「――なにこれ」


 無事にマヨイガに戻ることができた私は、唖然として立ち尽くしていた。
 凛太郎に連れて来て貰ったマヨイガは、変わらず濃厚な霧に包まれていた。けれども、劇的に変化している部分があった。朧の棲み家、マヨイガの象徴とも言える立派なお屋敷が、見るも無残に崩れ落ちていたのだ。


 瓦礫の山と成り果てた屋敷は、一面を白い雪で覆われていて、酷く寒々しい。

 
 朧や櫻子、面布衆はどうしたのだろうと辺りを見回すと、白い煙が、一筋立ち昇っているのが見えた。近づいてみると、瓦礫の傍で誰かが焚き火をしている。


「あ、真宵ちゃん。おかえり~‼」


 それは櫻子だった。彼女は、私たちに気がつくなり、元気よく走り寄ってきた。そして私に抱きつくと、嬉しそうな声を上げた。


「会いたかった~。心配してたんだよ」
「櫻子ちゃん。会えて良かった」
「あたしも真宵ちゃんに会いたかった! 凛太郎ちゃん、ご苦労さま!」
「フン、これも仕事だからな」
「後で、いっぱい褒めてあげるね~。あ、そうだ。真宵ちゃん、聞いて、聞いて。あの後、化け神さんが暴れて大変だったんだから!」
「え……?」


 意外な言葉に、驚いて櫻子を見つめる。櫻子も、凛太郎と同じように、あちこち怪我をしているようだった。包帯が全身至るところに巻いてあって、非常に痛々しい。私は、櫻子の腕の中から抜け出すと、なにがあったのか尋ねた。


 すると、櫻子は弱々しい笑みを浮かべると、あの後の出来事を教えてくれた。


「獣さんのお薬で、化け神さん、目覚めることができたんだ。だけど、真宵ちゃんがどうしていないのかって、すごく動揺してた。そしたらね……」


『あれは、お前に愛想を尽かして帰ったのだ』


 ……なんと、獣頭の神はそう言い放ったのだという。


「わ、私、別に愛想尽かしてなんてないんだけど⁉」
「だよねえ。あたしもびっくりした。それは違うって言おうと思ったんだけどね、なんかこう……変な力で声が出せなくなって」


 恐らく、獣頭の神の力なのだろう。声を封じられた櫻子や凛太郎は、朧の誤解を解くことができなかった。


 その時の朧は、酷くショックを受けているように見えたらしい。すると、そんな朧に、獣頭の神は更に追い打ちをかけた。


『人に振られるなど、神の風上にも置けぬ。こうなれば、現世まで行って、嫁殿を連れもど――おおっ⁉』
『グルルルルル……ガァァァァァァァ‼』


 やたら得意げに獣頭の神が語った瞬間、朧は正気を失って暴れだしたのだそうだ。それは三日三晩続いた。朧の暴走に巻き込まれた屋敷は壊れ、止めようとした凛太郎や櫻子は怪我を負った。今は、なおも暴れようとしている朧を、獣頭の神が抑え込んでいるらしいが……。


 櫻子は深く嘆息すると、小さく肩を竦めた。


「多分、獣さんは化け神さんを焚きつけようとしたんだと思う」
「……あの人、なにしてるの……」
「おせっかいなところが玉に瑕だって、化け神さんが前に零してた~」


 どうも、そのおせっかいが悪い方向に作用したらしい。


 生命力が低下した朧は正気を保てず、まるで獣のようになってしまった。


「そっか」


 私はやや頷くと、もじもじと指を絡めた。


「真宵ちゃん?」


 すると、不思議そうな顔をした櫻子が近寄ってきた。具合でも悪いのかと思ったのか、額に手を当ててくる。私は、彼女をちろりと見上げると、ボソボソと言った。


「朧が暴れたのは大変だと思うんだけど……。私をいらないって言葉が、朧から出たんじゃないってわかって、ちょっとホッとしちゃった……」


 たったそれだけのことなのに、心に羽がついたみたいに軽くなる。にやけてしまわないように、必死で顔を引き締めた。けれど、どうにも上手くいかなくて、仕方なしに頬を手で押さえる。すると、櫻子はやれやれと肩を竦めて言った。


「そうだね、あの『いらない』は、獣さんにとっての言葉だったんだ~。もう、これだから神様って奴は! 言葉足らずなのは、託宣だけでいいよね~」
「本当に。あの言葉のせいで、私がどれだけ悩んだことか」


 私は、櫻子とクスクスと笑い合うと、彼女に尋ねた。


「それで朧は? 朧に会いたいの」


 すると、今まで私たちのやり取りを黙って眺めていた凛太郎が口を挟んできた。


「今の朧様に会うのは難しいですね」
「……そうなの?」


 どうにも嫌な予感がして、黒縁眼鏡の向こうに見える、糸みたいな瞳を真っすぐ見つめる。そこに困惑の色を見つけて、私は思わず顔を顰めた。


「事情を説明してくれる? ……私にできることはある?」


 すると、凛太郎は少しだけ黙り込むと、深刻な様子で言った。


「薬のお蔭で回復したのはいいのですが、滅茶苦茶に暴れたせいで、また力の大部分を消耗されてしまったのです。このままでは、また休眠状態に戻ってしまう」
「そんな‼」
「獣頭の神の薬は、もうありません。一刻も早く手を打たねば」
「……どうしてこんなことに」


