仏壇に線香を上げ、手を合わせていた青年は、おもむろに顔を上げて言った。
「近々会う予定でしたので、この度のことは本当に驚きました」
「そうなんですか……」
「ええ、そうなんですよ」
そして、持参した鞄からあるものを取り出すと、「こちら、お返ししますね」と、私に差し出した。
それは一枚の書類だった。おずおずと手を伸ばして、内容を確認する。すると、そこに並んでいた文字の意味を理解した途端、堪らず固まってしまった。
『身上書 氏名 高杉真宵――』
「……ええ?」
「身上書」とは、縁談で使われる履歴書のようなものだ。西日本では「釣書」とも言ったりする。中身を確認すると、本籍から、家族構成、趣味、学歴まで、見合い相手に、「私」がどういう人間かを伝えるため、色々と事細かく書かれていた。意味どおりの「身上書」に間違いないようだ。
「ご両親はね、生前、キミの縁談を考えていたんですよ」
「嘘ですよね⁉ 私、一切聞いてませんけど……」
「ええ、本人には内緒で進めていらっしゃったようでした。なにせ、事情が事情ですからね」
困惑している私に、青年はその「お見合い」について話し始めた。
相手は、どこぞの資産家の男性。その人は、健やかで若い嫁を捜していたらしい。そこで、なんの因果か私に白羽の矢が立った。
男性側が縁談を持ちかけてきたが、初めは両親も断っていたそうだ。しかし、「破格の条件」を提示され、迷った挙げ句に「見合いをしてみるだけなら」と、引き受けることにしたらしい。
「破格の条件とはなんですか……?」
「もし、縁談が成立したら、借金を全額肩代わりするというものです」
目眩がしてきて、思わず額を押さえる。
――本当に? あの優しい両親が、まるで身売りのようなことを?
すると、苦悩している私に、青年はさも楽しげに言った。
「ご安心ください。もちろん、ご本人が嫌がれば無理強いはしないとおっしゃっていました。優しいご両親ですねぇ」
「そういう問題じゃなくてですね……」
ニコニコと私を見つめている青年を思わず睨みつける。
――はあ、とため息を零して、両親の遺影に視線を向けた。
とても夫婦仲が良かった両親。娘の私から見ても、恥ずかしく思えるほど仲睦まじかった。いつか父のような人と結婚して、母のように、愛する人と手と手を取り合って人生を過ごしたい。そう思っていたのに、見合いだなんて……。
すると、黙ってしまった私に、青年は言った。
「ま、ご両親が亡くなってしまった今、この縁談も流れてしまいましたがね」
そして、おもむろに立ち上がると、さっさと玄関に向かった。
……なんだ。
ホッと胸を撫で下ろす。しかし、同時にある考えが脳裏を掠めた。
――これは、私に残された最後のチャンスなのではないか?
両親が亡くなって以来、ずっと沈んでいた心が浮上してきた感覚がする。
元々、ウジウジと塞ぎ込むタイプではないのだ。幼い頃から、同性の子よりも男の子の友だちと一緒に、秘密基地で遊ぶのに夢中だったくらいには、アクティブなタイプだった。己の無力さをただ嘆いているよりかは、なにかしら行動を起こしたい。
――状況を打破するためには、この機会を逃す手はない!
