「朧―! 朧も、焼き芋食べますよね?」


 霧に烟るマヨイガ。その中庭で、集めた落ち葉を山盛りにして、真宵がはしゃいでいる。俺が気づいていないと思ったのか、片手を振りながら、ぴょんと真宵が跳ねれば、頭の高いところで結った髪も、元気よく跳ねた。


 その姿からは、嫁に来た当初の怯えは一切消え去っていた。むしろ、友好的な感情を抱いてくれているようだ。秘密基地に胸をときめかせていた時と比べると、短かった髪は伸び、身長はさほど変わらないながら、彼女も随分と大人になった。長くなった分、毛先があちこち自由に跳ねると、悩みが追加されたようだったが。


 初めは着慣れないようだった和服も、最近は板についてきている。今日なんかは、柿柄の着物が可愛いでしょうと、俺に自慢してきたくらいだ。面布衆が買ってきた反物を、自分たちで仕立てたりしているらしい。


 あの――まるで奇跡みたいな時間は、真宵が中学生になるまで続いた。


 後で知ったことだが、真宵はあの近くに住んでいたわけではなかったらしい。秋休みを利用して、遊びに来ていただけだった。両親に着いて親戚の家に泊まりに来ていたようだが、あまり居心地のいい家ではなかったらしく、ひとりになりたくて秘密基地を求めていたのだ。結果、中学生ともなると、両親とわざわざ出かけることも少なくなり、あの秘密基地を訪れることもなくなってしまった。


「おーぼーろっ! 聞いてますか?」


 ひとり物思いに耽っていると、真宵がまた大きな声を上げた。


 苦い笑みを零し、真宵に向かって小さく頷く。
 すると彼女は、ぱあっと顔を輝かせた。


「一番美味しいところ、持っていきますからね!」


 そして、焚き火の近くにしゃがみ込むと、木の枝で落ち葉を弄り始めた。


「朧様、よろしければ蒸かしたじゃが芋もお持ちしましょうか」


 するとそこに、糸目に黒縁眼鏡をかけた、茶髪の青年が声をかけてきた。
青年は、両手に木箱を持っている。その中から、一際立派なじゃが芋を取り出して、「如何でしょう?」と少し不安そうに俺を見つめた。



 この青年は、俺の神使……であったはずの存在だ。
 名を凜太郎。代々、神に仕えている狐の一族で、その中でも一際優秀な能力を持っている。それなのに、何故か俺の神使になりたいと押しかけてきたのだ。


 ……が、俺自身が神としては無能であったがために、「神使見習い」という扱いになっている。本来であれば、社の前に姿形を模った石像でも造られ、祀られているはずで、本人もそれを目指して修行してきただろうに、不憫なものだと思う。


「塩辛がいい~? それとも明太マヨ? 塩バターも捨てがたいよねえ」


 次いでそこにやってきたのは、もうひとりの「神使見習い」櫻子だ。
垂れ目がちな大きな瞳を輝かせ、どの調味料にするかと頭を悩ませているようだ。


 彼女は狸の一族の出身で、凜太郎の幼馴染。俺のもとに押しかけた凜太郎を追いかけて、ここにやってきた。そんな櫻子もまた、「見習い」という立場に文句も言わず、俺の下で働いてくれている。


 俺はふたりを交互に見ると、「任せる」と頷いた。すると、櫻子はみるみるうちに笑みを深めて、口もとを手で隠して言った。


「じゃ、真宵ちゃんとおんなじね。化け神さんは、真宵ちゃんと一緒!」
「待て。適当に済ませるな。きちんと朧様の要望をだな……」
「え~。大丈夫だよ。化け神さんは、これが一番嬉しいと思う~」


 凛太郎は、困り果てたようにこちらに視線を寄越す。俺が、ふたりに向かって頷いてやると、凛太郎は唇を尖らせ、櫻子は満面の笑みを浮かべた。
 俺は、不満そうな凛太郎の頭の上に、ポンと手を置いて言った。


「……いつも気遣ってくれて助かっている」


 すると、凛太郎はパチパチと目を瞬かせると、みるみるうちに顔を真っ赤にして、ぴょんと狐耳を生やした。そして、慌てて耳を髪の中に仕舞い込むと、ふらりと一歩後退った。


「ぼ、僕は、朧様の一番の眷属ですから、当然のことです!」


 そして叫ぶように言うと、そのまま焚き火の方へと走り去っていった。


「アハハ! 凛太郎ちゃんったら。うぶだねえ~」


 そんな凛太郎の後ろ姿を、櫻子は僅かに目を細めて眺めている。
 その姿がどうにも寂しそうで、声をかけようと口を開きかけた。……が、その前に櫻子は凛太郎の後を追って歩き出してしまった。


