翌日。私は、近所の人の家を訪れていた。
 立て替えて貰った入院費を支払うためだ。


「先日は、大変お世話になりました」


 現金の入った封筒に、菓子折りを添えて渡す。
 するとその人は、顔を曇らせて言った。


「あら、もう大丈夫なの?」
「風邪をこじらせてしまっただけですから。本当にご迷惑をおかけしました」
「いいのよ、いいのよ。こっちこそ、あなたのご両親には、いつもお世話になってたんだから。うちの子たちの体の半分は、お宅のご飯で作られたようなもんよ」
「よく、ご家族揃って、来て下さってましたもんね」
「本当よねえ。だから、あんなことになって、私たち本当に残念だったのよ」


 その人は、私を優しげな瞳で見つめると尋ねてきた。


「今までどこに行っていたの? ご両親が亡くなって、すぐいなくなってしまったから、心配していたのよ」
「あ……」


 私は、一瞬言葉を詰まらせると、苦笑いを浮かべて言った。


「しばらく、親戚のところに行っていたんです。両親がいっぺんに亡くなって、心の整理がどうしてもつかなくて……」


 適当なことを言って誤魔化す。まさか、神様の嫁になっていただなんて言えない。


 するとその人は、私を憐憫の籠もった眼差しで見つめた。


「そうだったの。大変だったわね……。なにかあったら、私のところに来てね。いつでも頼ってくれて構わないから」


 その温かな言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
 私は大きく頷くと、笑顔を浮かべて言った。


「なら……食堂を再開した時は、また食べに来てください! すぐには無理かもしれませんが、両親の味を再現できるよう、私、頑張りますから!」


 力強く、決意を籠めて言う。両親の頃から常連だった、この人に味を認めて貰えば、この先も上手くやっていけそうな気がする。これくらいなら負担にもならないし、快く引き受けてくれるだろう――そう、思ったのだが。


「……そ、そうなの。食堂、再開するつもりなのね」


 すると、その人が複雑な表情をしているのに気がついて、私は浮かべていた笑顔を引っ込めた。


「あの。どうしたんですか?」
「なんて言ったらいいのかしら。知らなかったのね。そうよね、会合にはご両親がいらしてたものね。……難しいわね」


 なにか言い難いことがあるのか、その人は視線をあちこちに彷徨わせ――あることを口にしたのだ。


 それは、私の最後の希望を奪う言葉。
 私の「無理にでも頑張るための手段」を殺す言葉だった。


「この辺り、再開発することになったのよ。駅直結の、大きなショッピングモールを造るんですって。もちろん、反対している人もいるのよ。でも、古い家が多いでしょう。大体の人は、いい機会だからって引っ越しを考えているみたいなの。もちろん、うちもよ」





 コンロの上で、ヤカンがしきりに蒸気を上げている。


 早く火から下ろさねばと頭では理解しているものの、どうにも体が重くて動かない。食事を作る気になれずに買ったカップ麺。そのやけに毒々しいパッケージが目に痛くて、そっと顔を背けた。


「私のしてきたことって、なんだったんだろう」


 ぽつりと零して、近くの壁に寄りかかる。
 人ならざるものに嫁いでまで守った家が、なくなってしまう。


 生前、両親は駅前再開発に賛成だったそうだ。それにしても、多額の借金を抱えながら店を失うだなんて、これからどうするつもりだったのだろう。両親はもういないのだから、その本心を知ることはできないけれど。


「……少しくらいは、娘に話して欲しかったな」


 その人の考え、想い、未来への展望……そういった、心に抱えているものは、口にしなければ伝わらない。只々一緒にいるだけでは、知っていることにはならない。家族だとしても、結局は別の生き物なのだ。完全な意思疎通ができるはずもない。


「過保護なお父さんのことだもの。私に心配をかけないようにって、そんな理由な気がするけどさ……」


 そんな父とは対照的に、母は現実をしっかりと見据えるタイプだった。きっと最高に渋い顔をして、甘やかしすぎだと苦言を呈していたに違いない。


 両親の顔を、声を、ふたりの掛け合いを思い出して笑みを浮かべる。けれども、それがどうにもやるせなくて、苦しくて仕方なかった。


「……あれ」


 ボロボロと透明な雫が絶え間なく落ちていくのを、どこか他人事のように眺める。泣きたいわけではないのに、まるで噴水みたいに「自動的に」溢れてくる涙に困惑する。胸に手を当てると、あまりにもそこが空っぽで、驚きのあまりに何度か摩った。


 ――マヨイガにいた時は、こんなにも悲しみに暮れることはなかったのに。


 寂しくて、苦しくて、切なくて。世界にひとりぼっちで取り残されてしまったよううな、孤独感。だけど、その原因である両親の死からは、随分と経っているから、自分の感情に違和感がある。人間は忘れる生き物なのだ。特に辛い記憶は、徐々に薄れていくはず。その証拠に、今までこんなに自分が両親の死を引きずっていたとは知らなかった。なのにまるで、昨日のことのように苦しさが襲ってきて耐え難い。


