太郎は益々調子づいて、頰を若干染めながら続けた。
「ご安心ください。奥様の負担にならないよう、この凛太郎が……朧様の、一番の眷属であるこの凛太郎が‼︎ 完璧に采配いたします。旦那様につきましては、心安くお過ごしいただきますよ……ふぐう‼︎」
「もう。凛太郎ちゃん、うるさい」
すると、ペラペラ話していた凛太郎の頭を、櫻子が側から見ても容赦ない力で叩いた。ベシッと大きな音がして、凛太郎の顔が痛みに歪む。それに構わず、櫻子は私たち夫婦の方に向き直ると、にっこりと笑って言った。
「ごめんね。この子、大好きな化け神さんの前だと、舞い上がっちゃうんだ〜」
「ば、馬鹿! なにを言っているんだ。僕は舞い上がっては……っむぐ」
櫻子は、顔を真っ赤にしている凛太郎の口を手で塞ぐと、少し真面目な顔になって言った。
「屋敷の掃除や洗濯なんかは、面布衆の仕事なの。だから、わざわざ奥様の手を煩わせることはないよ。奥様には、それよりも大切な仕事があるから」
「……大切な、仕事……ですか?」
「うん、そう」
そして、凛太郎を解放した櫻子は、三つ指をつくと頭を深く下げて言った。
「奥様には、まずは化け神さんのお口に入るお食事の用意を。それと、庭にある家庭菜園の世話を。お屋敷の食に纏わることをお願いします」
……食事、というと。
ちらりとお膳に乗った料理を見る。
そこにあったのは、どこかの料亭やら旅館の食事として供されても、遜色ない料理だった。
……私が、これを?
思わず、顔が引き攣る。
すると私の不安を感じ取ったのか、櫻子はまた愛嬌のある笑みを浮かべて言った。
「心配しないでいいよ~。なんでも聞いてね。見習いだけど……あたしたち神使が、精一杯、お手伝いさせて貰うから!」
「旦那様が、心配されておりました。今日からは、寝室は別で構わないと」
「そうですか……」
手触りからして、相当上等な品だとわかる着物に着替えて、戸惑いながらも、朝食が用意されているという部屋に向かう。
恐る恐る室内を覗くと、そこにはすでに朧の姿があった。
「……昨晩は怖がらせてしまったようだ。すまない」
「い、いいえ。こちらこそ、怖がってしまってごめんなさい……」
おずおずと、朧の正面に設えられたお膳の前に座る。ちらりと朧の表情を窺うと、昨晩見たのと同じ無表情。特に怒っている様子はない。
――あれ。
しかし、どこか違和感を覚えて、まじまじと彼の様子を観察した。
なんだろう、どこかしょんぼりしているような……?
でも、朧の表情にはなんの感情も浮かんでいない。不思議に思って、更にじっと朧を見つめる。
「なんだ」
すると、朧は片眉をピクリと動かすと、私を見返してきた。
「あ、いや。すみません……」
――うっかり見すぎてしまった。
誤魔化すように、慌てて箸を取る。
けれど、どうにも気になって、性懲りもなく朧を覗き見た。
……あ。もしかして。
結婚式の時は、しゃんと伸ばされていた彼の背中。それが、僅かに丸まっている。だから、落ち込んでいるように見えるのかも知れない。
『化け神さんは、とても優しいお方ですから』
ふと、面布衆の言葉が脳裏に蘇ってきて、胸が重くなる。
確かに、見た目は怖いかも知れないけれど、夫には、まだなにもされていない。無闇矢鱈に怖がって、朧を傷つけてしまったのかも知れない。思い返せば、昨晩は一方的に質問をするばかりで、彼の話を落ち着いて聞こうともしなかった。
――でも、怖いものは怖い。
後悔と、罪悪感に苛まれながら、用意された朝食を口にする。お膳に乗っているのは、まるで旅館で出てくるような上品なメニューだ。朝から手間暇かけて作ったのだろう。これを個人宅で食べられるなんて、と感心する。
おもむろに手に取った椀には、すまし汁が満たされている。柚子の香りが鼻をくすぐり、添えられた三つ葉の色がなんとも色鮮やか。これはきっと、鰹節の一番出汁だ。口に含んだ途端、ふくよかな香りが一斉に広がり、塩気もほどよく、目覚めたばかりの胃を優しく温めてくれる。いち食堂で働いていた私には、とてもではないが作れない味だ。
ふと、母の作る野菜たっぷりの味噌汁を思い出した。
