あくる日の朝。マヨイガの台所には、真っ白な湯気が充満していた。


 昆布と鰹節の合わせ出汁のいい匂いが辺りに立ち込め、私の振るう包丁とまな板がぶつかる、トントンと小気味いい音が響いている。


「……うん、こんなものかな」


 出汁に味噌を溶かして、軽く微笑む。
 食器にできた料理を盛って、綺麗に整えていく。


『化け神さんの喜ぶごはんの作り方、知りたい?』


 その時、ふと昨日聞いた櫻子の話が脳裏に蘇ってきて、動きを止める。
 櫻子が語ってくれたのは、朧のある事情だった。


『神様ってさ、自分を信仰してくれる人たちから、お供えものを貰えるよね。色んなものを捧げてもらって、普通なら(・・・・)、その中から自分の好きなものを見つけるんだと思う。ほら、お稲荷さんは油揚げが好きだ、ってよく聞くでしょ? それって多分、誰かが、とびっきり美味しい油揚げをお供えしたんだよ』
『……普通なら?』


 私が首を傾げると、櫻子は苦い笑みを浮かべ、どこか遠くを見て言った。


『化け神さんはね、その見かけが怖すぎて、誰にも信仰して貰えなかった神様なの。別に悪いことをしたわけじゃないんだよ。存在が恐ろしすぎた。神様になるために生まれたのに、人間から見ると化け物にしか見えなかった』


 それには私も覚えがあった。絶対に逆らえない、本能からくる恐怖。まさか、そのせいで神であるはずの朧が、信者を得られなかったとは。


『だから、化け神さんって、みんなから呼ばれてるんだよ。知ってた?』


 知らなかったと首を振ると、櫻子は私の頭を撫でて言った。


『誰にもお供えして貰えなかった、化け神さん。だから、あの人は自分の好きなもの、好みのものがよくわかってない。真っ白なの。だから、凛太郎ちゃんが、真宵ちゃんのごはんなら大丈夫って言ったわけ。自分がお嫁さんにって望んだ人のごはんなら、自分を信仰してくれる人からのお供えもの以上に、美味しく感じるはず』
『でも、朧が満足してくれたことなんて、一度もなかったよ?』
『そりゃそうだよ、今日まで真宵ちゃんが作ってたごはんは、真宵ちゃんのごはんじゃないもの』


 その時の衝撃を思い出して、ふふ、と笑みを零す。


 袖を捲って、手に水をつける。そして、熱々のごはんをせっせと握っていく。


 ――この屋敷で、初めて食べたあのお膳みたいな料理を。


 今までの私は、そんな考えに囚われていた。背伸びして、プロみたいな料理を目指して……別にそれは、完全に間違いであるとは言えない。高みを目指して努力することは大切なことだ。でも、元々持っていたものを忘れたら意味がない。


「よし、できた!」


 私は、皿に盛られた料理を眺めると、満足気に頷いた。


 今日こそは大丈夫。これが……私の「ごはん」だ。



 いつもはふたりで食べるごはん。でも今日は、普段よりも人数が多い。


「旦那様と一緒に食事だなんて、恐れ多すぎて……」
「あはは。じゃあ、倫太郎ちゃんだけ帰れば?」
「やだ。絶対に帰らない」


 今日の朝食は、神使のふたりも一緒だ。いつもは十二畳くらいの和室にふたりきり、更にはお膳で食べるスタイルなのだけれど、我儘を言ってテーブルを用意して貰った。食卓は賑やかであるべきだという私の主張に、朧が応えてくれた結果だ。


「はい、お待たせしました」


 一枚板で作られたテーブルに、私の作った朝食を並べていく。白い湯気がほかほかと上がっている料理が並ぶと、途端に部屋がいい匂いに満たされた。


「わ、美味しそう~」
「ふん、品数が少な……ぐふっ、なんでもない。櫻子、やめろって」
「……」


 私が用意したのは、少し硬めに炊いた、真っ白ぴかぴか炊きたてごはんで握ったおにぎり。海苔は、黒々として艶があり、ごはんの熱に当たった部分から、ぷんと磯の香りを辺りに放っている。それに、随分と身厚い焼き鮭。皮までこんがり焼けたそれは、薄桃色の身からふんわりと白い湯気を立ち上らせている。朝採れ卵は、甘く味付けをして卵焼きに。家庭菜園で採れた野菜を使ったぬか漬けに、春らしい菜の花のおひたしには、鰹節とマヨネーズを添えて。それに――母がよく作ってくれた、野菜たっぷりのお味噌汁。