 頭が混乱する。せっかく、貴重な薬で回復したのに、まったく意味をなしていない。


 凛太郎は、深くため息をつくと、「まだ手はあります」と、話を続けた。


「かの神も、ご自身の仕出かしたことを理解されているようで。当座を凌ぐために、『未練』を遺し、成仏できないでいる魂を用意してくれました。その魂たちから感謝の気持ちを引き出せれば、いくらかは回復できるでしょう」
「ちょっと待って」


 私は、凛太郎の話を遮ると、疑問を口にした。


「未練って……簡単に言うけど、そんなの、朧でもなければそうそう解消できるものじゃないと思うんだけど」


 だからこそ、獣頭の神は朧に仕事を斡旋していたのだ。


 人の心は非常に複雑なものだ。歩んできた人生によって、価値観すら変わる。価値観が変われば、求めるものは大きく変化する。誰かにとっては大切なものも、別の誰かにとっては、まったくの無価値だ。求めるものを正確に知れる能力……それこそ、朧の能力でもなければ容易ではないだろう。


 魂の話をしっかり聞いて、問題を丁寧に解決していけば、いずれは未練が解消されることもあるかも知れない。でも、今はそんな悠長なことをしている時間はない。


 すると、凛太郎は「そうでもありません」と苦笑を浮かべた。


「今回の魂は『特別』で――奥方様じゃないと、未練を解消できないらしいですよ。逆に言えば、キミならば簡単に解消できる」
「わ、私?」


 思わず、自分を指差す。


 確かに私は朧の妻ではあるが、ごくごく普通の人間だ。特別な能力なんて、これっぽっちも持たない自分にしかできないことなど、数えるほどしかない。


「もう、なにを言っているの。冗談はほどほどに……」


 その時だ。瓦礫の山と化した屋敷の奥から、賑やかな声が聞こえてきた。……いや、賑やかなだけじゃない。面布衆の困惑したような声も入り混じっている。


「あの、勝手に備品を持ち出すのは……」
「なにを言ってるんだ。腹減っただろ? 俺らに任せてくれよ。なあに、何十年と食堂をやってきたんだ。こんな状況でも、美味いもんを作ってやるさ!」


 困惑している面布衆に続いて現れたのは、両手いっぱいに鍋やらおたまやらを抱えて、ガシャガシャと派手な音を立てている、白髪交じりの中年男性だ。


「あなたってば。そういう問題なの? ここ、あの子の嫁ぎ先なんでしょう。無茶したら、あの子に迷惑がかかるじゃない‼」


 その後ろには、呆れ返った様子の、少しふくよかな中年女性。


「うっ。そうだった……。知らないうちに娘が嫁いだことが、未だ受け入れられなくて、つい記憶の彼方に」
「……呆れた」


 その人たちは、軽い調子でお互いにポンポンやりあいながら、けれどもどこか楽しそうに話している。


「あ……」


 その人たちを見た瞬間、私は言葉を失った。目の前の光景が到底信じられなくて、勢いよく目を擦る。しかし、いくら擦ってみても、その人たちは消えることはなかった。妄想なんかじゃない。それが現実なのだとわかると、カッと全身が熱くなった。


「……お父さん、お母さん」


 すると、その人たちは私に気がついたようだった。顔を見合わせ、頷き合う。そして、手に持っていたものを面布衆に押し付けると、ゆっくりと私に近づいてきた。


「さあ、真宵ちゃん」


 櫻子が、私の背中を軽く押す。けれども、私はそこから動かなかった。地面に視線を落として、黙ったまま棒立ちになっている。すると、サクサクと雪を踏みしめる音と同時に、見たことのあるボロボロの靴が視界に入ってきた。食堂の油っぽい床の上で仕事をずっとしていたから、黒ずんでしまっているその靴は、まっ白な雪の上だと尚更へたって見える。私は心の中でその人たちの正体を確信しながらも、口を引き結び、視線を向けもしなかった。


「……真宵」


 私の頬に、その人は手を伸ばした。


 大きくて、ゴツゴツしていて。
やたらひんやりとした手が、身を硬くしている私の頬を、優しく撫でていく。


「こっちを見てくれ。真宵」


その声を間近で聞いた途端、鼻の奥がツンとして、視界が滲んでくる。けれど、意地でも反応してなるものかと、奥歯を噛み締めて必死に堪えた。


すると、クスクスと柔らかい笑い声が聞こえた。それは、生まれた時から何度も聞いた、大好きな笑い声。


「お父さん、無理よ。この子、こうなったら意地でも反応しないわ。子どもの時からずっとそう。怒ると、言いたいことを飲み込んで黙っちゃう。いつまで経っても変わらないんだから」


