それから数日間、私は朧と陽介君と三人で過ごした。


 陽介君自身は、初めは朧を怖がっていたようだが、徐々にそれにも慣れていった。人間は慣れる生き物――朧自身も、それを実感しているようだった。


 あの黒い手は、頻繁に姿を現した。


 そのたびに、朧が追い払ってくれたものの、陽介君の体は徐々に黒く染まっていった。だから、私は朧の指示に従いながら、陽介君が食べたいものを作っていった。


 クリームコロッケ、オムライス、ハンバーグ、エビフライ。子どもらしく、洋食が好きらしい。陽介君のお母さんは料理上手だったようで、自分でお子様ランチを作ったりもしていたようだ。その頃には、私の陽介君の母親に対する疑念は完全に晴れていた。むしろ、なにか事情があって、陽介君を置いていかざるを得なかったに違いない……そんな確信があった。それだけ、母親が陽介君に作っていた料理には、気遣いや愛情が溢れていたからだ。


「――ママ、僕のこと迎えに来てくれるかなあ?」


 陽介君は、頻繁にそんな言葉を口にした。


 そういう時、私は陽介君をギュッと抱きしめると、一言、一言、噛みしめるようにして言い聞かせた。


「絶対に迎えに来るよ。きっと、ママも陽介君のことを捜してる。大丈夫、私の旦那様はすごい神様なんだから。……きっと、見つけてくれるよ」


 私の言葉に、陽介君はニッコリと笑った。


「うん。あの神様なら見つけてくれるよね。僕と一緒で、ケチャップ大好きだしね」
「フフフ……そうだね。意外に好きよね」
「怖いお顔してるのにね‼ お皿に残ったケチャップ、全部スプーンで掬って食べるんだ。きっと、お口はお子様(・・・)なんだよ」
「……プッ。アハハハ‼ 陽介君、やめて。朧に聞こえちゃう」
「聞こえてるぞ」
「わっ。お顔が怖い! お姉ちゃん、逃げよう‼」


 私たちの笑い声が、夏のマヨイガに響いていく。
 夏らしい熱を含んだ空気の中で、私たちはぴったりと寄り添いながら、一日一日を過ごしていった。徐々に、私の作った料理を食べても、陽介君の体から汚染された部分が減らなくなっていくことから目を逸して。


 燦々と降り注ぐ太陽の光の中で、私たちは笑顔でいた。





 そして――陽介君と出会ってから、五日目のことだ。


 たくさん遊んで、お昼ごはんをお腹いっぱい食べて。お昼寝をし始めた陽介君に付き合っていたら、いつの間にか私も眠っていたらしい。
 目覚めると、外から差し込む夕日の朱色が目に飛び込んできた。


 遠くで、鴉が鳴く声が聞こえる。黄昏に染まった室内は、両親を亡くして嘆いてばかりいたあの日を思い出させて、どこか物悲しく感じる。


「……あれ」


 辺りを見回すと、どうにも陽介君の姿が見当たらない。焦りを覚えた私は、慌てて襖を開けて、中庭を見渡した。夕日が眩しい。手をかざして目を細める。すると、中庭に小さな背中を見つけて、安堵の息を漏らした。


「陽介君」


 声をかけようとして、途中で止める。


 黄昏色に染まったその光景に、違和感を覚えたからだ。どこか気持ち悪さを感じながら、踏石の上にある草履に足を通し、中庭に降り立つ。徐々に夜に向かいつつあるせいか、日中よりは涼やかな風が、私の頬を撫でていく。


「陽介君。冷えてきたから、中に入ろう?」


 黙ったまま動かない陽介君に近づき声をかける。
 すると、ようやく陽介君はこちらに振り向いてくれた。


「……お姉ちゃん、痛いよう」


 真っ赤に燃える太陽を背に、陽介君が立っている。
 逆光のせいか、陽介君の表情が昏くてよく見えない。
 いや――違う。それに気がついた瞬間、背中に冷たいものが伝った。
 逆光のせいじゃない。陽介君の体全体が、闇色に塗りつぶされてしまっている。


 ふくふくとしたほっぺたも、半袖から伸びた細い腕も、サンダルを履いた足の指の先まで、黒一色で染まっている。更には、その体から陽炎のように闇がこぼれ落ち、ゆらゆらと辺りに影を落としている。