「うちは食堂でしたから、朝は仕込みで忙しくて。手軽に作れて、冷めても美味しいものが、朝食の定番だったんですよ」


 そんなことを話しながら、朧の前にも食事を並べていく。神使ふたりと朧は、無言で朝食を見つめている。


 ――私が作ったのは、朧の普段の食事に比べると、とても質素なメニューだ。なにせ、わが家は裕福な家庭とは言えなかった。でも、これは私にとって最高の朝ごはん。素材の味をシンプルに楽しむ、母と父……そして、私が作り上げた味だ。


 受け入れて貰えるだろうか。でも、これが私の「ごはん」なのだから、受け入れて欲しい。自分の席に座った私は、そんな願いを込めて手を合わせた。ちら、と視線を朧に送る。すると、彼も手を合わせて――みんなで言った。


「「「「いただきます」」」」


 途端に各々が動き出し、好きなものに箸をつけ始めた。


「あ、卵焼きあまーい。好き~」
「信じられない。卵焼きは、出汁巻きと昔から決まっているだろうに」
「黙って食べな? 凛太郎ちゃん、うるさい」
「……ぐっ! お前、無理矢理人の口に詰め込むな……って、意外といける」


 神使ふたりは、相変わらず賑やかだ。調子よくやり合いながら、モリモリ食べる姿は見ていて気持ちいい。


 私も、おにぎりに手を伸ばす。硬めに炊いたごはん。かまど炊きだから、少しだけお焦げが混じっている。ひとくち齧ると、ほろっと米粒が解ける。この握り加減に関しては、うちの父はとってもうるさかった。崩れないギリギリを見極めて握ろ、というのが口癖だったくらいだ。


「……うん、美味しい」


 おにぎりの真ん中には、真っ赤な梅干しがひとつ。白米の優しい甘さと、梅干しの酸っぱくて塩っぱい感じがマッチしていて、朝から元気が出そうな味。


 ふと、両親が生きていた頃の騒がしかった朝の光景が蘇ってきて、懐かしさで胸がいっぱいになった。今はもう失われた光景だけれど、思い出の味を食べると、いつだって色鮮やかに思い出せる。「食」の力は、偉大だ。


 その時、ふと朧の様子が気になって顔を上げた。そして――。


「あ……」


 目にしたその光景に、思わず声を上げてしまった。


 今まで、いくら手の込んだ食事を出しても、食が進まないようだった朧。


 けれど今日は、彼の前にある皿はもう、空になりつつある。色鮮やかに煮上がった菜の花のおひたしも、お漬物も、ふたつあったおにぎりも、もうそこにはない。


 朧は汁椀に口をつけると、ほう、と息を吐いた。


「これが……これが、お前の味なのだな」
「は、はい」
「……そうか」


 朧は一度、お椀の中に視線を落とすと、改めて私を見た。


 そして、色鮮やかな赤と深い黒を持つ瞳を和らげ、形のいい口を弓なりにしならせると、どこまでも優しく、そしてどこか甘さを含んだ笑みを浮かべた。


「美味い。ありがとう」
「~~~~ッ!」


 思わず、勢いよく顔をそらす。


 何故か顔が熱い。体中に汗が滲んでいる。心臓の音がうるさい。


 ――いや、待って待って。どうした、私。なにがあった。
 両手で熱くなった頬を押さえて、自問自答する。


 相手は、化け物みたいな神様だ。人の姿の時の顔は、確かに整ってはいるけれど、恐怖に駆られたあの日のことを忘れたわけではない。たしかに、私の夫であることは間違いないが……。おや?


「夫にときめいても、なにも問題ないのでは……?」
「真宵? どうした」
「い、いいえ……‼ べ、別になにもー⁉」
「そうか。なら、お代わりを頼む」
「は、はいっ!」


 私は、朧からお椀を受け取ると、すぐさま立ち上がった。


 ――ああ、胸がポカポカする。


 先ほどの自分の変調は理解し難いけれど、私のごはんを朧に受け入れて貰えたことが、すごく嬉しい。


「あ、奥様。僕もお代わりを……」
「凛太郎ちゃんたら、文句ばっかり言ってた癖に。あ、手伝うよ。真宵ちゃん!」
「ありがとう!」


 部屋を出ようとすると、ひらり、桜の花びらが舞い込んできた。
 なんとなしに、花びらの行方を目で追う。


 すると、部屋の様子が視界に飛び込んできた。朧と凛太郎が食卓を囲んで、なにやら話している。一方的に話している凛太郎に、朧が口数少なく返事をしているだけだが、十二畳の和室には、和やかな雰囲気が流れていた。


 すると、足を止めた私を不思議に思ったのか、櫻子が声をかけてきた。


「真宵ちゃん? どうしたの?」
「ん?」


 私は僅かに目を細めると、しみじみと言った。


「朝ごはんの光景だなあって思って」
「なあに? それ」
「ふふ、なんでもない」


 私は前を向くと、お代わりを待つ人たちのために、台所に急いだのだった。