「じゃ! 美味しいおやつ、期待していてくださいね~」


 次いでそう言うと、焚き火について、真宵に文句を言っているらしい凛太郎に向かって、猛然と駆け出した。


「……とうっ!」
「うわああああ!」


 そしてそのまま、凛太郎に飛び蹴りをくらわしたのだった。


「……フッ」


 俺は小さく噴き出すと、肩を揺らして笑った。
 焚き火の周りの三人は、大騒ぎしつつも楽しそうにしている。


 ――賑やかなことだ。


 俺は屋敷のぬれ縁に移動すると、そこに座って彼らの様子を眺めることにした。


「……おお、賑やかではないか。我も混ぜよ」


 すると、誰かが声をかけてきた。ふと隣に視線を向けると、そこには昔馴染みの友人……獣頭の神の姿があった。


 獣頭の神は俺の一番の友人だ。人を嫌い、引きこもっていた時から、度々俺の下を訪れていた奇抜な奴で、俺のことをよく知っている。この友人は、俺が嫁を取ったと知ってから、よく遊びにくるようになった。元々、好奇心の強いタイプだ。人間の嫁に興味津々なのだろう。


 獣頭の神には、友人としてだけでなく、別の意味でも大変世話になっている。
 神としての信者を持たない俺は、生きているだけで魂をすり減らしていく。
 このままでは、消えてしまう……そう思った時に、手を差し伸べてくれたのが獣頭の神だった。コイツは、はるか遠くにある、太陽と砂の国に属する神で、主に「死」を司っている。人の望みを知ることができる俺の能力に興味を持ち、仕事を手伝わないかと提案してくれたのだ。


 未練を解消した人間が天に昇る時、彼らは感謝の言葉を遺す。それは、信仰から出た言葉に比べると弱くはあるが、同じように神の糧となるのだ。獣頭の神がいなければ、俺はとうの昔に消えていただろう。だから、コイツには感謝している。


 ……少々、お節介なところが玉に傷だが。


 俺と同じように、真宵たちの様子を眺めていた獣頭の神は、面布衆に酒を持ってこさせると、どこか感心した様子で言った。


「人というものは、面白いものだな? 朧よ。住めば都という言葉があるらしいが、一旦馴染んでしまえば、元々住んでいた者以上に居心地が良さそうだ」


 俺は小さく頷くと、獣頭の神の言葉に続いた。


「……俺の姿にも慣れてくれたようで、安心している」
「まったくだ。近づくたびに失神していては、禄に子作りもできやしない‼ そのことに関しては、人の順応力の強さに感謝だな」


 獣頭の神はニヤリと笑うと、ぐびりと酒を呷った。


「朧よ、子はまだか? 人は弱いからな。大切にしたい気持ちはわかるが――」
「……獣頭の。それを口にするのは、野暮というものだろう」
「確かに」


 獣頭の神は、クツクツと喉の奥で笑うと、もうひとくち酒を呷った。そして、口もとから漏れ出した酒を手で拭うと、ほろ酔いの様子で俺に尋ねた。


「……で。訊いていなかったな。アレはどこで拾ってきた」
「野暮だと言ったばかりだが」
「フン。これくらい、教えてくれてもいいではないか。頑として嫁を取ろうとしなかったお前が――何故、あの娘を嫁にしようと思ったのかを」


 そして砂漠の太陽のような色の瞳を細めると、葡萄酒の瓶を俺に差し向けた。


「きっかけはあの娘か? 面白い、なにがあった。話せ」


 なにもかもわかっていると言わんばかりの態度に、ため息を零す。俺は、面布衆から杯を受け取り、獣頭の神に酒を注いで貰いながら言った。


「……前に、真宵と会った時のことを話したな」
「おお。あの惚気の塊の話か。耳の奥が痒くなったわ」
「……話すの、やめるか?」
「はははは。冗談だ、朧よ。続けろ」


 俺は、いやに尊大な態度の友人に苦笑いをすると、話を続けた。


「俺の下に、彼女が来なくなってからしばらくして、俺は案の定我慢ができなくなって、棲み家を飛び出した。自分に心を預けてくれた存在に、なにかあったらと思ったら不安で堪らなかったのだ」


 まるで飼い主がいなくなってしまった犬のように、必死に現世中を捜し回った。そして一年をかけて、ようやく彼女を見つけだした。それからというもの、人にバレないように細心の注意を払いながら、こっそりと真宵を見守った。


 中学から、高校へ――真宵は友人にも恵まれ、少しずつ大人になっていった。神とは違い、徐々に変化していく人間は、俺にとって酷く眩しく思えた。
俺は彼女が少しずつ変わっていくのを見ながら、誰にも知られずに傍にいた。


「そうしているうちに、自分自身の中に残った力が少なくなっていると気がついた。だから、お前に仕事を斡旋して貰うように頼んだのだ。今、消えてしまったら、真宵を見守れなくなるからな」


 俺が生き延びようと考えたのは、すべて真宵のためだった。
 ここ数年は、俺の世界の中心は真宵だ。


「あの娘に危機が迫った時に、すぐに動けるように備えていたが、幸いなことに今の日本は平和で、最近まで特になにも起こらなかった。だが……真宵の両親が死んで、莫大な借金が残されたことを知った。だから、借金を肩代わりすることを条件に、真宵を娶ったのだ」