 私は、慌てて陽介君に駆け寄った。


「ど、どうしたの。大変……大変だ、どうしよう」


 パタパタと手で闇を払おうとする。

 
 けれども、いくら払っても変わらない。混乱した頭のまま、どうすればいいか一生懸命考える。そして、あることを思い出して、弾んだ声を上げた。


「そうだ、ごはんにしよう! そうすれば、この黒いのも消えるはず……」


 けれど、そんな私の言葉に、陽介君はふるふると首を振った。


「もう駄目だよ。もう遅いよ。……お姉ちゃん、僕はもうママに会えない」
「そんなこと――……‼」


 否定しようとして、けれども途中で口を閉ざす。なぜならば、陽介君の影から、大量の黒い手が伸びてきているのを、目にしてしまったからだ。


 私は歯を食いしばると、陽介君を抱き上げた。


「陽介君……逃げるよ」
「もう、駄目だよ。もうママには……」
「馬鹿言わないの‼ ママに会うんでしょう⁉」


 一喝すると、陽介君は体をビクリと引き攣らせ、黒く染まった顔で私を見つめた。


「……まだ、ママに会える?」
「もちろんだよ。私の旦那様なら、なんとかしてくれる」


 陽介君は、涙を一杯湛えた瞳で私を見つめると、その小さな手を私の首に回した。


「朧‼ どこ……‼」


 私は大きく叫ぶと、黒い手から逃れるように走り出した。


 最近は慣れてきたものの、和服の裾が足に絡んで走りづらい。けれども、そうも言ってはいられない。私は、夕日の中に、化け物みたいな神様の姿を捜してひた走る。


 ちらりと後ろを確認すると、黒い手が追いかけてきているのが見えた。


 ……いや、それはもう、手とは言えない。数え切れないほどの黒い手が絡み合い、混じり合って、巨大な人形となって私たちを追ってくる。赤ん坊のように四つん這いになって、陽介君を飲み込もうと、怒涛の勢いで追いかけてくる!


 きっと、あんなものに追いつかれたら、ひとたまりもないだろう。私は、すでに怠くなりつつある足を必死に動かして、母屋に向かって駆けていく。


 ――その先に、朧がいる。そう信じて。


「――はあっ、はあっ、はあっ‼」
「……痛い……痛い……ママァ……」


 激しく乱れる呼吸。そして、陽介君の苦しげな声を聞きながら、やっとのことで母屋にたどり着く。すると、そこには明かりを手にした面布衆たちが待っていた。


「奥方様‼ あちらでございます‼」


 彼女たちは、私たちを守るように、黒い人形の行方を遮った。私は、面布衆にお礼も言えずに、ひたすら巨大な屋敷の中を走り抜ける。迷ってしまうかもと心配したが、私の行く先々に面布衆が現れ、どこに行けばいいか教えてくれた。


 やがて――たどり着いたのは、マヨイガの玄関だった。


 重い体を引きずり、痺れる腕で陽介君を落とさないように苦労しながら、玄関を開ける。するとそこには、ずっと捜していた朧の姿があった。


「……ああ。やっと」


 嬉しくなって、頬を緩める。けれども、朧は険しい表情を浮かべて、問答無用で私の腕の中から陽介君を抱き取った。


「――真宵。離れていろ」
「……お、ぼろ?」


 朧の赤と黒の色違いの瞳に、剣呑な光が宿っているのに気がついて、私は息を呑んだ。どうしてそんなに怖い顔をしているのか、理解ができなくて思考が止まる。


「陽介君を、どうするの」


 思わず尋ねると、朧は小さく首を横に振った。


「……っ、駄目」


 嫌な予感がして、私は、朧から陽介君を取り戻そうとした。……が、それは叶わなかった。屋敷の中から、誰かの悲鳴と、何人もの足音が聞こえてきたからだ。


「――朧様。アレが参ります‼」


 そこに姿を現したのは、凜太郎だ。
 普段はきっちりと整えている髪を乱れさせ、額に汗を浮かべた見習い神使は、私の顔を見るなり、ハッと皮肉めいた笑みを浮かべた。


「まったく。面倒なことをしてくれましたね‼」


 そして、私を抱き上げると、玄関の外に向かって走り出した。


「うええっ⁉ ど、どこに――……」
「黙っていてください。舌を噛みますよ‼」


 凜太郎がそう言った瞬間――マヨイガの玄関の内から、黒い粘着質のものが溢れかえった。それは、陽介君を執拗に追っていた黒い手の成れの果てだ。
多くの悪霊と混じり合い、人形ですらなくなったそれは、陽介君を捕らえようとヘドロのような体を伸ばしている。辺りに粘着質の黒い欠片をまき散らしながらも、すさまじい執着心を見せる様子は、ただごとではない。