 すると、その人は私を両手で抱きしめた。汗と体臭が混じった、酸っぱいような甘いような、酷く落ち着く匂いが鼻を擽り、唇が震えてくる。ふわふわ、雲みたいに柔らかい体で私を抱きしめたその人は、耳元で囁くように言った。


「ひとりにして、ごめん」
「……ッ」
「寂しかったね。辛かったでしょう。私たちに、たくさん訊きたいことがあるよね。頑張ったね。本当に、頑張った。真宵は、いつだって頑張り屋さんだからね」


 慰めるように、甘やかすように、その人は私を何度も褒めた。少し息苦しさを覚えるくらいに、私の体をぎゅうと強く抱きしめた。それはまるで、もう二度と離したくないと、全身で語っているようだった。


「……子ども扱い、しないでよ……」


 私は、掠れた声でそう言って、ゆっくりと顔を上げた。すぐそこに、目と鼻を真っ赤にして、涙を堪えている両親の顔がある。
 ……ああ、両親の泣き顔なんて、初めて見た。


 いつも頼りにしていた両親の、弱い一面を垣間見てたじろぐ。けれども、私はグッと堪えると、胸に抱えていた想いをぶつけた。


「謝るくらいなら……っ! 私を置いて逝かないでよ……‼」


 そんなことを言ったって、両親にはどうしようもないとわかっていつつも、怒りを籠めて叫ぶ。ひとりぼっちになってしまった寂しさ、未来が見えない不安、人々から注がれる哀れみの籠もった眼差し。すべてがまざまざと蘇ってきて、私の怒りを助長させる。


 ドラマや映画でよく見るような、再会の喜びなんて感じなかった。だって、私の心はいっぱいいっぱいで、余裕なんてこれっぽっちもなかったからだ。


「知らないうちに、私の見合い話を進めてるし! 内緒で借金は抱えてるし! 家は、再開発でなくなるっていうし……なんなの⁉ 私は家族じゃなかったの‼ いつもいつも、お父さんとお母さんは私を子ども扱いして、蚊帳の外! 私だって、もう大人なんだよ。だから、もうちょっと頼ってくれても良かったじゃない‼」


 溜め込んでいたものを全部吐き出して、溢れる涙を乱暴に拭った。せっかく整えてきた髪も崩れてしまって、きっと傍から見ると、ものすごくみっともないに違いない。すると、両親は困惑したような表情を浮かべた。


 それを見た瞬間、慌てて顔を逸した。
 ――両親を傷つけてしまった。そのことをはっきりと自覚したからだ。


 ああ、やはり自分はまだ大人になりきれていないのだと悲しく思う。
自分の言葉が、相手にどういう影響を及ぼすのかくらいわかるだろうに、激情に任せて自分勝手に吐き捨ててしまった。自分のことなのに、両親に全部押し付けるようなことを言ってしまった。こんなこと、他所に嫁いだ娘がすることじゃない。


 後悔の念にかられていると、父が私の肩に手を乗せた。ハッとして顔を上げると、そこには疲れ切ったような父の顔があった。


「情けないな。本当に、情けない」


 文句ばかり言っている私に、苦言を呈しているのかと身構える。
 けれども、それは違ったらしい。
 父は、反対側の手で白髪交じりの短い毛をくしゃりと混ぜると、困り切ったような顔になって言った。


「親ってもんは、子どもにいろんなもんを遺すだろ? それは、教育だったり、思い出だったり、資産だったり色々だ。自分が作りあげたものを次代に遺す。それは、人のあり方として当然のことだと思う。だが――……」


 父の皺が目立つようになった目に、透明な雫が浮かんだ。それは、あっという間に溢れ、父の頬を濡らしていく。


「遺したものが、必ずしもいいものだとは限らない。碌に子育てしないやつもいる。間違った躾をしたり、暴力をふるってトラウマを植え付けるような馬鹿な親もいる。……資産どころか、莫大な借金を遺す親も。本当に情けないよ」


 どきりとして、泣いている父の顔を凝視する。その顔は、私の記憶にあるものよりも、随分と老けているように見えた。


「自分の死を自覚した時、とんでもないことをしてしまったと思った。親友の頼みだだからと、簡単に判を押した自分を呪った。周囲の意見に流されて、再開発に賛成したことを後悔した。あの日、車で出かけさえしなければ。そう思ったら、俺の魂はどこへも行けなくなってしまった」


 すると、私を抱きしめていた母も、涙まじりに言った。


「私だってそう。お父さんを、私だったら止められたはず。なのに、なにもできなくて。ううん……しなかった。なんとかなると、鷹揚に構えているつもりが、自分の子どもに、無責任なことをしていることに気がついていなかった。真宵のことを考えたら、もっと必死になるべきだったのよ」


 そこまで言い終わると、ふたりはさめざめと泣き始めた。


「真宵、お前が幸せになるのを、見届けたかったのに」
「子どもの足を引っ張るなんて、本当に情けなくて……」


 それは、両親の抱いた『未練』。


 ――両親は、私のことを想って、成仏できないでいるのだ。