根菜やら葉物やら、店で余った切れ端をたくさん入れた、具沢山の味噌汁。食べると、それだけでお腹がいっぱいになるくらいだった。子どもの頃は、切れ端なんてと思ったけれど、歳を取るごとに好きになっていった。
……ああ、また食べたいなあ。
その時だ。誰かの視線を感じて、顔を上げる。
すると、朧とバッチリ目が合ってしまった。
「……」
朧はなにも語らず、じっと私を見つめている。なんだか気まずくなって、視線をお膳に落とす。もしかしたら、落ち込んでいるのがバレてしまったのだろうか。相手は神様だ。人間の考えなんて、お見通しなのかもしれない。
私は、歯ごたえのいい沢庵を思い切り噛み締めると、気分を切り替えることにした。
ウジウジしているのは、性に合わない。前向きに、自分のできることを。
朧も一年でいいと言ってくれた。なら、この限られた時間を、精一杯有意義に過ごそう。そして、無事に家に帰ったら、食堂をまた再開するのだ。
とりあえずは、私になにができるのかの確認だ。この家は、どうにも普通とは違う。勝手なことをして、不興を買ったら堪ったものではない。
「あの、朧……さん」
「朧でいい」
「では、朧。私は、今日からなにをすればいいのでしょう。普通の奥さんのように、家事炊事洗濯をすればいいのですか?」
すると、朧は一瞬遠くを見ると、黙り込んでしまった。どう答えが返ってくるかと、ハラハラしていたのに、朧は数分経っても口を開こうとしない。
……どうしよう、なんだか不安になってきた。
その時だ、襖の向こうから声がかかった。
「失礼します。その件に関しては、僕たちにお任せください」
そう言って姿を現したのは、先日、わが家にやってきた、あの眼鏡の青年だ。あの時とは違い、藍色の作務衣を身につけている。見ると、その隣にはもう一人、橙色の着物を着た若い女の子の姿があった。
その女の子は私と目が合うと、タレ目がちの瞳を細めて、にっこりと微笑んだ。笑うと、口元から白い八重歯が覗く。なんとも愛嬌のある子だ。
「凛太郎と櫻子か。……任せてもいいのか?」
「もちろんですよ。奥様には、快適に過ごしていただきませんと。同時に、退屈は人を殺すとも言います。適度な仕事が人生に潤いを与える。そう思いませんか」
「……」
凛太郎の言葉に、朧は黙ったままだ。すると、それを肯定と受け取ったのか、凛太郎は益々調子づいて、頰を若干染めながら続けた。
「ご安心ください。奥様の負担にならないよう、この凛太郎が……朧様の、一番の眷属であるこの凛太郎が‼︎ 完璧に采配いたします。旦那様につきましては、心安くお過ごしいただきますよ……ふぐう‼︎」
「もう。凛太郎ちゃん、うるさい」
すると、ペラペラ話していた凛太郎の頭を、櫻子が側から見ても容赦ない力で叩いた。ベシッと大きな音がして、凛太郎の顔が痛みに歪む。それに構わず、櫻子は私たち夫婦の方に向き直ると、にっこりと笑って言った。
「ごめんね。この子、大好きな化け神さんの前だと、舞い上がっちゃうんだ〜」
「ば、馬鹿! なにを言っているんだ。僕は舞い上がっては……っむぐ」
櫻子は、顔を真っ赤にしている凛太郎の口を手で塞ぐと、少し真面目な顔になって言った。
「屋敷の掃除や洗濯なんかは、面布衆の仕事なの。だから、わざわざ奥様の手を煩わせることはないよ。奥様には、それよりも大切な仕事があるから」
「……大切な、仕事……ですか?」
「うん、そう」
そして、凛太郎を解放した櫻子は、三つ指をつくと頭を深く下げて言った。
「奥様には、まずは化け神さんのお口に入るお食事の用意を。それと、庭にある家庭菜園の世話を。お屋敷の食に纏わることをお願いします」
……食事、というと。
ちらりとお膳に乗った料理を見る。
そこにあったのは、どこかの料亭やら旅館の食事として供されても、遜色ない料理だった。
……私が、これを?
思わず、顔が引き攣る。
すると私の不安を感じ取ったのか、櫻子はまた愛嬌のある笑みを浮かべて言った。
「心配しないでいいよ~。なんでも聞いてね。見習いだけど……あたしたち神使が、精一杯、お手伝いさせて貰うから!」