「……そっか」


 両親の想いが嬉しくて、けれどもやるせなくて。私は唇を強く噛みしめると、視線を辺りに彷徨わせた。


 すると、ふと両親の体の異変に気がついた。腕や、手、体の至るところが黒く染まり始めている。まるで、闇に侵食されるようなその症状は、見たことがあった。


 ――両親の、悪霊化が進んでいる。


 それを自覚した途端、背中に冷たいものが伝った。鼓動が早まり、吐き気がこみ上げてくる。陽介君を襲ったあれらの姿が蘇ってきて、手が震えてきた。


『キミにならば、簡単に解消できる』


 けれど、ふと凛太郎の言葉を思い出して、顔を上げる。
 そして、その言葉の意味を噛み締めて……ピンと背筋を伸ばした。


「お父さん、お母さん。勝手なことばかり言ってごめん」


 そう声をかけると、両親は驚いたような顔をして私を見つめた。私は懐からハンカチを取り出して両親に渡すと、今までの自分を恥ずかしく思いながら言った。


「もう会えないと思っていたから、気持ちが爆発しちゃったみたい。これ以上、自分を責めないで欲しい。私、こう思うんだ。親であったとしても、その人にはその人の人生があるんだって。子どもがすべてなわけじゃない。思い通りの結果にならなかったとしても、それまで懸命にやってきたなら、後悔しなくてもいいと思う」


 人間というものは、生まれてからずっと、自分の足で人生という道を切り開いていく。結婚というものは、たまたま道が交差した相手と、同じ道を選んで行くようなものだ。人生という、長い、長い旅――。その間に、子どもという名の連れが増えることもあるかも知れないし、間違った道を進んでしまうこともある。


 つまるところ、どういう旅路になろうとも、どの道を進むのかを選んできたのは、結局自分自身なのだ。それは、子どもだって変わらない。少なくとも、私はひとりではなにもできない幼児ではないのだから、両親が亡くなるまでに、選べる道は無限にあった。こういう状況に今いるのは、私が選んできた結果でもある。私に遺してしまったものを、悔やむ必要なんてない。


 私は、ふたりをまるごと腕の中に収めると、ギュッと抱きしめた。


「誰だって失敗はあるよ。いいことも悪いこともあるのが人生。たまたま、そういうのが重なっちゃっただけ。それにね、ふたりを抱きしめられるほど大きくなれたのは、お父さんとお母さんのお陰。すごく感謝してる。だから大丈夫」
「真宵……」


 すると父が、呆けたような顔で言った。


「……いつの間にか、随分と大人になったな。いつまでも甘ったれだと思っていたのに。寂しいもんだ」


 私はクスリと笑うと、少し誇らしげに言った。


「ここにお嫁に来て、色々あったの。私だって成長するんだから」


 そして私は、両親を交互に見つめると、真剣な顔になって言った。


「このままじゃ、お父さんもお母さんも悪霊になっちゃう。未練を晴らそう。手伝ってくれる?」
「――だが、どうすれば……」
「そうね、自分の未練の解消方法なんてわからないもの」


 両親は、不安そうに顔を見合わせている。


 私は、母の手を強く握ると、にっこりと笑った。


「大丈夫。ふたりを連れてきた獣頭の神は、言葉足らずな困った神様だけど、超えられない試練は課さないと思う。だから……私を信じて。私がこれからすることを見ていて欲しい。そうしたら……多分、未練は解消できると思うの」


 私の言葉に、両親は戸惑いながらも頷いてくれた。


「わかったわ。なんでも言って。協力する。それで、どうするか決めているの?」


 私は、母に向かって微笑むと、トンと自分の胸を叩いた。


「もちろん。私……これから、旦那様をメロメロにしに行こうと思う‼」


 私の言葉に、両親はポカンと口を開けると――。
「はあ?」と、間抜けな声を上げた。

* * *


 旦那様の心を捕まえるのに、最適なものとはなんだろう?


 魅力的な笑顔?
 性格の一致?
 同じ趣味を持つこと?


