ある日のことだ。
 

 真宵は、いつもよりも大荷物を抱えてやってきた。パンパンのリュックから取り出したのは、半透明の容器。それに、ひとりで飲むには大きすぎる水筒だ。


 なにがあるのかと不思議に思って眺めていると、真宵はいつものように祠に供え物を上げ始めた。しかし、様子がおかしい。普段は木の実など、山から採ってきたものを供えていたのに、今日は違ったのだ。


「お母さんとね、一緒に作ったんだよ」


 そう話しながら、真宵が並べたのは、白くて丸い、少し平べったい食べ物だった。表面に狐色の焦げがついていて、見るからにむっちりとしているのがわかる。


「私の大好きなおやつ。いつも、お世話になってるからね。感謝の気持ちを籠めて作りました!」


 真宵は、それを並べ終わると、パン! と勢いよく手を合わせた。
 そして、目を瞑ると――。


「神様、いつもありがとう。美味しいから食べてね」


 そう言って、いつもの定位置に敷物を広げると、自分の分を容器から取り出した。そしてそれを噛りながら、読書を始めた。


 秋の風が吹くと、洞の中は葉擦れの音でいっぱいになる。俺は、その音を聞きながら、じっと祠を見つめていた。


 やがて夕方になると、真宵は祠に挨拶をして帰っていった。普段よりは、随分と長い間喋っていたような気がする。けれども、俺はそれどころじゃなかった。


 天井の裂け目から差し込む月の冷たい光を受けて、それは白く浮かび上がっているように見えた。俺は、のそりと大きな体を動かすと、祠に近づいていった。


 ざら、ざらざら、と砂やら落ち葉やらが落ちる音がする。けれども、それには構わずに、鼻先を祠にくっつくほどに近づける。


 ――あぁ‼
 俺は、恐る恐るそれの匂いを嗅いだ。


 甘くて、香ばしくて、小麦の匂いがする。
 それは俺にとって、初めての――食べられるお供えものだった。





 ――真宵。真宵。
 お前は知っているだろうか。
 お前は俺にたくさんの「初めて」をくれたのだ。


 それが、どれだけ俺の心を満たしてくれたか。
 それが、どれだけ俺を癒やしてくれたか。
 お前はきっと知らないだろうな。


 あの時のお供え物、もったいなくて中々食べられなかった。
 その次の日から、お前が来なくなってしまったから尚更だ。あの日、長々と話していたのは、別れの言葉だったんだな。
 ちゃんと聞いてやれなくて、本当にすまなかった。


 結局――あのお供え物は、だいぶ経ってから食べた。
 鳥やら虫やらが狙っていたから、腹の下に隠しておいて、毎日、毎晩、眺めていたんだが、黴が生えてきてしまったから、仕方なくな。
 水分が飛んで、カチコチになっていたから――正直、味がしなかった。
 でも、でもな。真宵――。


 最高に美味かった。
 名も知らぬお供え物を、俺はみっともなく涙を零しながら食ったよ。


 ……本当は、姿を見せなくなったお前を、捜しにいこうかとも思った。
 けれども、俺は恐ろしい化け物だろう? 
 お前を怖がらせたらいけない。そう思って、やめておいた。


 信じる心、感謝の言葉。それはなんて魅惑的なのだろう。
 一度味わったら、二度と忘れられない。
 真宵が来なくなって、お供え物もなくなってしまった。
 また、俺にはなにもなくなってしまった。


 俺は、お前のことが忘れられなくて、意識を閉ざすと長い眠りについた。そうでもしないと、お前を捜しに洞を飛び出してしまいそうだったからだ。


 ――まあ、そのうち……我慢できなくて、飛び出していただろうけどな。


 深い、どこまでも深い眠りの中。
 俺はそのうち、また自分の寿命について考えるようになった。
 早く、この命が果てればいい。この耐え難い乾きから、早く解放されたい。
 そう思っていた――ある日のことだ。


「……神様‼ 今年も来たよ‼」


 山が萌える季節。木々が鮮やかな色で自らを着飾った、次の年の秋。
 俺は、元気いっぱいの声で叩き起こされた。




 秋は好きな季節だ。
 なぜなら、ひとりぼっちの俺の下に、少女がやってきてくれるからだ。
 大切な、大切な少女が、笑顔を見せてくれ、風の冷たさとは裏腹に、心が温かいもので満たされる……そんな季節だからだ。