 その時、背筋が凍るような、異様な声が聞こえてきた。
 それは、老若男女様々な人間の声が入り混じった――怨嗟の声。


「「「「寂しい……寂しい……お前も一緒に……一緒にィィィィィ‼」」」」
「――……いい加減、諦めろ」


 すると、玄関から離れた場所に避難していた朧は、それらに冷たい視線を投げかけた。そして丁寧な手付きで地面に陽介君の体を下ろすと、その瞬間、朧の体がみるみるうちに変わっていった。


 筋肉が膨張し、骨が変形していく音がする。人らしい部分が段々と消え失せ、存在が獣に近づいていく――。


 やがてそこに現れたのは、黒く艷やかな毛に、四対の真紅の瞳、捻じくれた漆黒の両角、凶悪な爪を持った、山ほどもある巨大な化け神だ。
朧は、体をふるりと震わせると、なおも陽介君を捕らえようとするそれに向かって、大きく吠えた。


「グルァァアアアアアアアアアアアァ‼」


 あまりの声に、思わず耳を塞ぐ。すると、その咆哮を真正面から受け止めたそれは、まるで火にかけられたお湯のように一瞬で沸騰した。
ブクブクと泡立ち、形を歪に変えていく。そしてそれは、鉄板の上に落ちた水滴のように、徐々に総量を減らしていった。


 ――やがてそこには、黒い泡がひとつ、ぽつんと残された。


 朧はそれに近づくと、容赦なく足で踏みつけた。そして、ひらりと身を翻すと、あっという間に人形に戻って、地面に横たわっている陽介君に近づいていった。


 凄まじい光景に圧倒されていた私は、正気に戻ると、慌てて朧に声をかけた。


「お、朧。なにをするの。……陽介君に酷いことをしないで‼」


 すると、朧は歩みを止めて私の方に振り返った。


 その顔を見た瞬間、私は胸の奥に鋭い痛みを感じた。なぜならば、朧が見たこともないくらいに、哀しそうな顔をしていたからだ。


「あっ……ごめ……」


 自分のあまりにも酷い言い方に後悔して、小さく謝罪の言葉を漏らす。
すると、朧はどこか諦めたような顔で言った。


「奇跡なんて、簡単に起こるものではない。たとえ、神であったとしてもな。この子どもは……処分する」
「……っ‼」


 その言葉に、思わず顔を歪めた。心臓が締め付けられるようで、息が上手くできない。息を吸おうにも、喉が酷く乾いていて、舌が口内に張り付いてしまったようだ。


 私はおもむろに、凜太郎の腕から降りた。
 すると、そんな私を倫太郎が引き留めた。


「……奥方様、朧様の邪魔は」
「……しませんし、できません。私はなんの力も持ってない、ただの人間だもの」


 乾いた声で、やっとのことで答える。私は、ふらつきながらも、地面に横たわる陽介君に近づいていった。


 ――ああ、世界が赤い。
 黄昏時の空に照らされた陽介君は、痛みに顔を歪め、脂汗を浮かべて唸っている。あの黒い手からは逃れられたものの、穢れは彼の体を確実に蝕んでいるようだった。このまま放って置けば、おそらく――この子は、悪霊と成り果てる。


 夕暮れ時は、バラバラになっていた家族が集まる時間だ。
 なのに、この子の下には誰も帰ってこなかった。
 夕暮れ時は、容赦なく世界から光を奪っていく。


 私は、陽介君の傍にしゃがみ込むと、その手を握りしめた。


「痛いね、辛いね。……ごめん。ごめんね、陽介君。迎えに来るって言ったのに。大丈夫だよって言ったのに。お姉ちゃん、嘘ついちゃった」


 柔らかい頬に触れ、頭を撫でる。痛くないように、ぐったりとしているその小さな体を優しく抱きしめてやる。まだ、二次性徴すら迎えていない、誰かが守ってやらなければいけないはずの子どもが……苦しみ続けている。


 ひとりは寂しいものだ。両親が死んだ時に、嫌というほどに実感した。
人間がひとりで生きていくのは難しい。幼い子どもなら尚更だ。それを知っていたからこそ、この子をどうにかしてあげたかった。なのに……。


「助けてあげられなくて……ごめん……」


 そのことが辛くて、苦しくて、申し訳なくて――。
 気がつけば、私も涙を零していた。


 ――すると、その時だ。
 朧が、私を陽介君ごと抱きしめた。


 大きな体に包まれて、夕日が遮られる。途端に世界を包む色が変わって、恐る恐る朧を見上げる。私たちを抱きしめている朧は、見たことのないような穏やかな表情をしていて、驚いて目を何度か瞬いた。