「待って‼」
私は急いで青年の後を追うと、その背中に声をかけた。
「その約束、まだ生きていますか⁉」
すると、玄関で靴を履いていた青年は、ゆっくりと振り返った。そして、不思議そうに首を傾げた。
「約束、とは?」
「もちろん、縁談が成立したら借金を肩代わりしてくれるという約束です!」
「なるほど、なるほど。それですか。ああ、そうですね――」
青年は、少しだけ考え込むような仕草をすると、とても嬉しそうに笑った。
「ええ。問題ありませんよ」
青年は、几帳面そうに喪服に寄った皺を手で伸ばした。そして、胸に手を当てて、またあの胡散臭い笑みを顔に貼り付けて言った。
「おや。もしや、この縁談――いや、婚姻(・・)を引き受けてくれるのですか?」
……ああ、この質問への答えが、私の人生の岐路だ。
私は、ごくりと唾を飲み込むと、恐る恐る頷いた。
「このままじゃ、実家もなにもかも手放さなければならないんです。それは、絶対に避けたい。もし、その人が私を望んでいるのなら」
その瞬間、もしも相手が脂下がった親父だったら、なんて嫌な妄想が頭を過って言葉が詰まる。しかし、すぐに頭を振ってその考えを振り払った。
「私を……お嫁さんにしてください」
すると、青年は細い目を見開いた。そこにあったのは、日本人にしてはやけに明るい色の瞳。琥珀のように煌めく黄褐色の怪しい輝きに、思わずどきりとする。
「……そうですか。流石、あの方の選んだ人間。肝が座っておられる」
青年は愉快そうに肩を揺らすと、私の手を取った。
「顔も知らない相手に嫁ぐなんて、不安でしょう。しかし、心配されなくても大丈夫。あなたは、この世で最も貴い方の奥方となるのです――」
その瞬間、ふわりと足元から冷気が立ち上ってきた。床に視線を落とすと、玄関の扉の隙間から霧が室内に侵入してきている。一体、扉の向こうはどうなっているのかと不安に駆られるが、青年はそんな私に構わずに、ドアノブに手をかけると勢いよく押し開いた。
「……えっ」
扉を開けた向こう。
そこは一面、霧で覆われていた。
青年は、躊躇せずに霧の中に足を踏み入れていった。手を掴まれている私は、その後ろについていくしかない。霧の向こうには、見慣れた下町の光景が広がっているはずなのに、なにも見えないせいで、まるで別世界に迷い込んでしまったようだ。
いや、違う――。
ここは、本当にわが家の前なのだろうか?
そのことに気がついた瞬間、背中に冷たいものが伝った。
辺りを漂っている霧……それが途切れると、なにかがチラチラと垣間見える。
それは、巨大な和風建築だった。木造で、瓦屋根の――まるで時代劇や、純和風旅館と見紛うほどの大きなお屋敷が、目の前に建っている。もちろん、そんなものが下町にあるはずがない。
それに、知らぬ間にアスファルトの地面から、土の地面に変わっている。歩くたびに露に濡れた草が足に触れ、辺りを包む空気は冷たく澄んでいる。まるで、山の上にでも登ってきたようだ。
不安になって、思わず背後を振り返る。けれども、わが家の玄関は、霧に紛れて見えなくなってしまっていた。
途端に心細くなって、青年に声をかけようと口を開きかけた――その時だ。
「ああ、わざわざ迎えに来ていただいたのですか」
青年の声と共に、なにか巨大な影が私の上に落ちた。
どきり、と心臓が跳ねる。途方もなく嫌な予感がする。恐る恐る首を巡らせ、影の主を確認する。すると――私は、思わず絶句してしまった。
山と見紛うほどの巨体が、私を見下ろしている。黒く艷やかな毛で覆われたそれは、四対の真紅の瞳をギラギラと光らせて、私をじっと見つめている。頭部に生えた角は禍々しくそそり立ち、四肢の爪は人など簡単に切り裂けそうなほどに鋭い。
狼と、物語の中に出てくる竜を混ぜ合わせたような歪な生き物――。それは、呼吸をするたびに、低い唸り声のような音を立てる。生暖かい息が私に降りかかり、全身に鳥肌が立った。
必死に悲鳴を飲み込む。逃げ出したい気持ちでいっぱいなのに、足が竦んで動けない。すると、私の手を引いていた青年は、心から嬉しそうに顔を緩ませると、くるりとこちらを振り返って言った。
「この方が、キミの夫となる方です」
頭が上手く回らない。この青年は、一体なにを言っているのだろう?
