「おはようございます!」

元気よく飛び込んだ局のオフィスには、なんだか徹夜明けっぽいように疲れ果てた横田さんと市山くんに、芹奈さんがいた。

そして、全くの着崩れなく1ミリの誤差もない、完璧な状態の長島少年の姿。

どんよりとした空気が、部屋を支配している。

「昨日は、よく眠れましたか?」

少年はその笑顔だけでなく、声まで透き通っていた。

「はい」

そう答えた私の隣で、横田さんはげっそりとした顔を両手でこする。

「何か問題でもあったんですか?」

「いえ、全て順調に進んでいますよ」

私の問いかけに、透明な少年はにっこりと微笑んだ。

それなのに市山くんはうつむいていて、さくらは横を向いたまま黙っている。

「僕は、明穂さんに感謝している人間の一人なんです」

長島少年は言った。

「人生におけるライフイベントを、連続型確定変数として表すとすると、その大前提は、全ての人間は善であるということになっています」

少年は、細い腕に白い杖で歩く。

芹奈さんだけが、だまってその話を聞いていた。

「かつて、ハーバードの成人発達研究、ロバート・ウォルディンガーが行った、史上最長と言われる幸福の研究がありました」

始まった。

PP3000の謎発言。

私は居心地の悪さに、周囲を見渡す。

「相関関係があるという結論の精度に、確信的信頼がおけるのならば、それに因果関係があるのかどうかということは問題になっても、予測することには大いに役立ちます」

みんなが疲れているのは、こんな話しに一晩つき合わされたからなのかな。

「信頼できるデータを数多く集める事ができるならば、統計学的判断は数学的に行えますけど、その信頼できるデータ収集はとても難しいのです。特に暗数がからむと」

だから、こっちにそんなかわいくウインクされても反応に困る。

とりあえず愛想笑いをしておく。

「いや、すみません。僕は実際には、これは数学の問題ではなく、哲学の問題だと思っているのです」

彼は、冷たく光る透明な笑顔を浮かべた。

「ソクラテス以降、ずっと議論されてきたことが、現代になってようやく膨大なデータを元に立証されようとしているんですよ、これが落ち着いていられますか?」

だから、どう返していいのかが分からない。

「そうなんですか? すごいですね」

「ありがとう。分かってもらえなくても結構です」

彼は、見た目にはしっかりとした足取りで、くるりと背を向けた。

「とにかく、この調子でお願いしますよ。僕はいま、とても楽しんでいます」

ひらひらと舞った彼の白い手に、横田さんのパソコン画面が、不規則にゆがんだ。

「この画面の揺れ、まだ直ってないんですね」

私がそう言うと、少年はパソコン画面に視線を向けた。

小刻みに揺れるその画面は、一定時間を経て、元に戻る。

「あぁ、まぁ、システムに問題はないのですが、確かに気にはなりますよね、後で改善しておきます」

そう言い残して、杖をつく彼の後ろ姿が扉の向こうに消えた。

その瞬間、ようやく開放された緊張から、安堵のため息が広がる。

さくらが立ち上がった。

「ま、コーヒーでもいれるわね」

「いや、胃にきそうだから、お茶でお願いします」

みんなもそれに同意して、さくらは全員分のお茶をいれ始めた。

「なにかあったんですか?」

「別になにも!」

珍しく疲れたような芹奈さんが、肩をすくめた。

「なにかが起こるのは、これからだ」

横田さんの厳しい目つきが、じっとパソコンのモニター画面から離れない。

何があったのかは分からないけれども、何かがあったのは間違いない。

七海ちゃんが立ち上がり、芹奈さんに何かを話しかける。

そこに横田さんも加わって、なにかの相談を始めた。

私はその大切な何かがあった時に、ここには居なくて……。

さくらはぐったりと放心状態だし、市山くんは机に顔を埋めて寝ている。

聞くに聞けない雰囲気に、私は口を閉ざすしかなかった。