遠くで、景気よく鶏が鳴く声が聞こえる。


 爽やかな朝の光が室内に差し込み、障子戸が開け放たれた室内には、時折、桜の花びらがいたずらに舞い込む。


 屋敷の傍には、樹齢一〇〇年ほどの桜の木があちらこちらに生えていて、美しさを競うように満開の花を咲かせている。桜色の欠片がひらひらと舞い落ちた畳は真新しく、い草の香りが十二畳ほどの部屋に満ちている。


 そんな場所で、私は無言で箸を動かしていた。


 着慣れない和服を少し窮屈に思いながら、自分の好みよりかは、随分と柔らかく炊きあがった米を口に運ぶ。美しい所作を意識し、皿からおかずを苦労して箸で摘み、控えめに齧りつく。上品な味付けのそれを飲み込み、そして思い出したように、畳二枚ほどの距離を挟んで、正面に座る人物に視線を向けた。


「……」


 その人は、冷たい印象を与える整った顔を、ぴくりとも動かさずに黙々と食事をしていた。

 ふたりきりの室内には、カチャカチャと食器が触れ合う音だけが響いている。


 お膳には様々な料理が並んでいて、朝から贅沢だ。しかし、どうも口に合わないのか、その人は料理に箸をつけはするものの、なにひとつ完食していなかった。


――そう、この人が私の旦那様だ。名を、朧(おぼろ)という。


 癖のある黒毛の長髪、頭には白面をつけていて、大きなねじれた角が二本、頭から生えている。漆黒の長着に袴、指には鋭い爪――。


 頬には、赤い墨でなにやら文様が描かれている。


 袴から覗く足は、みるからに人の形をしていない。獣のような鋭い爪を持った足は、地べたに座るには適していないらしい。畳の上に、だらしなく伸ばされている。臀部のあたりからは、鞭のような尻尾が伸びていて、そこには大量の護符が括り付けられていた。


 ……はあ、と小さく嘆息して、丁寧に出汁をとった味噌汁を飲み込む。


 お膳に並んだ料理は、どれもこれも美味しかった。けれど、どうにも味気ない。
 すると突然、朧が口を開いた。


「……なにか、あったか?」


 驚いて顔を上げると、食事の手を止めて、夫となった人が私をじいと見つめていた。

 ルビーのように真っ赤な右目と、黒曜石のような左目――不思議な色の組み合わせのオッドアイに見つめられて、私は表情を強張らせると、お膳に箸を戻した。


「いいえ。お腹がいっぱいになっただけです。ごちそうさまでした」
「そうか」


 朧は小さく頷くと、何事もなかったかのように食事を再開する。


 食器の触れ合う音を聞きながら、私は、ふいに視線を外へと向けた。舞い散る桜の花びらの向こう――まるで、屋敷を取り囲むようにして流れる、濃厚な霧。霧の向こうは白く烟っていて、今はなにも見えない。


 その時だ。宙を舞っていた桜の花びらが、風に吹かれて勢いよく飛んで行くと、みるみるうちに霧が薄くなっていった。


 すると、霧の向こうに風景が映し出される。それは、どこかの川辺だった。その傍を、長い長い葬列が通っていく。沈痛な面持ちをした喪服の人々の中には、白装束を着た死人が紛れ込んでいる。


 彼らを迎えに来たのか、提灯を下げた一隻の船が、ゆるゆると近寄っていく。船上に立っているのは、襤褸を纏った老婆だ。老婆は白装束の死人たちだけを乗せて、川向うに向けて船を走らせる。それは、この世の光景ではない。あの世に通じる――幽世の光景。


 ふと違う場所に視線を巡らせると、今度はごくごく普通の町並みが見えた。ひしめき合うように並ぶ戸建て、疲れたように見えるサラリーマン、横断歩道を安全に渡れるようにと、小学生を誘導する老人――。それは、見慣れた現世(うつしよ)の景色。


 その時また、ひゅう、と風が吹いた。


 すると、それらの光景は霧に紛れて見えなくなってしまった。そしてまた、はらはらと桃色の欠片が舞い散るだけの、穏やかな庭が戻ってきた。


 ときたま、「別の世界」の光景が垣間見えるのは、ここの「日常」だ。なにせ、この屋敷は普通の屋敷ではない。


 ここのことを、朧は「マヨイガ」と呼んでいる。


 マヨイガは、あらゆる世界から切り離された場所らしい。マヨイガというと、遠野物語を代表する逸話が有名だが、ここはそれともまた違うようだ。


 私が住んでいた現世からも、死後に訪れる幽世からも切り離された、まったく別の「異世界」。それが、朧が棲まうマヨイガだ。


 ――まさか、こんな場所で暮らすことになるなんて。


 私は、ため息をひとつ零すと、この屋敷に来た時のことに想いを馳せた。