すると、青年はうっとりと目を潤ませ――更に続けた。
「キミは、神の花嫁となるのですよ――」
青年の言葉。それはどこか、まるで他人事のように私の耳に届いたのだった。
「近々会う予定でしたので、この度のことは本当に驚きました」
「そうなんですか……」
「ええ、そうなんですよ」
そして、持参した鞄からあるものを取り出すと、「こちら、お返ししますね」と、私に差し出した。
それは一枚の書類だった。おずおずと手を伸ばして、内容を確認する。すると、そこに並んでいた文字の意味を理解した途端、堪らず固まってしまった。
『身上書 氏名 高杉真宵――』
「……ええ?」
「身上書」とは、縁談で使われる履歴書のようなものだ。西日本では「釣書」とも言ったりする。中身を確認すると、本籍から、家族構成、趣味、学歴まで、見合い相手に、「私」がどういう人間かを伝えるため、色々と事細かく書かれていた。意味どおりの「身上書」に間違いないようだ。
「ご両親はね、生前、キミの縁談を考えていたんですよ」
「嘘ですよね⁉ 私、一切聞いてませんけど……」
「ええ、本人には内緒で進めていらっしゃったようでした。なにせ、事情が事情ですからね」
困惑している私に、青年はその「お見合い」について話し始めた。
相手は、どこぞの資産家の男性。その人は、健やかで若い嫁を捜していたらしい。そこで、なんの因果か私に白羽の矢が立った。
男性側が縁談を持ちかけてきたが、初めは両親も断っていたそうだ。しかし、「破格の条件」を提示され、迷った挙げ句に「見合いをしてみるだけなら」と、引き受けることにしたらしい。
「破格の条件とはなんですか……?」
「もし、縁談が成立したら、借金を全額肩代わりするというものです」
目眩がしてきて、思わず額を押さえる。
――本当に? あの優しい両親が、まるで身売りのようなことを?
すると、苦悩している私に、青年はさも楽しげに言った。
「ご安心ください。もちろん、ご本人が嫌がれば無理強いはしないとおっしゃっていました。優しいご両親ですねぇ」
「そういう問題じゃなくてですね……」
ニコニコと私を見つめている青年を思わず睨みつける。
――はあ、とため息を零して、両親の遺影に視線を向けた。
とても夫婦仲が良かった両親。娘の私から見ても、恥ずかしく思えるほど仲睦まじかった。いつか父のような人と結婚して、母のように、愛する人と手と手を取り合って人生を過ごしたい。そう思っていたのに、見合いだなんて……。
すると、黙ってしまった私に、青年は言った。
「ま、ご両親が亡くなってしまった今、この縁談も流れてしまいましたがね」
そして、おもむろに立ち上がると、さっさと玄関に向かった。
……なんだ。
ホッと胸を撫で下ろす。しかし、同時にある考えが脳裏を掠めた。
――これは、私に残された最後のチャンスなのではないか?
両親が亡くなって以来、ずっと沈んでいた心が浮上してきた感覚がする。
元々、ウジウジと塞ぎ込むタイプではないのだ。幼い頃から、同性の子よりも男の子の友だちと一緒に、秘密基地で遊ぶのに夢中だったくらいには、アクティブなタイプだった。己の無力さをただ嘆いているよりかは、なにかしら行動を起こしたい。
――状況を打破するためには、この機会を逃す手はない!
