「本当にお世話になりました」
「これからは、天国でのんびりしたいと思います」


 ある日のこと――穏やかな昼下がりに、俺と真宵は、中庭でとある夫婦と対面していた。この夫婦は、いわゆる俺の「客」だ。熟年になってから離婚をしたらしく、互いにそのことをずっと後悔していて、死後も未練を残して成仏できずにいた。

 現世を彷徨っていた彼らに出会い、それぞれが抱える「未練」を知った俺は、夫婦を再会させることにしたのだ。


 この夫婦の「未練」。それは、お互いに謝りたい……ただ、それだけだった。


 総白髪になってしまっている妻も、元々は背が高かっただろうに加齢で背中が曲がってしまった夫も、お互いに本音を言えなかっただけ。


 ただそれだけのことが、彼らの魂を現世に縛り付けていた。


 夫婦は、お互いの皺の寄った手を絡め、仲睦まじく肩を寄せ合っている。時折、視線を交わしながら、まるで出会った頃のようだとはしゃいでいる。


「意地を張らないで、最初から本音で気持ちをぶつけ合っていたら、こんなに遠回りすることはなかったのにね」


 妻が悪戯っぽい視線を向けると、夫は複雑そうにそっぽを向いて言った。


「……愛してるだなんて、簡単に口に出せるかよ」
「まあ」


 すると妻はみるみるうちに顔を赤くして、「お父さんたら!」と夫の背中を手のひらで叩いた。そのことに対して、夫は「痛い」だの「加減を知れ」だの文句を言いながらも、どこか嬉しそうだ。


 ――愛。


 それは、人間がよく口にする言葉だ。


 形はなく、感情の一種。特に恋人や夫婦の間で共有されるものらしいが……俺にはそれが理解できない。だが、それは自然なことだろう。そんな形のないもの、実際に向けられてもみないと自覚できない。人から恐れられ、避けられてきた俺に、そんな感情を向けてくれる奇特な人間などいなかった。


 意識を夫婦に向けて、耳をそっと澄ましてみる。こんなにも満たされているふたりは、今どんなことを望んでいるのだろうと、興味が湧いたからだ。


 すると俺の耳に、ふたりの願いが届いた。それは――。


『『これからも、ずっとふたりで』』


 俺は、それを聞いた途端、顔を曇らせた。


 そうこうしている間にも、時間が来たようだ。夫婦の体が、徐々に薄くなっているのに気がついた。ふたりは、お互いに顔を見合わせると、微笑みを浮かべて俺に向かって頭を下げた。


「神様、夫とこうして再会できたのも、あなたのお陰です。お嬢さんも。最後の晩餐とっても美味しかったわ」
「本当にありがとう。ありがとう……」


 そして、すうと空気に溶けるようにして消えていった。


 その瞬間、体に力が漲る。それは、意識しないとわからないくらいの、ほんのりと甘い力だ。それが全身に染み渡っていく感覚に、僅かに目を細める。手を何度か開いたり閉じたりして、体の内部に残存している力を確かめた。


 すると、俺の隣で夫婦を見送っていた真宵が、嬉しそうに言った。


「朧、良かったですね。ふたりとも、未練を解消できて」


 真宵は、俺に無邪気な笑顔を見せている。


 この娘は、愛を知っているのだろうか。ふと、そんな考えが脳裏に浮かぶ。
 いや、まだ真宵は伴侶を得たことがないはずだ。それに当然だが、夫婦とはいえ、一年間限定の夫婦である俺たちの間にも、そんな感情はない。こうやって隣に立っていても、あの夫婦のような心の繋がりはないのだ。


 ……愛。それは俺にとって、まだ未知の感情だった。


「フフ」
「……?」


 すると、ふいに真宵が嬉しそうに笑ったので、首を傾げる。真宵は俺の顔を見上げると、どこか自慢げに言った。


「私の旦那様はすごいなって、改めて思ったんですよ。朧のお仕事の手伝いを始めて、しみじみ実感しました。未練を解消してあげて、最後に美味しいごはんまでご馳走してあげる。なかなかできることじゃないですよ」
「……そうか」