「奇跡……確かに、奇跡は簡単に起こらない。……だが、積み上げてきたものは確実に成果となる。それは奇跡とは言わないだろう? そうは思わないか、真宵」


 言葉の意味がわからずに首を傾げる。


 すると朧は、私の頭をポン、と叩くと、柔らかな笑みを浮かべて言った。


「……頑張ったな。どうやら――間に合ったようだ」
「え?」


 その時、遠くからなにか聞き慣れない音が聞こえてきた。
 それは、軽快に地面を蹴る音。獣の吐息。なにかのいななき――。


「……馬?」


 音がした方に視線を向ける。すると、朧がぽつりと言った。


「――時が来た。導きの炎を」


 すると、朧が懐からなにかを取り出した。それは、何本かの木切れだ。朧の手のひらに乗せられたそれは、次の瞬間には炎に包まれた。


 ちりちりと木が焼ける音がして、焦げ臭さが鼻を突く。熱くないのかとも思ったが、朧は平気そうな顔をしていた。


 やがて木切れが炭化し始めると、真っ白な煙がゆらりと空に昇って行った。
その次の瞬間、屋敷を包む霧の向こうから、なにかが近づいてくるのがわかった。それもひとつじゃない。なにかの大群が、こちらに向かってやってくる‼


「お待たせしました~‼」


 そして聞こえてきたのは、やけに呑気な――聞き慣れた声。場違いなほどに明るいその声に、思わず目を瞬く。


 霧の向こう――そこから姿を現したのは櫻子だった。


 なにか大きな動物のようなものに跨り、宙を駆けてくる。
 櫻子は、何人もの同じ動物に跨った人間を引き連れていた。辺りが足音やらいななきで急に騒がしくなり、目を白黒させていると、彼らが跨っているものの正体に気がついて、更にギョッとしてしまった。


 それは、胴体がきゅうりで造られていた。ついでに言うと、手足は木材でできている。普通のサイズであれば、割り箸なんて呼ばれそうな木材だ。それが、まるで生きているかのように、駆け、いななき、軽快な動きで人々を運んでいた。


 それには見覚えがあった。精霊馬――。お盆の時期、先祖の霊を迎えるために、きゅうりなどの野菜で作られる供物のひとつだ。


「どうどう。いやあ、お盆の時期は本当に混むよね~。参っちゃう。あ、やっほ! 真宵ちゃん、ひさしぶり~! 風邪治った?」


 場違いなほどに明るい櫻子に、曖昧に笑って頷き返す。


 すると、櫻子はひらりと精霊馬から降りると、私たちの方へとやってきた。


「朧様‼ 遅れてすみませんでした。留守中、凜太郎ちゃんが真宵ちゃんに意地悪しませんでした?」


 その言葉に、私たちを黙って見守っていた凜太郎が、ギョッとしたのが見えた。けれども、今はそれどころではない。朧は首を横に振ると、櫻子に尋ねた。


「その話は後だ。それよりも、あれは連れてきたのか」
「もっちろん!」


 櫻子は得意げに胸を叩くと、私たちの間にいる陽介君を見つけて、満面の笑みを浮かべた。


「あらま。化け神さんと真宵ちゃんに挟まれて、温かそうだねえ。まあいいや、こっちおいで!」


 そして、陽介君をひょいと抱き上げると、辺りをキョロキョロと見回し――。


「あ、いたいた‼ ほら、ここだよ~」


 満面の笑顔で手を振ると、陽介君の体を頭上に抱き上げた。その時だ。一匹の精霊馬が怒涛の勢いで駆けてきた。このままでは、櫻子たちに激突してしまいそうだ。


 ハラハラ見守っていると、その精霊馬を操っていた人物は、ひらりと華麗に馬から飛び降り、両手を広げて叫んだ。


「……陽介‼ 迎えに来たよ……‼」


 それは、三十路くらいに見える女性だった。


 半透明の体をしていて、白装束を纏っている。彼女は櫻子から陽介君を受け取るなり、勢い余ってその場でくるくる回った。そして、陽介君を力いっぱい抱きしめ、ボロボロと涙を溢しながら、小さな顔に頬ずりをしながら言った。


「寂しかったでしょう。待たせてごめん。ママが来たよ……!」


 それは、陽介君の母親だった。彼女は、愛おしそうに陽介君を見つめると、「ただいま……!」と泣き笑いを浮かべた。


「ママ……?」


 すると、うっすらと目を開けた陽介君は、目の前に心から待ち侘びた人物を見つけて、途端に涙を浮かべた。そして、顔をくしゃくしゃに歪めると――。


「ママああああ‼ う、うわああああああああん‼」


 大声を上げて、母親に抱きついたのだった。