『……真宵、どうかしたのか』


 その瞬間、マヨイガでの日々が蘇ってきた。朧の優しい、それでいて思いやりの篭った声が耳の奥で響き、すべてを理解する。


 私は――朧に守られていたのだ。


 両親の死を思い出して、寂しさに負けそうになった時。
 ひとり残されたことの不安に、押しつぶされそうになった時。
 新しい場所で生活することのストレスのせいで、心が弱った時。
 いつだって、朧はたちまちどこからか現れて、違う感情で塗り替えてくれた。


 初めは恐怖や困惑なんかのネガティブな感情だった。次第に、親愛や喜び……ポジティブな感情が増えていって、最後には好きという気持ちに変わっていった。私が今まで、自分の境遇に悲嘆しないでいられたのは、なにもかもが朧のお陰だったのだ。


 朧の力――それは、相手の望むものを知ることができるというもの。
 彼は、その能力を遺憾なく発揮して、私を救ってくれていた。


「……ハハ。こんなにすごい神様が、どうして信者ができないって苦労するかなあ」


 苦笑を零して、涙を袖で拭う。朧のことを少し理解できたような気がして、胸の中心がポカポカ温かい。
 気がつけば涙が止まっていて、それもまた笑いを誘う。


 ――私の心は、また朧に救われたのだ。


 私は、おもむろに立ち上がると、コンロの火を止めた。
 そして、晴れ晴れとした表情で呟いた。


「……やっぱり、駄目。悲劇のヒロインみたいに、泣いてばかりいるのは、私らしくないや」


 私は急いで自室に戻ると、着ていたものを勢いよく脱ぎ捨てた。手にしたのは、あの日着ていた紬の着物に、南天が刺繍されている帯、それと長襦袢。
 迷うことなく、手順通りに着物を身につける。もう、半年以上着ているのだ。面布衆の着付けを見ているうちに、自分でもすっかり覚えてしまった。
 帯を締め終わり、姿見で確認する。髪を梳かして、高く結い上げる。


 そうしたらもう、鏡の中の私は、ただの私じゃない。
 化け神さまの妻、高杉真宵だ!


「離縁するなら、本人から直接聞かないとね。……戻ろう」


 ――正直、不安しかない。


 マヨイガに行く方法だってわからない。


 なんとかたどり着いたって、「帰れ」なんて言われるかも知れない。


 でも……ここで、状況に流されるまま、泣いているなんて私らしくない。
 あの日、帰ろうとする凛太郎を引き止めて、道を切り開いたのは私自身だ。
あの瞬間、かなり迷った記憶がある。でも、今思えば私の判断は大正解だった。


「前を向いて行こう。もう、下を向いて泣くのは止めた。次に悲しいことがあったとしても、今度は顔を上げて泣くんだ」


 自分に言い聞かせるように呟いて、旅行かばんに荷物を目一杯詰め込む。
 そして、居間の仏壇に手を合わせると、両親に挨拶をした。


「お父さん、お母さん。行ってきます!」


 すると、その時だ。
 ――ピン、ポォン。


 電池の切れかかった、間延びしたチャイムの音が聞こえて顔を上げる。


 ふと、窓の外に目を向けると、ちょうど夕暮れ時に差し掛かっていたらしく、真っ赤に染まっている。室内には、そろりそろりと夜の気配が忍び寄ってきていて、徐々に世界は薄闇に包まれつつあった。


 ――まさか、ね。


 既視感を覚えて、けれどもそんなことがあるわけがないと、笑みを零す。そうこうしているうちに、もう一度チャイムが鳴った。急いで玄関へと向かって、ドアスコープを覗こうとして止めた。なんとなく、そのままドアに手をかけて押し開ける。


 ゆっくりと開いていくドアの向こう――。


 そこには……やたらボロボロになった、凛太郎の姿があった。


「お久しぶりでございます。奥方様――」


 凛太郎は、慇懃無礼にお辞儀をすると、ヒビが入った黒縁眼鏡の向こうから、私を見つめた。


「奥方様に置かれましては、ご機嫌麗し……っ、うわ⁉」
「凛太郎」


 私は、凛太郎の胸ぐらを掴むと、自分よりも背が高い彼を睨みつけて言った。


「ちょうどいいところに。私を、朧の下へ連れていきなさい」


 すると、凛太郎はビクリと体を竦ませて、けれどもすぐに冷静になったのか、眼鏡の位置を直しながら言った。


「……どうしたんですか、らしくない。櫻子にでも影響され……」
「黙って」


 私は、凛太郎を自分の方へと引き寄せると、自分史上最高に低い声で言った。


「四の五の言わずに、マヨイガに行くのよ」
「か、かしこまりました。奥方様……」


 その瞬間、ふわりと白いものが辺りに漂い始めたのに気がついて、視線を移す。


「霧……」


 季節外れの霧が辺りに立ち込め始めている。
 私は、徐々に白く染まっていく視界に、言い知れない安堵感を抱いた。
 けれども、ここで気を抜くわけにはいかない。
 私は、凛太郎の胸ぐらから手を離すと、朧との再会に思いを馳せたのだった。