「待って‼」
私は急いで青年の後を追うと、その背中に声をかけた。
「その約束、まだ生きていますか⁉」
すると、玄関で靴を履いていた青年は、ゆっくりと振り返った。そして、不思議そうに首を傾げた。
「約束、とは?」
「もちろん、縁談が成立したら借金を肩代わりしてくれるという約束です!」
「なるほど、なるほど。それですか。ああ、そうですね――」
青年は、少しだけ考え込むような仕草をすると、とても嬉しそうに笑った。
「ええ。問題ありませんよ」
青年は、几帳面そうに喪服に寄った皺を手で伸ばした。そして、胸に手を当てて、またあの胡散臭い笑みを顔に貼り付けて言った。
「おや。もしや、この縁談――いや、婚姻(・・)を引き受けてくれるのですか?」
……ああ、この質問への答えが、私の人生の岐路だ。
私は、ごくりと唾を飲み込むと、恐る恐る頷いた。
「このままじゃ、実家もなにもかも手放さなければならないんです。それは、絶対に避けたい。もし、その人が私を望んでいるのなら」
その瞬間、もしも相手が脂下がった親父だったら、なんて嫌な妄想が頭を過って言葉が詰まる。しかし、すぐに頭を振ってその考えを振り払った。
「私を……お嫁さんにしてください」
すると、青年は細い目を見開いた。そこにあったのは、日本人にしてはやけに明るい色の瞳。琥珀のように煌めく黄褐色の怪しい輝きに、思わずどきりとする。
「……そうですか。流石、あの方の選んだ人間。肝が座っておられる」
青年は愉快そうに肩を揺らすと、私の手を取った。
「顔も知らない相手に嫁ぐなんて、不安でしょう。しかし、心配されなくても大丈夫。あなたは、この世で最も貴い方の奥方となるのです――」
その瞬間、ふわりと足元から冷気が立ち上ってきた。床に視線を落とすと、玄関の扉の隙間から霧が室内に侵入してきている。一体、扉の向こうはどうなっているのかと不安に駆られるが、青年はそんな私に構わずに、ドアノブに手をかけると勢いよく押し開いた。
「……えっ」
扉を開けた向こう。
そこは一面、霧で覆われていた。
青年は、躊躇せずに霧の中に足を踏み入れていった。手を掴まれている私は、その後ろについていくしかない。霧の向こうには、見慣れた下町の光景が広がっているはずなのに、なにも見えないせいで、まるで別世界に迷い込んでしまったようだ。
いや、違う――。
ここは、本当にわが家の前なのだろうか?
そのことに気がついた瞬間、背中に冷たいものが伝った。
辺りを漂っている霧……それが途切れると、なにかがチラチラと垣間見える。
それは、巨大な和風建築だった。木造で、瓦屋根の――まるで時代劇や、純和風旅館と見紛うほどの大きなお屋敷が、目の前に建っている。もちろん、そんなものが下町にあるはずがない。
それに、知らぬ間にアスファルトの地面から、土の地面に変わっている。歩くたびに露に濡れた草が足に触れ、辺りを包む空気は冷たく澄んでいる。まるで、山の上にでも登ってきたようだ。
不安になって、思わず背後を振り返る。けれども、わが家の玄関は、霧に紛れて見えなくなってしまっていた。
途端に心細くなって、青年に声をかけようと口を開きかけた――その時だ。
「ああ、わざわざ迎えに来ていただいたのですか」
青年の声と共に、なにか巨大な影が私の上に落ちた。
どきり、と心臓が跳ねる。途方もなく嫌な予感がする。恐る恐る首を巡らせ、影の主を確認する。すると――私は、思わず絶句してしまった。
山と見紛うほどの巨体が、私を見下ろしている。黒く艷やかな毛で覆われたそれは、四対の真紅の瞳をギラギラと光らせて、私をじっと見つめている。頭部に生えた角は禍々しくそそり立ち、四肢の爪は人など簡単に切り裂けそうなほどに鋭い。
狼と、物語の中に出てくる竜を混ぜ合わせたような歪な生き物――。それは、呼吸をするたびに、低い唸り声のような音を立てる。生暖かい息が私に降りかかり、全身に鳥肌が立った。
必死に悲鳴を飲み込む。逃げ出したい気持ちでいっぱいなのに、足が竦んで動けない。すると、私の手を引いていた青年は、心から嬉しそうに顔を緩ませると、くるりとこちらを振り返って言った。
「この方が、キミの夫となる方です」
頭が上手く回らない。この青年は、一体なにを言っているのだろう?
すると、青年はうっとりと目を潤ませ――更に続けた。
「キミは、神の花嫁となるのですよ――」
青年の言葉。それはどこか、まるで他人事のように私の耳に届いたのだった。