 どれも大切なことだと思う。けれど、私は母に教わったのだ。相手の心を捕まえる、一番の方法。それは――。


「胃袋を掴むことだと思うんだ!」


 私がそう言うと、両親も、凛太郎も、櫻子まで笑った。


「確かに、私はお父さんの料理に惚れ込んで結婚したけれどね?」


 母なんかはケラケラ笑って、初めはまともに取り合ってくれなかった。凛太郎なんかは、明らかに呆れた視線を私に注いでいる。


「冗談じゃないよ、きちんと聞いて。想像してみてよ。もし……一日の仕事が終わってお腹が空いた時、最高に美味しいご飯が待っているとわかっていたら。一緒に食卓を囲んで、今日一日あったことを話しながら、『美味しいね』って笑い合えたら。それって、とても『幸せ』なことだと思うんだよね」


 私の両親は食堂を経営していたから、なかなか家族揃っての夕食というのは難しかった。けれど、一年に数回。特別な日だけは、全員揃って食卓を囲んだ。


 その日は、朝からワクワクそわそわして、堪らなかったのを覚えている。
 家族勢揃いして食べたごはんの味は、もちろん格別で、それは今でも私の宝物だ。


 喧嘩してしまった日だって、美味しいごはんを食べたら仲直りした。落ち込んだ日だって、どうしても調子が出ない日だって、ごはんを食べたらたちまち回復したのだ。


 私にとってのごはんは、日常であり、同時にいつだって特別だった。


「美味しいごはんは、きっと私と朧を繋いでくれるって信じてるよ。お父さんとお母さんと、私を繋いでくれていたみたいにね。だから、私のごはんを、これからもずっと食べたいって思って貰えるように、美味しいものを作るの。私が、これからも奥さんでいてもいいと朧が思うように」


 両親から引き継いだ、私の味。
 その味を、朧にも大切なものだと思って欲しい。


「気持ちや考えって、言葉にしないと上手く伝わらない。でも、言葉じゃ上手く言い表せない部分も、美味しいごはんなら伝えられる気がするんだ」


 そこまで話すと、みんな納得してくれたようだった。櫻子なんかは、涙を浮かべて大きく頷いている。


「きっと、化け神さんも喜ぶと思う。真宵ちゃん、頑張って。あたし、なんでも手伝うからね」
「うん。ありがとう」


 すると、意外なことに、凛太郎もすんなり同意してくれた。


「……まったく。そういうことなら、僕も協力せねばなりませんね。あの方の孤独を、癒やして差し上げてください」


 途端、櫻子が信じられないと言った風に、凛太郎を見つめて言った。


「うっわ。嫌味のない凛太郎ちゃんって、噛み過ぎて味がなくなったガムみたい……。明日、雪じゃなくて槍が降るんじゃ……⁉」
「うるさいな、櫻子。僕だって、こういう気分の時もあるさ!」


 ――こんな時でも、ふたりは相変わらずだ。


 騒ぎ始めた神使ふたりを、微笑ましく思う。朧の眷属であるふたりに、賛成して貰えたのは、とても心強い。


 続いて私は、両親に向かい合うと頭を下げた。


「お父さん、お母さん。ごめんなさい」
「え? どうして謝るの? 真宵」
「そうだ。お前が謝ることなんてなにもないぞ」


 突然のことに、両親は戸惑っているようだった。けれど、構わずに話を続けた。


「私ね、本当は……あの店を、継ごうと思っていたの」
「……食堂を?」
「そう」


 私は、食堂で働く両親が好きだった。両親が作った料理を食べて、笑顔になるお客さんを見るのも好きだった。私も、あんな風に誰かを笑顔にしたい。「美味しかった、また来るよ」って言って貰いたい……そう思っていた。


「食堂を継いで、お母さんやお父さんが作り上げてきたものを残していくのが、親孝行なんだって思ってた。でも、私……気づいたの。私が笑顔にしたい人って、お客さんじゃなかった。私は、心から大切だって思う人を笑顔にしたい」