 あの陽介とかいう子どもの件以来、真宵は俺の手伝いをするようになった。
 とは言っても、すでに未練を解消した魂への、最後のもてなしの手伝いがほとんどだ。あの子どもの時のように、未練を残したままの魂には、危険はつきものだ。真宵に、そんな危ないことはさせられない。


 だから、真宵が関わっているのは、魂の「後始末」の部分だ。
 俺は、後は天に昇るだけとなった魂に、「最後の晩餐」と称して食事を提供することにしている。これをする、しないでは、貰える力の質が随分と違う。効率的に力を集めるためには必要なひと手間で、それの手伝いをして貰っているのだ。


 まあ、魂をもてなす理由を、敢えて口にしたりはしていない。そのせいで、どうも誤解を受けているような気がしてならないのだが――。


「旦那様はとても優しいですね」


 ……この誤解を解くべきか。
 だが、正直に話したとして、これは真宵を騙していたことにならないだろうか?


 この小さな妻は、俺が純粋な善意で魂たちをもてなしていると思い込んでいる。それが事実と違うと知れば……その時、どういう風に思われるのだろう。


 俺はふいと顔を逸らすと、真宵に言った。


「別に優しくはない。これも含めて、俺の仕事だからな」
「……! そうですか!」


 ――嘘はついていない。
 俺は、真宵のキラキラした目線から逃れるように、ゆっくりと母屋に足を向けた。


 少々胸が痛むけれども、こればかりはしょうがない。


 宵を娶ったのだ。俺は、誰よりも良い夫でいなければ。
 すると、真宵はテクテクと俺についてきた。ちらりと後ろを振り向くと、頭の高いところで結った髪が、まるでご機嫌な小型犬の尻尾のように揺れている。


 真宵は、俺の胸よりも下くらいまでしか身長がない。本人は、あまり伸びてくれなかった身長をかなり気にしているらしく、普段から底が厚い草履を愛用している。


 そのせいか――。
「わわっ!」
 うちの嫁は、よく転ぶ。


 今日もまた、小石につまづいて、俺の背中にぽふん、とぶつかった。その拍子に、俺の腰に抱きつくような恰好になる。真宵の小さな手が、そして体が触れて、内心酷く動揺した。


「ごめんなさい!」


 すると、俺から勢いよく離れた真宵は、恥ずかしそうに頬を染めた。
 そして、上目遣いで俺を見つめると――。


「へへ……」
 と、やけに嬉しそうに笑った。


「……!」


 その瞬間、俺はある予感がして、真宵を置き去りにして足を早めた。


「朧?」


 真宵の戸惑う声を無視して、スタスタと歩いていく。


 自分がどこに向かっているのか、わからないままひたすら足を動かす。


 あの場所に、あのままいたら。
 おそらく、真宵の心の声が聞こえていただろう。万が一にでも、それを聞いてしまったら――一年間で、真宵を手放す自信がなくなりそうだ。


「……はあ」


 秋だというのに、汗が滲んでくるのはなぜだろう。俺はやたら熱を持っている顔を袖で拭うと、縁側に足をかけた。


「もう、朧ってば‼ 待ってくださいよ‼」


 すると、俺の後を追ってきた真宵が、こんなことを言った。


「今日はもう用事はないですよね? そろそろ、おやつ時でしょう? よかったら、一緒に作りませんか!」
「……」


 ……どう答えたら、真宵は喜ぶだろう。
 俺は少し考え込むと――こくりと頷いた。


「よかった」


 途端に真宵の表情が明るくなる。
 それを見た瞬間、俺はどうにも泣きたくなってしまった。


 ――ああ。この、甘ったるい気持ちはなんだろう。


 混乱する頭のまま、俺は、嬉しそうに台所に向かい始めた真宵の後に続いた。