 俺は、小さく息を吐くと、苦く笑った。


「――手元に置いておきたい。そう思ったことは否定しない。笑うがいい。神の癖にと、詰ってくれてもかまわん」


すると――話を聞いていた獣頭の神は、心底面白そうに手を叩いて笑った。


「なんだお主、すとーかーであったか。ワハハハハ!」
「す、すとーかー……?」
「現世では、本人の許可なくつきまとうことをそう言うのよ。いやいや、気にするな。やたら個人に執着するのは、神にはありがちなこと。力を持つゆえに、好き勝手やりたがる……ああ、困ったことにな」


 ケラケラと楽しそうに笑っていた獣頭の神は、しかしすぐに表情を消すと、俺に冷たい視線を寄越した。


「だがそれは、神の為すべきことではない。愚かにも、そういった行為に及ぶ神は後を絶たないが、それらは尽く報いを受けている。……気をつけることだ。友よ」


 そして、トンと俺の胸に拳をぶつけると、歯を見せて笑った。


「人なぞ、すぐに死ぬ。替えはいくらでもいるだろう? そのような執着、すぐに捨ててしまえ」


 その言葉に、俺は瞼を伏せた。
 獣頭の神は、俺からすると本当に神らしい神だと言える。
 正直で、己に自信がある。そして、なによりも自分を優先する。それは当たり前のことだ。なにせ、神よりも上に立つものはいない。人のことだって、あくまで糧を与えてくれる存在だとしか捉えていない。人が、日々口にする食事に関して、拘りを見せることはあっても、自分と同等だとは考えないように。
神はそうあるべきだ。無数にいる人を救うためには、それが最適解なのだ。


 だが、俺は……。


 あの小さな人の娘のことを、そういう風には思えない。


「獣頭の。俺はもう、神ではないのかもしれないな」


 ぽつりと本音を零す。すると、獣頭の神は、一瞬、ぽかんと間抜けな顔になると、次の瞬間には大慌てで体を乗り出してきた。


「朧よ、それはどういう意味だ。まさか――お前」


 俺は、珍しく動揺している獣頭の神の顔が面白くて、思わずまじまじと眺める。
 その時だ、ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえてきた。


 ……真宵。


 俺は自然に笑顔を浮かべると、そちらに目線を向ける。そこには、焼き芋を手に駆けてくる妻の姿があった。


「朧、一番大きいのを持ってきましたよ」
「美味しいところじゃなかったのか?」
「大きいの、なんとなく美味しそうじゃありません?」


 煤で汚れてしまった顔で笑う妻に、懐から手ぬぐいを出して拭いてやる。
 真宵は、大人しく俺のなすがままになっている。こう言う時の真宵は、あの秘密基地を探して、洞に迷い込んで来た時とちっとも変わらない。じわじわと胸の中心から温かいものが広がっていくのを感じながら、俺は丁寧に顔を綺麗にしていく。


『――朧。もっと』


 ふと、真宵からそんな声が聞こえてきて、眩暈がした。けれども、妻の小さな顔は既に綺麗になっていて、俺は少し名残惜しさを感じながら「終わりだ」と手を下ろす。すると、真宵は俺の手の行方を視線で追って、僅かに唇を尖らせた。


『もっと、触れて欲しかったのに』
「……ッ」


 俺は、慌てて真宵の手から焼き芋を受け取ると、妻の背中を押した。


「櫻子が呼んでいる」
「え?」


 真宵は焚き火へと視線を向けると、微笑みを浮かべた。どうやら、神使のふたりが、じゃが芋を蒸すだのと騒いでいるようだ。


 真宵は、俺に笑顔を向けると、「行ってきますね」と小走りで行ってしまった。その背中を眺めていると、途中、小石に蹴つまずいて転びそうになった。


「あっ……」


 ハラハラしていると、寸前で転ぶのを回避した真宵は、無事に焚き火の下へとたどり着いた。凛太郎と櫻子に向かって、照れ笑いを浮かべているのが見える。


 安堵の息を漏らし、苦笑を浮かべる。
 すると、笑い声が聞こえてきて、盛大に顔を顰めた。


「……フッ。クク、ククククク。過保護め」
「獣頭の。笑うな」
「いや。笑うなと言う方が……クククク……」


 俺は、目に涙を浮かべて笑っている友人をじろりと睨むと、次の瞬間、小さく噴き出した。しばらくの間、二人で笑っていると、焚き火の近くにいる真宵と目が合って、小さく手を振る。すると真宵は、大げさなくらいに手を振り返してきた。そんな真宵に、なぜか凜太郎は非常に悔しそうに顔を顰めている。そんな凜太郎を、すかさず櫻子が茶化した。そこには、いつもと変わらない光景が広がっていた。


 ああ――いつまでも、この日常が続けばいい。
 俺は、霧に烟るマヨイガで、心からそう願っていた。


「……」


 そんな俺を、獣頭の神は少し淋しげな瞳で見つめていた。