 店がなくなる――そのことを知った時に、生まれ育った場所がなくなることには落ち込みはしたものの、食堂をやれないことに関しては、それほどショックを受けていない自分に気がついたのだ。


 それは、両親に対して、とても不義理なことなんじゃないかと思った。
 でも、両親は自分たちの死を嘆くよりも、私が幸せになるのを見届けられなかったことを悔やんでいた。だから、私は心を決めたのだ。


「……お店、継げなくてごめん。私、一緒に生きたい相手を見つけたの。その人と生きるためには、お店は継げない。我儘だってわかってる。でも、どうか背中を押して欲しい」


 すると突然、母に抱きしめられた。


「えっ、あっ……ええ?」


 怒られると思っていたのに、予想外の反応に戸惑う。


 すると母は、私の肩に顔を埋めると、少し掠れた声で言った。


「馬鹿。馬鹿ね、本当に馬鹿。あんな店のこと、気にしてたの……⁉」
「あんなって。あそこは、私の大切な場所だったから」
「再開発でなくなるって聞いたでしょう。なら、なんにも気にすることない! ああ、私たちに再会の機会をくれた神様に、感謝しなくちゃ。こんなことで娘を悩ませ続けてたなんて、それこそ悔やんでも悔やみきれない。成仏なんてできやしないもの!」


 母は、私の顔を両手で挟むと、ニッと歯を見せて笑った。


「あんたは、あんたの幸せを掴むの。よそ見ばっかりしてたら、肝心なものを掴みそこねるわよ。親も子も、自分の足で自分の人生を歩いてるって、さっき自分で言ってたじゃない。なによりも、自分の幸せを優先しなくちゃ。好きにしなさい!」
「……っ」


 私は息を呑むと、涙が零れそうになるのを必死に堪えた。そんな私に、母は続けた。


「私はね、真宵が……私の娘が幸せでいればそれでいい。ちゃんと幸せになって。それで……私たちの未練を解消してよ」
「うん……」
「泣き虫ねえ。昔っから、気は強い癖に泣いてばっかり」
「うん……うん……」


 私は母に抱きつくと、また「ごめん」と謝った。母は、クスクスと楽しげに笑っている。それは、亡くなる前とちっとも変わらない。私の大好きな母の笑い声だった。


「真宵ィ……」


 その時、父のどうにも情けない声が聞こえてきた。そちらに顔を向けると、父はひとりしょぼくれて、地面に積もった雪でよくわからないものを作っている。


「私、お父さんと結婚する! って、小さい頃は言ってたのに。あの頃の真宵はどこに行っちゃったんだ……」


 ……どうやら、私が嫁に行くことを、まだ認められないでいるらしい。そんな父に、母は盛大にため息をつくと、小さく肩を竦めた。


「アレは放っておきましょ。どうしようもないもの」
「……いいの?」
「そのうち、勝手に復活するわよ。さあ……それよりも」


 母は、にっこりと笑うと、私の背中を強く叩いた。


「旦那さんをメロメロにするようなごはん、作らなくちゃね! こういうのって、なんて言ったかしら。そう――『愛妻ごはん』ってやつよ! なんか照れるわ~!」
「……痛い⁉ なんで叩くの!」
「だって、なんだかムズムズしちゃって」


 私は、ビリビリと痛む背中に顔を引き攣らせた。するとまた、母はお腹を抱えて笑い出した。なんだか複雑な思いでいると、次第に私も釣られて笑い出した。


 ……ああ。なんだかすっきりした。


 私は、これから新しい一歩を踏み出すのだ。その前に、引っかかっていたものを解消できて、心が軽くなったような気がする。
 この調子なら、この先になにがあろうと、いけそうな気がする!


「……よし、頑張ろう!」


 拳を握りしめて気合いを入れる。けれど、頭ではあることを考えていた。


 ――愛妻ごはん……その言葉が、本当になればいいのに。
「愛妻」という言葉の響きを眩しく思いながら……私は、前を向いて歩き出した。